8-4
***
「あら? あららら……。やぁーだ、さっきのパキってこれぇ~?」
佳菜子は亀裂が入ったカップをゆっくり持ち上げた。
にじみ出ているコーヒーをティッシュで拭き取り、新聞の読み終えたページで優しく包む。
コーヒーはすっかりぬるくなっていたので、これ以上被害が拡大しないように、その状態のまま、ぐいと飲み干した。
新聞紙に包んだカップは学習机の隅に置いた。大事なカップだ。捨てるわけにはいかないので、後できれいに洗い、どこかへ飾ることにしようか。
結構ガサガサ音立てちゃったなぁ、祥ちゃん起こしちゃったかなぁ。
ちらりと祥太朗を見る。
さっきから微動だにしていない。
そんなに爆睡なのかしら。
席を立って、そぅっと寝顔を覗き込む。
本当に良く似ている。会いたいなぁ。
『僕も、会いたかったさ』
どこからか声がした。
この声は……。
「――信吾さん?」
そう言って辺りを見回した。しかし、どこにもその姿はない。
『ごめんね。まだもう少しかかるんだ』
「かかるって、何よ? どうして祥太朗の夢には出て来るのに、あたしには会いに来てくれないのよ!」
姿が見えないので、どこに向かって話したら良いのかわからない。
佳菜子は部屋中をぐるぐる回りながら叫んだ。あまり大きな声を上げると祥太朗が起きるかもしれない。そんなことはもう、頭になかった。
『残念だけど、それは僕じゃないんだ。祥太朗が危ない。必ず連れて戻るから、もう少しだけ待ってて』
「僕じゃないって……じゃあ誰なの? 祥太朗が危ないってどういうことなの?」
『ごめんね。ゆっくり説明したいけど、時間が無いかもしれない。必ず祥太朗を連れて戻るから』
「ちょっと待って! 信吾さんっ!?」
それきり、声は聞こえなくなった。すぅ、すぅ、という祥太朗の規則的な寝息だけが聞こえる。
「祥太朗?」
名前を呼んで身体を揺すってみるが、ぴくりとも動かない。
「祥太朗!?」
もっと大きな声で呼びかける。ごめん、と心の中で詫びながら頬を叩く。
しかしそれでも彼は目を覚まさない。
いってぇな、何すんだよ母さん。
いつもなら、寝ぼけ眼を擦りつつ、そんな憎まれ口を叩くはずなのに。
「祥太朗っ! 祥太朗っ! 祥太朗ぉぉっ! どうして起きないのよぉぉぉぉおっ!」
佳菜子は祥太朗の胸に顔をうずめ、泣きながら叫んでいた。
***
「止めろって言ってんだろ!」
「なーによぅ、せっかく母さんになってあげたのにー」
目の前には口をとがらせた母さんがいた。いや、母の姿になった祖父だ。こちらは先の父とは違い、毎日一緒にいるだけに、見た目も、声も、話し方も、所作もそっくりだということは認めざるを得ない。
「止めろって! 俺の母さんは1人だけだ! 父さんだって1人だけなんだよ!」
殴りかかろうとして、止めた。
例えそれが母さんじゃなくても、傷付けることは出来ない。
俺はたった1人の息子だし、ほとんど唯一とも言うべき家族だ。
母さんはずっと笑わせてないとって、ケツの青い――っていまもだけど、いまよりもっともっと真っ青なころに決めたんだ。
だから。
だけど――。
ちっくしょう!
「――そうだ。佳菜子は1人だけだ」
俺の背後から低い男の声がした。
この声はさっきも聞いた。父の声だ。
俺はゆっくりと振り向いた。
そこにはまた、着流しを着た父が立っている。
「何だよ……。分身も出来んのかよ、じいちゃん……」
祖父が2人となれば、俺にもう勝ち目なんてなかった。
もっとも、1人でも勝てる自信は皆無なのだが。
「祥太朗、僕だよ。随分会ってなかったけど、父さんだ」
「またそんなこと言って! どうせまた俺のこと試してるんだろ? もうたくさんだよ!」
そう叫んでその場にうずくまった。
もう何も信じられない。
誰の声も聞きたくなかった。
「アンタ……どうして来れたのよ。親も見つけられないような半人前のくせに!」
「良い加減その姿はやめてください、お父さん。僕は佳菜子に罵られたくないんです」
「お父さんだと? 親子の縁を切ったのはお前の方だろう!」
そう言って、母の姿をしていた祖父は、ふ、と消えた。
『祥太朗よ。今度は本物のお前の父だぞ。今度は本物を偽物呼ばわりか。これだから人間は』
祖父の高笑いが聞こえる。
何だよ、今度は本物だったのかよ。
それなのに、俺、疑っちゃったよ。
本当に親子の絆なんて、ねぇんじゃねぇの。
歯を食いしばって泣くのをこらえていたが、固く閉じた瞼からは涙が溢れてきた。
何だよ、俺、すっげぇ情けねぇやつじゃんか。
「大丈夫だよ、祥太朗。佳菜子が待ってる。一緒に帰ろう」
父はそう言って、俺の頭をそぅっと撫でた。こんな状況には似つかわしくない、ちょっとのん気な、穏やかな声だった。
顔を上げると、腰をかがめて優しく微笑む父の顔が見えた。着物の袖がめくれて、大きな傷痕が見える。痕とはいえ、ざっくりと裂けた皮膚に薄い膜が張られているというような状態で、かなり痛々しい。
『帰るだと。何を言っている。祥太朗は帰さんぞ。お前なぞ私が取り込んでくれる』
びゅうう、と強い風が吹く。
目に見えるはずなんてないのに、それはとても大きな塊のように感じられた。
その風の塊は大きく大きく円を描きながら、どんどんとさらに勢いを増していくようだった。
父は立ち上がって、風の動きを目で追っている。やはり魔法使いには見えるのだろう。
足元からひゅうう、ひゅうう、と風が吹き始め、父の着物の裾がふわふわとなびいた。そして、爪先の方から少しずつ消え始める。父もまた少しずつ風に変わっていくようだ。
行くんだろうか。
あの祖父――つまり、自分の父親と対峙するために。
「父さん……大丈夫なのか……?」
風に変わりきる前に、そう聞いた。
「僕を誰だと思っているんだ?」
胸のあたりまで風になった父が、微笑む。
映画やアニメで見るような、死亡フラグをさんざんに立ててから戦地に赴く軍人のような、どこか無理をした笑顔ではなかった。
本当に何気なく、ちょっとコンビニに行って来るね、というような、肩の力の抜けた、ほんわかとした微笑みだった。
「偉大なる……魔法使い……だろ?」
「そうだ。そして……」
『君の――、父さんだ』
その言葉を最後に、父は風の塊になった。
そして、祖父の風と混ざり合って、俺にはもう見分けがつかなくなってしまった。
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