第26話:普通の人間(二)

 最初、それがなんなのか、柳には理解できなかった。


 漂う臭いには覚えがある。仕事柄、現場でたまに嗅ぐ臭いだ。決して好きになれるような臭いではなく、生臭さで喉の奥をジクジクと刺激してくる。最初の頃は臭いだけで吐き気をもようしたものだ。

 それと同じものが今、この廊下に充満している。


 青っぽいタイル張りの床に、乳白色のコンクリートの壁。

 さらにLEDライトが設置されている天井。

 それはどれも、この建物に来た時の二階の廊下と変わった様子はなかった。


 唯一の違いは、床の上にある山積みになっているものだった。

 それを喩えるなら……いや。喩える事なんてできない。


 一番上には、腕がまっすぐ立っている。その掌は天に向かってなにかを掴もうとしているかのようだった。

 その根元で転がるもう一本の腕。たぶん、手の形からしてこちらが右腕だろう。

 さらに下には、脚が二本。片方は膝があらぬ方に曲がっている。

 そして一番下に、たぶん胴体らしきものがあった。それは血をかぶりすぎて形もよくわからないが、少なくとも頭はついていない。


 さらに凄まじいのが、それぞれの切り口だった。死体を処分する時に、のこぎりなどを使って四肢を切り離す例は多々ある。しかし、目の前のこれは「切り口」と言えるほどきれいに切れていない。


(ちぎれている……)


 それは力尽くで引っぱられた結果に見えた。車にでも縛りつけて、引っぱったのだろうか。しかし、室内でそんなことができるわけがない。


(なんなんだ、これ……)


 惨殺現場を見たことはあったが、ここまで壮絶なのは見たことがなかった。あまりの衝撃に、逃避したくなる。きっと目の前のは、廃棄されたマネキンか何かだ。それに赤いペンキがこぼれて……と、考えている内にあることに気がついてしまう。

 柳は片膝をついて、目の前の死体を観察する。周りを探しても、なぜか頭だけはその場にないため、最初は誰なのかわからなかった。しかし、思い当たる節はある。


(この体つき、女性だ。それにこの服は……)


「ほむ。【稲綱 めいら】さんなの」


 柳は後ろから突然、聞こえた声に大慌てする。


「うわあぁぁぁぁ!」


 無様に喚き声をあげて、ふりむきざまに尻もちをつく。

 それでもなんとか、右手は反射的に懐に突っこんで銃のグリップを握る。

 が、ホルスターから銃を抜きだす前に、声の主の正体を知る。


「驚きすぎ。ボクなの」


「う、烏輪……ちゃん?」


 高校生の少女にみっともないところを見られ、柳はすぐさま体裁を整えようとする。しかし、尻もちをついた時、べっとりと血糊がついてしまった左手を見て、またも悲鳴をあげてしまう。


「ど、どうしてここに? 危ないじゃないか」


 ハンカチで血糊を拭きながら、柳はなんとか威厳を保とうとする。

 しかし、それさえも烏輪のため息に、一蹴されてしまう。


「危ないのは、貴方。ボクは、貴方を迎えに来た保護者」


 怒っているのか、呆れているのか。烏輪の言葉は、あまりにも淡々としていて、コールドリーディングができる柳にでさえ、感情が読みにくい。

 というより、平常心が保てていない今の柳では、誰の心も読むことはできないだろう。だから、烏輪が目の前の死体を見て何を思っているのかなど、柳には察することさえできない。


「これ、本当に彼女なのか?」


 と、聞いてしまってから、柳は後悔する。こんなこと、常識的に女子高生に聞くべきことじゃない。改めて惨殺死体を確認させるようなことを言ってどうする。やっぱり、自分は平常心を保っていない。


 だが、言われた方の烏輪は、それを気にした様子もなく、当たり前のように改めて死体を観察する。


「ほむ。やっぱり、妖術を使ったあとの妖気が残留しているの。それにこのタンクトップにズボン……見覚え、ない?」


「ある……な」


「まちがいなく彼女だと思うの……だけど……おかしいの」


 烏輪がかるく首をひねっている。

 その仕草は愛らしい。目の前に惨殺死体がなく、捻った方と逆の肩には刀を載せていなければだが。


「何が?」


「魂が、ないの」


「……死んだら魂がなくなるものじゃないのか?」


「死んで直ぐ、魂が体を離れるわけじゃないの。しかも、無念な死に方をしたら、魂はその場に長い間、漂うものなの」


「地縛霊とか、そういうの?」


「そう。……ほむ。そういえばここ、地縛霊とか浮遊霊がほとんどいないの。さっき、結界内に入ってきたのだけ。いる霊はすべて【幽鬼ゆうき】化――悪霊化しているの。いくら陰の気が強くても、不自然……」


「悪霊……」


 柳は呟いてから、稲綱のなれの果てを一瞥する。そして、その残虐さを思いだす。


「彼女もやっぱり悪霊に殺されたのか。どう見ても引きちぎられている気がするんだが、幽霊が引っぱったりできるのか?」


「多分、ボクたちが【真鬼しんき】と呼ぶ鬼もいたんだと思うの。気配が残っているの。……【幽鬼】もいたっぽいけど」


「鬼……。よくわからんけど、なんでこんな殺し方を?」


「悪霊――ボクたちが【幽鬼】と呼んでいる鬼と、【人鬼じんき】と呼んでいる鬼は、常に餓えているの」


「餓えているって、映画のゾンビみたいな感じ? でも、彼女は喰われたような痕跡は……」


「飢餓感には、二種類あるの。肉体的な飢餓感と、精神的な飢餓感。肉体的な飢餓感を持つ鬼が、人の鬼と書いて、【人鬼じんき】。有名どころで【ゾンビ】【僵尸キョンシー】、マイナーなので言えば、【餓鬼憑がきつきの亡者ヒダル】とか、足らない【生】を補おうとするように生者を喰らうの。でも、いくら喰っても満足しないの」


