第8章 いだいなる魔法使いの息子
8-1
気付くと俺はまた同じ森の中にいた。
「やった、やっぱりただの夢じゃなかったんだな」
しかし、今回は先導してくれる動物がいない。昨日の続きであれば、今日はヘビからのスタートかと思ったのだが。
誰も導いてくれないとなると、どこへ行ったら良いのかさっぱりわからない。道らしい道もなく、俺は途方に暮れた。近くに切り株を見つけ、腰をかける。
森の中なのに、動物の鳴き声すらない。あるのは、月の光と、心地良い風とその音だけ。
どれくらいそうしていただろうか。風がぴたりと止んで無音になった。こうも静かすぎると何だか恐ろしい。
そのうち、完全なる無音の中に、じゃり、じゃり、という足音が聞こえてくる。父だろうか。
どこから来るんだ?
四方八方を見渡してみたが、どこにもそれらしい姿はない。
しかし、足音はどんどん近づいて来る。
もう、すぐそこまで来ているのだろうか、音はぴたりと止んだ。
「父さん? どこにいるんだ?」
眼前に広がる暗闇に向かって叫ぶ。
『ここだよ、祥太朗』
最後の足音は前方から聞こえていたように感じたが、その声は背後から聞こえた。
優しく、しかし急に聞こえてきた父の声に、飛び上がる。
そして、恐る恐る振り返った。
「そんなにおびえないで。僕だよ」
目の前には、着流しを着た男が立っていた。
髪はまっすぐ長めのショートで、前髪がやや目にかかっている。
辺りが暗いため、髪の色も着流しの色もよくわからなかった。
「父さんなのか?」
「そうだよ。久しぶりだね、祥太朗」
そう、久しぶり、なのだ。
少なくとも、俺は産まれてから半年間、この人に抱かれていたのだから。
しかし、まったく記憶がないため、『久しぶり』という響きに違和感がある。どちらかといえば『初めまして』の心境だった。
「俺的には、ぜんっぜん久しぶりじゃないんだけどな」
父と名乗った着流しの男は何も言わず、ただ笑っていた。
「父さん、どうして夢の中なんだ? 母さんも会いたがってるのに」
「僕が君の夢に来たのはね、君を立派な魔法使いにするためなんだ。現実の世界でもちゃんと僕を見つけられるようにね」
やっぱり魔法使いにとっては、見つけるということが重要らしい。
「父さん、俺今日さ、水の量を増やすやつ出来たんだよ。学校の手洗い場でも出来たし、公園の噴水ですげぇ水柱も作ったんだぜ!」
早速、今日の『武勇伝』を誇らしげに話すと、父はそれを頷きながら聞いている。
「頑張ったね、祥太朗。でも、それだけじゃ駄目なんだ。もっとうまく扱えるようにならないと。君の形も変えられるようにならないと」
「もっとうまく? 形も?」
「大丈夫、時間はたっぷりあるから。僕が先生になってあげるよ」
父は終始微笑んでいたが、俺は形容しがたい不安と違和感がぬぐいきれなかった。
何だろう、このモヤモヤは。
それからは、父の先導で歩いた。
森の中をしばらく歩くと、闇夜の中にキラキラと光るものが見える。歩みを進めると、それは大きな湖だった。
真ん中にぽっかりと満月が浮かんでいるようである。
「着いたよ」
父は立ち止まって、ちらりとこちらを見た。
月の光が湖に反射して彼の横顔がかすかに照らされる。
改めてその顔を見て、やっぱり俺って母さん似なんだな、と少し残念に思った。そう思うくらいの
「ここで何すんの?」
「まずは、今日出来たっていう水柱を見せてくれないか。それが出来たら、この水で竜を作れるように。それが出来たら次はこの湖と同化できるようにする」
何だか父は焦っているように感じられた。
俺が魔法使いになるのに、もしかして期限とかあったのかな。
だったら急がないと。
***
こんなに静かな夜は久しぶりだった。
4人掛けの食卓の上にノートパソコンを広げて、佳菜子はカフェオレをお供に執筆作業中である。
本当は濃いコーヒーが飲みたかったが、今日はすでに2杯飲んでしまっている。
最近は、夕食後も祥太朗と一緒にコーヒーを飲みながら談笑することが多くなった。
コーヒーが飲めなかったころは、さっさとリビングに向かって、テレビのリモコンを探していたのに。
大して見たい番組があるわけでもないくせに。
そう思って、佳菜子は少し笑った。
最初はミルクと砂糖がなければ飲めなかったが、いまでは、もう子供じゃねぇんだ、なんて言って、いっちょ前にブラックコーヒーを飲んでいる。でも、大人びた発言をする割には、母親を煙たがらず、よく付き合ってくれていると思う。
スーパーの鮮魚コーナーで顔見知りになった店員さんは、ウチはご飯すら一緒に食べてくれないのよ、と嘆いていた。たしかその息子さんはまだ中学生だったはずだが。
あなたに似て、優しい子に育ったわね。
かつては信吾が座っていた、佳菜子の真向かいの席は、いまでは祥太朗の指定席だ。そこに白いカップを置く。これもかつて信吾が愛用していたものである。佳菜子の物と対になっているそのカップに薄めのコーヒーを作る。信吾はこの薄めのコーヒーをよく飲んでいたのだった。
料理をまともにしたことがなかった佳菜子は、もちろんコーヒーの淹れ方もよくわからなかった。幸い、インスタントコーヒーのラベルには作り方や分量が描いてあったので、粉についてはその表示通りの量を入れば良かった。しかし、お湯を入れるという段になって、カップに溢れんばかりの湯を注いでしまったのだ。
なぜなら、その当時、計量カップというものがことごとく割れたり、ヒビが入ってしまったりして使い物にならなかったからである。それが誰の手によるものかは言わずもがなであるのだが。
それに、少々多く沸かし過ぎ、勢いよく湯が飛び出してきたことも敗因であったのだろう。
結果として薄いコーヒーが出来上がってしまったわけだが、信吾は佳菜子の気持ちが入ってさえいれば、だいたい何でも美味しいらしく、彼女が上手にコーヒーを淹れられるようになってからも、初めて飲んだ薄めのコーヒーを好んで飲むようになった。
反対に、佳菜子はその失敗を活かそうと、コーヒーの粉を多く入れ過ぎたことがきっかけで濃いめのコーヒーを飲むようになったのだった。
飲む人のいないコーヒーはあっという間に冷めてしまったが、佳菜子はその湯気が消えてしまった後も、カップを見つめていた。空になった自分のカップもその隣に置いてみる。
ねぇ、あなたはやっぱりここにいるのかしら。
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