第二節
第9話:影の者
知ってるか?
天気予報などで、「いい陽気」という言葉がよく使われるだろう。
この「陽気」の本来の意味は「天候」のことじゃない。
自分の周囲にある「気」の状態を示すものなんだぞ。
何? 「気」なんてわからんだと?
そうだな。俺も口では説明できん。
だがな、みんな持っているそうだ。
俺たちの周りにも満ちているそうだ。
むろん、俺もそんなもん見えない。
だけど、わかるんだ。
わかっちまうんだ。
おまえもこっちに来てみろ。
こいつの前に座ってみろ。
ほら。わかるだろう?
これだよ……。
今頃、事務所で書類を整理している秘書の山内でも、外で待っている運転手の川島でもいい。誰にでもいいから、そう言いたい。そして、身震いをしながら耐えている自分と代わらせたい。
ここ数日で、街の服装はすっかり変わっている。厚手のコートやダウンジャケットは見かけなくなり、明るい色のコートや薄手のジャケットを着る人がふえていた。
彼もつい先日、薄手のスーツをあつらえ、着替えたばかりだった。今年になって、若者にも人気がでた一流ブランドだ。柳葉色の鋭角的なデザインのおかげか、周りからは年齢より若く見えると言われた。小学生の孫には、「おじいちゃん、かっこいい」と褒められた。だから彼は、非常にこれを気にいっていた。
しかし今、着替えるのを早まったと後悔している。
左の庭に目をやれば、蒼天のキャンパスに蛍光ピンクのペンキを散らしたような、鮮やかな花びらを眺めることができた。そよそよ吹く風にひらひらと舞い、それらは温かいイメージを持った抽象画を次々と描いていく。
ああ。なんて外はよい「陽気」なのだろう。
(それなのに……)
庭との仕切りをすべて解放している御堂の中は、まったく違う。
涼しいというより、ぶるっと震えるような、ひんやりとした空気につつまれていた。
花冷えとは違う。
外の「陽気」に対して言うなら、自分の周りに巡らされているのは「陰気」だろう。
重い何かが、頭の上から肩にまでずっしりとのしかかっている。
それは、気持ちを蝕む。まるで「何をしても無駄」という無言の脅迫。
その元凶は、目の前にいる老僧だった。
包みこむような
双眉も双眼もきれいに弓形の老僧の表情は、まるで仮面のようで感情を読みとることができない。怒っているのか、それとも呆れているのか。少なくても、本当に笑っているわけがない。考えるほどに身が縮こまり、彼はまるで借りてきた猫のようになっていた。
普段の彼を知る者がその状況を見れば、きっと目を疑うだろう。いつも堂々とした、人生の勝者のような
いや。彼自身が一番、そんな自分を信じられないでいる。六〇を過ぎた彼は、人よりも多くの経験を積み、そして人より多くの社会的な力を持っていた。
目の前の老僧は、そんな彼に比べれば、大きな財産があるわけでもなく、社会に絶大な力を持っているようには見えない。しかも、見た目で一〇は上の老人だ。もうとっくに前線から退いているだろう相手に、普通なら自分が緊張するわけがない。
「今、お話ししたとおり、彼は私……会社の意志とは関係なく暴走してしまったのです」
しかし、彼は老僧に萎縮する。
仕方がない。目の前にいる者が、普通ではないのだ。それを彼は、よく知っていた。
「むろん私も、荒事を処理するのが得意な者たちを雇って、様子を見に行かせました。しかし、誰一人戻ってこなかった。もちろん、警察沙汰にはしたくはありません。というよりも、この報告が本当ならば、警察ができることなどはないかもしれない」
「ふむふむ。しかし、
そういうと、老僧は目の前に置かれていたA四用紙の束を手にした。そして、その数十枚に書かれた内容にもう一度、目を通しはじめる。
「私としましても遺憾です。なんとかしなければなりません。……そこで二〇年前の事件で父がお世話になった
「ふむ。会長も大変ですねぇ。……まあ、よろしいでしょう。今回の件、お引き受けしましょう。お布施はいただきますよ」
「心得ております。後ほど、必要経費と共に」
そう答えるとすばやく立ちあがり、彼は御堂の玄関口まで早々に向かった。
早くでたい。
もう、この陰気に晒されるのは辛い。ここにいたら、意味もなく死にたくなりそうだ。
「ああ。一つだけ申し上げておきます」
しかし、はやる心に反して、背中を向けたままピタッと動きが止まってしまう。まるで、老僧の声一つで、魔法でもかけられたようだった。
「な、なんでしょう?」
「いやなに、老婆心ですよ。今回の原因となった
「いや、それは――」
「あなたは無限に湧きでる油田を掘り当ててくれさえすれば良かったのでしょうけど、あの蓋は開ければ災いが必ず招かれる」
「…………」
「儲けを求めるのはけっこうですが、次はないですよ。仏の顔は三度までかもしれませんが、拙僧は仏ではありません」
「…………」
彼は答えられず、スーツの中にじっとりと汗をかいていた。
何を言い訳しても、無理だとわかっていた。「ばれている」とわかった。だから、唇が震えるだけで開かない。
「な~に。今回は任せておきなさい。場所的にもちょうど良い奴がおりますからな」
「……失礼します」
精一杯それだけ言って、彼は玄関から足早に出ていき、待たせていた黒のリムジンに乗りこんだ。
郊外にある、とあるボロ寺。その名を【
その玄関で不釣り合いな車を見送った老僧は、おもむろに袈裟を正した。
そして誰もいない背後に、先ほどと違った気楽そうな声をかける。
「触れてはいけないものほど触れたくなるのは、人の性。……そう思いませんか?」
その老僧の語りかけに応えるように、一つの影が御堂の中に現れた。
「まあ、放置して【黒の黙示録】がはやまっても困りますねぇ。悪いけど、ちょっと片づけてきてください。あなたたちには、ちょうどよい戦場でしょう」
御堂の中の影が、かすかに笑うのを老僧は感じていた。
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