 話の途中で、烏輪がふと周りを見まわす。

 何かあったのかと、一緒に見まわすが柳には何も見えない。

 気になったので尋ねようとしたが、その前に烏輪が開口してしまう。


「それに対して、【幽鬼】のような実体のない鬼は、精神的な飢餓感を満たそうとするの。要するに生者が持つ、憎しみ、苦しみ、痛み、そういう負の感情を喰らうの」


「喰らうなら、幸福感の方がよくないか?」


「鬼は、悪趣味。『なんで自分だけ辛いんだ』と思っているの。他人の幸福は、嫉妬の対象。逆に他人の不幸は蜜の味。生者の苦しみを見て、一瞬の満足を得るの。しかし、自分の苦しさはそのまま。だから、次々と生者を苦しめるの。多分、稲綱さんは奴らにおもちゃにされ、とことん苦しまされて殺害。この様子だと、四肢を一つずつ無理矢理引き抜かれ、ゆっくりと恐怖させながら殺されたの」


「……な、なんて、理不尽なんだ」


 烏輪の話を聞いている間に、柳は切歯扼腕せっしやくわんしながら怒気を高めてしまう。


「そんな理不尽な理由と、人を引きちぎるなんて理不尽な力で、彼女は苦痛の中で死んだというのか!」


 そして最後は怒声になっていた。烏輪に怒鳴っても仕方がないのに、つい声を荒げてしまう。


「理不尽な理由で人を殺すのは、生者も同じなの。それより問題は、ランクCの彼女を理不尽に殺せる強さの鬼がいるということなの」


 それに対して、やはり烏輪は冷静というより、どこか冷淡だ。


「本当なら貴方も今頃、この周りにたくさんいる雑魚【幽鬼】の餌。そのポケットに入っている、強力な御守りがあるから助かっているの。でも、彼女を殺した鬼が出てきたら、その御守りじゃ無理。すぐに貴方もこうなるの。理不尽な力に、一般人は絶対に勝てないの」


 稲綱の死に様をかるく流し、まるで脅し文句のような言葉をかけてくる。柳は、烏輪のその態度が癪に障る。悪気がないことはわかっているのだが、ついつい怒りを煽られる。


「烏輪ちゃん。君はさ、平気なの?」


 心のどこかで言うべきではないと思いながらも、柳は歯止めが利かずに言葉を続ける。


「さっきまで話していた人が、目の前でこんな酷い殺され方をしているんだよ」


「ほむ。別に」


 その答えは、なんとなく予測していたものだった。

 しかし、あまりにもあっさりと答えられてしまい、柳はつい耳を疑ってしまう。


「別に? なんとも?」


「もちろん、鬼は憎いし、その所行は許せないの。けど、ボクは彼女の死を悲しまないの。もちろん、貴方が死んでも同様。ただ勤めとして、ボクは貴方を助けに、来ただけなの。だから早く戻るの」


 その物言いは、まるでプログラム通りに動くロボットを思わせた。冷淡に命令通りに動くロボット。しかし、一見そのように聞こえても、彼女の心の動きは確かに感じられる。


「なぜ、そこまで抑えこんでいるんだ……」


 思わずもらすように尋ねた柳に、烏輪が寸秒だけ顔を曇らせた。柳の意図を理解したのだ。


「普通じゃ生き残れないの……」


 しかし、すぐにポーカーフェイスを作って言葉を紡ぐ。


「人を簡単に思いやる事なんて無理。思いやった相手が鬼になった時、斬れなくなっちゃうの。だから、ボクが思いやるのは、簡単に死なない人、鬼に負けない人。兄様のように、みんなに優しくできるような強さはないの」


 そこまで聞いて、柳はやっと烏輪という女の子の本質を垣間見た気がした。

 優しいのだ。本当は、とてつもなく優しい子なのだ。でも、優しすぎるからこそ、冷徹にまでならなくてはいけない。そうでなければ、戦えないのだ。


(ああ、違う。そうじゃない。この子は、そもそも戦うべきじゃないんだ。誰か、この優しい子を救えないのか。強く。彼女より強く。そして戦いから解放――!?)


 突如、怒号が二人の間に割りこんでくる。

 それは少し離れた階段の方、たぶん下の階から聞こえていた。

 男の声だ。

 それも一人ではない。

 何を言っているかわからないが、悲鳴にも近い声が聞こえていた。

 柳は一拍だけ思考を巡らし、すぐ左胸のホルスターから銃を取りだす。


「烏輪ちゃん、君は戻って!」


「ダメなの。戻るのは、貴方……」


 柳は烏輪の言葉を聞くつもりはなかった。銃を両手で掲げ、セイフティを親指で外すと、すぐに階段に向かって走りだした。

 彼女は戦うべきじゃない。

 なら、警察官である自分が戦うべきだ。

 そう信じていた。





「……ほむぅ。困った人。強いのが来ているの。少し、痛い目に遇ってもらう方がいいのかもなの」


 だから、烏輪がそんな事を口にしていたなど、柳は思いもよらなかったのである。

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