8-2
***
俺はもう何度も水柱に挑戦していた。
しかし、どうしてもこの湖への敬意と感謝がわからない。単なる『水』へとしての敬意や感謝はあるものの、それだけではあの公園で出来たような大きさの水柱にはならないのだった。馴染みのない場所だから――というのは完全に言い訳だけれども。
俺の後ろでは、父が無言で立っている。
ちらりと後ろを見て、その表情を伺ってみるが、父がいま何を考えているのか、さっぱりわからない。無表情なわけではない。目が合えば微笑むくらいはしてくれる。それでも。
結構な時間をそうして過ごした。
「うまくいかないみたいだね」
もう数えきれないほどの失敗の後、父が口を開いた。どことなく暗い声だった。
がっかりさせちゃったかな、と思った。
申し訳ない気持ちで、もう父の顔を見ることが出来ない。
じゃり、じゃり、と足音がする。左の耳元に生暖かい風が吹く。
「お手本を見せてあげよう」
いつのまにか、父は俺の隣にしゃがんでいた。見とれるような優雅な所作でゆっくりと水面を撫でる。
「月の辺りを見ていてごらん」
父のまっすぐに伸びた細く長い指の先――つまり、視線を湖に映った満月に向けた時、ごぼごぼと満月が沸き立ち、一瞬で天高く水柱がそびえた。
「すっ……げぇ……」
思わず立ち上がり、水柱の先を見ようと数歩下がる。
しかし、月にまで届きそうなその柱の先はもやがかかっていて良く見えない。
自分とは桁の違うその力に身震いする。
月の光を浴びてキラキラと輝いている水柱を、その美しすぎる光景を、恐ろしいとさえ思った。
「――これが、偉大なる魔法使いの力だ」
目の前でしゃがんでいたはずの父は、いつの間にか背後に立っていた。俺の両肩に手を乗せ、右の耳元でささやく。
「僕が、怖いかい?」
「何で……そんなこと……聞くんだよ」
精一杯虚勢を張ってみたが、声は震えていたかもしれない。少なくとも、この時たしかに俺は、この父を『怖い』と思った。
「震えているね。怖いんだろう?」
一際低い声で、今度は左の耳元でささやく。
「もっとすごいものを見せてあげようか、祥太朗」
俺は父を見ることが出来なかった。
歯の根が合わない。
父に対して、もはや『恐怖』しかなかった。
生後半年の俺は、こんな気持ちだったのだろうか。
***
午前2時。
佳菜子はすっかり冷めきった信吾のコーヒーを名残惜しそうにシンクに流し、空になった自分のカップと一緒に丁寧に洗った。乾いた布巾で水気を拭き取る。
いまごろ祥太朗は夢の中であなたと会っているのかしら。
ねぇ、直接見る自分の息子って良いものでしょう?
どうして同じ目なのに、あなたが見る景色はあたしには見えないの?
いまあなたは祥太朗とどんな景色を見ているの?
当然のように反応が返ってくることはなく、ダイニングは静寂に包まれている。
2つのカップを食器棚に戻し、「明日の朝食は遅くなるだろうし、あたしも寝坊しちゃおうかな」そう呟いて、佳菜子は自分の部屋へと向かった。
***
「水柱の次は、竜と言ったよね」
父は俺の肩から手を離し、また、じゃり、じゃり、と音を立てて湖の方へ歩いた。
しゃがんで水面を撫でる。
あの強大な力でどんな竜を作るのだろう。
昨夜と同じ竜であればまだ免疫があるような気がした。それに、母も湖で竜を見たという。俺は正直、母ほどの度胸はないが、父の作る竜はこちらに絶対危害を加えたりしないし、怖くはなかったと言っていたのだ。
でも手を繋いでいてくれたんだっけ。さすがに息子相手に手を繋いだりはしないか。
父はしゃがんだまましばらく動かなかった。また満月の辺りを見れば良いのだろうか、と湖の中央を凝視する。わずかに満月が盛り上がったような気がした。
恐る恐る湖に近づく。
水面が呼吸をしているように上下している。
やがて、満月を中心に湖が渦を巻き始めた。
渦はだんだんと1匹の大蛇になり、手足が生え、角が生え、口が裂け、立派な髭が風になびいていた。
気付くと昨日見た竜が湖の中央に浮かんでいた。
昨日と同じ形ではあるが、昨日の物と違って、うっすらと身体が透けている。
どうしてだろう。昨日はもっと近くにいたのに、こんなに離れているこの竜がこんなに恐ろしいなんて。
俺はしばらく、湖の竜から目を離せないでいた。
絶対に危害は加えない。絶対に危害は加えない。
何度も自分にそう言い聞かせた。そして、何度も深呼吸をしようとした。
何度か浅い呼吸を繰り返し、やっと深呼吸らしきものが出来るようになった。不完全ではあるものの、とりあえず深く息を吸えたことに、安堵する。心臓はまだバクバクと脈打っていたけど。
それでも呼吸が整うと、ほんの少し、本当に少しだけ恐ろしさが軽減された気がした。
「――あれ?」
一瞬のうちに竜は消えていた。
それどころか、父の姿もない。
風も止んで、また無音の世界となった。
月の光が、湖を照らしている。
「父さん? どこに行ったんだ? 俺がまた怖がったからか? またいなくなっちゃうのかよ!」
俺は辺りを見回しながら叫んだ。
ごめん! 父さん。
俺、怖くないって、ヨユーだって言ったくせに。
情けねぇよな。ごめん、こんなビビりの息子で。
もうどこへ行ったらいいかわからず、湖の方へ歩いた。
しゃがんで、水面に自分の顔を映す。
母に似た、自分の顔。俺が父に似ているのは指先だけなのだろうか。
――ふと。
水面の中の自分の顔が微笑んだような気がした。
風もないのに、ゆらゆらと揺れている。
揺らめきで俺の顔が崩れ、再び水面が鏡のようになった時、それは、父の顔になっていた。
「――え?」
水面に映った父の顔は丸く盛り上がり、俺の眼前に迫ってきた。
「――な、何だ?」
『君はもう、この夢から出られない』
父の顔は、笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます