最終章 魔法使いと珈琲を
10-1
「何それ! おじいちゃんちょっと可愛いー!」
4人掛けの食卓に向かい合わせで座った千鶴が、麦茶を片手に興奮している。
父と母は夕飯の買い出しがてら16年振りのデートに行ってくると言って(どっちがそう言ったのかはもう言わずもがなだろう)、出て行った。
『会わせたい人がいる』
このフレーズで父のことだと瞬時に察した千鶴は、うきうきと手土産まで持参し、いそいそとチャリをかっ飛ばしてやって来た。
しかし、タッチの差で父の姿を拝むことは叶わず、お楽しみはしばしのお預けとなったのである。
「可愛くねぇよ! 俺死ぬかと思ったんだぜ?」
「あっははー、ごめんごめん。でもさ、一件落着なんじゃないの? おじさんも戻って来てくれたんだしさ。――で、おじさんって結局どこにいたの?」
それについては正直俺も少々納得がいかないというか。
「……カップ」
ぽつりと言って、麦茶を一口飲む。
「――え?」
「母さんのコーヒーカップになってた」
「えぇ――――――――っ?!」
***
「――カップぅ?」
16年振りに家族水入らずで4人掛けの食卓に着く。
母の真向かいの席は俺の指定席だったが、その座は父に返上することにした。俺はその隣に座っている。
「そう、佳菜子のカップにね」
父は16年振りに自分のカップで、母が淹れた薄めのコーヒーを飲んだ。ゆっくりと、味わいながら。
「最初は、少し遠いところにいたんだ。あまり近いと、祥太朗が気配で怖がるかもしれないと思って」
食卓の上に置かれた白いカップからはほかほかと湯気が上がっている。父は両手を温めるかのように、そのカップに手を添えている。
背中を温めてくれたその繊細ながらも大きな手を凝視する。
あんなに温かかったのに、父自身は冷えているのだろうか。いや、冷えている、というよりはぬくもりに飢えている、というのが正しいのかもしれないが。
「でもある日、佳菜子が洗い物をしている時に、そのカップがわずかに欠けてしまったのを見て……」
見た……。
母さんの目を通して見たのだろう。
「佳菜子はどうやら気付いていないようで、そのまま片付けてしまったんだけど、このままだと飲む時に唇を切ってしまうかもしれないし、洗う時だって危ない。その頃には君も洗い物を手伝ったりしていたからね」
「信吾さんたら、ほんっと過保護よねー」
相変わらず母はケラケラと笑って茶化す。
おいおい16年振りなんだろ? 少しは優しくしてやれよ。
「だから、僕がカップになることにしたんだ」
***
「じゃあおばさんは、知らずにそのカップを使い続けてたってこと?」
「ところがそうでもないんだよなぁ、これがさ」
***
「なーんだよ、母さん、こんなに近くにいたのに気付かなかったのかよ。妻の勘ってのも案外役に立たねぇな」
母と父のちょうど中間くらいの濃さのコーヒーを啜りながら、俺は笑った。いつもの仕返しだとでも言わんばかりに、せいぜい嫌味たらしく。
「ちょっと待ってよ。アンタ母さん舐めんじゃないわよ。1回でも、母さんのカップ使うこと許可したことあった?」
「――え?」
そう言われると、たしかに。
そうだ、この間も結局カップは取り替えたのだ。
「気付いていたのかい?」
父も驚いたようだった。目をまんまるに見開き、口をあんぐりと開けている。何だよ、人間らしい表情すんじゃんか。こんな表情はなかなかレアである。
「だいーじな大事なカップが欠けたのよ? 気付かない方がどうかしてるわよ。第一、こんなに見えすぎる目をくれたのは誰よぅ」
そういうと母は口をとがらせ、ノベルティのマグカップで濃いコーヒーを一口飲んだ。不服そうなのは父の返答に対して、というよりもそのマグカップを使わざるを得ないこの状況に対してのような気がした。
「そうか、僕が作ったんだった……」
「父さんもいま気付いたのかよ!」
「……ってまぁ、言ってみたけど、自信はなかったのよ? 見間違いだったかもしれないって。でも、もしかしたらって思ったら、やっぱり人には使わせたくないじゃない? 祥ちゃんだって、父さんとチューしたくないでしょう?」
母が俺に向けてウィンクをする。御丁寧に、唇まですぼませて。
それは……嫌だ。
――と俺が答えるより先に、真顔できっぱりと父が言った。
「たとえ息子でも、佳菜子以外は僕が嫌だ」
え――……っと、あの、そういうのは俺がいないところでお願い出来ませんかねぇ。
***
「ででで出たー! おじさんの天然発言ー! 息子に対しても容赦なーい!」
千鶴が叫ぶ。何でこいつはこんなに嬉しそうなんだよ。
「まぁ、そんなわけで、自信が無いながらも、もしかしたらって気持ちでカップを使い続けてたらしいんだよな。でも父さん人型になっちゃったからさ、当然、そのカップももうないわけよ」
「じゃあデートがてら新しいペアカップ買ってくるんじゃない?」
「何でだよ。父さんのはまだ無事なんだから、母さんのだけでいいだろ?」
「わかってなーい! 女心ぜんっぜんわかってなーい! ペアだから良いんじゃーん! 同じの使いたいじゃーん!」
そう叫ぶと、食卓に両手を突いて身を乗り出し、顔をぐっと近付けてきた。
急な接近に胸が高鳴る。
これは、アレか? キスすれば良いのか? でも、このタイミングで?
あれやこれやと考えていると、千鶴がにんまりと笑った。
「賭けようか。あたしはペアカップを買ってくる方に賭ける」
「えっ……。の、乗った……」
あっぶねー、あと一歩で脈絡もなくキスするやべぇやつになるところだった……。
「でも、何を賭けるんだ?」
「そうだなー、来週一週間、下校時の大判焼きなんてどう?」
「安っ! そんなんでいいのかよ」
大判焼きなんて、1個100円もしないじゃないか。
「じゃあ何が良かったのよ。あたしだってそんなに持ってないんだから!」
「持ってないって……、自信無いのかよ!」
「んー、一応ね、い・ち・お・う」
千鶴は椅子に座り直し、ふぅ、と息を吐いた。
「……でさ、これから祥太朗はどうすんの?」
急に千鶴のトーンが下がる。
「どうするって、何がだよ」
お互いのコップが空になっていることに気付き、麦茶を取りに冷蔵庫に向かう。
「魔法の練習するの? おじさんに習って」
それぞれのコップになみなみと麦茶を注ぐ。
「んー、どうかな。のんびりやるよ。千鶴もいつか、舟に乗りたいだろ?」
「乗せてくれるのっ?」
千鶴の顔がぱぁっと明るくなる。
「何年かかるかわかんねぇけど。それでも良いなら」
「ねぇ、じゃあさ、身体の一部を使って指輪を作るってやつは?」
「うーん、それって俺でも出来んのかな。何かすっげー難しそう。……って、あ? ……指輪……?」
千鶴はニヤニヤしながら俺を見つめている。
それって結婚指輪の話だろ!
「そそそそそれは、もっともっと先だよ! まだまだ先!」
両手を顔の前で振りながら、俺は言った。もちろん赤面のオプション付きで。
「えー、あたし、おばあちゃんになっちゃうじゃん!」
千鶴は口をとがらせる。何だよ、お前は俺の母さんかよ!
「そーよぉ! あんまり待たせたら、逃げられちゃうんだからぁ!」
勢いよくリビングのドアを開けて、母が入ってきた。
――聞いてたのかよ!
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