第4章 消えた魔法使い
4-1
家に戻ると、どちらともなしにダイニングに向かい、食卓に着いた。
もちろん、夕飯を食べるためではない。
さっきのファミレスで何となくお代わりを我慢したコーヒーを飲むためである。
そして、さっきの話の続きをするためでもあった。
またしてもじゃんけんかと身構えていると、「次は母さんの番よね」と言って、母がコンロへ向かった。まぁ珍しいこともあるものだ。
湯気を立てたカップが俺の前に置かれる。飲み始めたころはどうしてこんなに苦いものを、と思ったが、慣れてくるとこの苦さがたまらない。
ミルクと砂糖はもう必要ないよな。俺だってもう子どもじゃないんだ……。
「――って、これミルクも砂糖も入ってんじゃん! もー無くても飲めるっつっただろ!」
「あら、そうだったっけ? ごめんごめん。じゃあ母さんの方と交換しましょ。こっちにはミルクも砂糖も入れてないから。――ほら」
そう言って、自分のカップを食卓に置く。
やや警戒しながら手に取って臭いを嗅ぐとたしかにこちらはブラックコーヒーのようである。
じゃあいただきます、と口をつけようとした瞬間「ちょっと待って!」とストップがかかった。手には空のマグカップを持っている。何かのノベルティグッズであるそのマグカップは食器棚の奥にしまわれていて、平時はほとんど出番がない。
「あたしそのカップじゃないといや! こっちのカップに移し替えて!」
――ほんと、子どもかよ。
別に俺はカップにこだわりなどないので、ノベルティグッズのマグカップで、母用に淹れられたコーヒーをごくりと飲んだ。
「――にっげぇ! 何だこれ!」
そういえば、母のコーヒーはいつも濃いめに作っていたことを思い出す。
「はっはー、これが大人っつうもんだよ、祥太朗君」
母は、勝ち誇った笑みを浮かべて俺用のコーヒーを飲んでいる。いつものと比べてさぞかし薄いことだろう。
「いや、こんなの飲んでたらいつか胃に穴開くぞ」
やむを得ず、お湯を多めに足す。
何だよ、母さんいつもこんなの飲んでんのかよ。
「ほんとよねー、でも濃いのは1日に2杯まで。それ以外はカフェオレって決めてるの、あたし」
にこにこと笑いながら、地獄のように苦いコーヒーを飲む女。そっちの方が魔女だろ。
やっと飲めるくらいの濃さになったところで、もう一度同じ質問をする。
「でさ、何で父さんは消えちゃたんだ? 何かあったの?」
「……はー、やっぱりこの話になるよねぇー」
「なんで溜息ついたんだよ。母さんなんかやらかしたのかよ。もしかしてあれ? ケンカとかして『アタシ、実家に帰らせていただきます!』系なわけ?」
「……アンタには父さんがそういうキャラに見えたのかしら?」
「いや、そんな感じじゃないけど。何か母さんこの話避けてる感じだからさ。もしかして母さんが何かやらかしたのかと思って」
「そういうんじゃないのよ。そういうんじゃないんだけどね。あの後、お義父さんがいなくなった後なんだけど――……」
★★★
風が止んでも、佳菜子はその場に立ち尽くしていた。時間にして、おそらく数十秒ほどだっただろう。
目の前で起こっていたことが信じられなかったのだ。
これまでも、不思議な光景はたくさん見てきた。
砂浜で作ってくれた大きな城。
湖の水で作った大きな竜。
空気をぎゅーっと集めて舟を作り、空を飛んだこともある。
しかし、そのどれも恐ろしいと感じたことはなかった。
どんなに恐ろしい竜でも、信吾が作ったものならば、こちらに危害を加えることは絶対にないとわかっていたし、佳菜子が怖がりそうな巨大な生き物を作る時は、彼女をうんと遠くに移動させるか、もしくはずっと手を繋いでくれていたからだ。
だから、単純に、自然現象は恐ろしいし、しかもそれが絶対に起こるはずのない室内でとなれば、身がすくむのも当然だった。
やっと体が動くようになると、佳菜子はふらつきながらも2人に駆け寄った。
「どうしたの? さっきの何? 祥ちゃんは大丈夫? 信吾さんも血だらけじゃない!」
そっと祥太朗の胸に手を当てる。すう、すう、と寝息を立て、それに合わせて胸が上下している。ドクドクと力強い鼓動も伝わってくる。どうやら祥太朗は無事らしい。
「さっき、僕のお父さんが来たんだ」
「――え? それで、いまどこに?」
辺りを見回すが、どこにもそれらしいものはない。いや、信吾の父ということは魔法使いであるわけだから、何かに『擬態』しているかもしれないわけだが。
「もう消えちゃったよ。きっともう来ない。だからもう大丈夫だよ」
両腕から血を流しながらも、信吾はいつもと変わらぬ優しい笑みで、穏やかに言った。
「もう来ないって、どうして? あたし挨拶もしてないのに」
「祥太朗を連れていこうとしたんだ。人間との間に生まれた子どもは魔法使いの子どもって認められないって」
そう言うと、悲しげな顔で祥太朗を見つめた。白く、ふくふくとした頬に触れようとして、自分の手が血まみれであることに気付き、止めた。
「そんな……」
「だから、親子の縁を切った。僕はもう親を探したりなんかしない。僕は、普通の人間になることは出来ないけど、精一杯、祥太朗の父親をやるよ。親だからといって、無条件に敬えるわけじゃないからね。僕は祥太朗に敬われる父親にならないと」
無傷で済んだ身体の組織を使って何とか止血だけはしたが、さすがに完治させるにはもう少し時間がかかりそうだった。
改めて祥太朗の頬にそぅっと触れる。彼の肌は柔らかく、すべすべとしている。
そのまま撫でようとした時、祥太朗はぱちりと目を覚ました。
「あら、祥ちゃん起きたのね。お腹空いたかしら。いまミルク作ってくるから、信吾さんちょっと見ててくれる? でもその手だと抱っこはちょっと無理かしら」
「大丈夫だよ。問題ない」
祥太朗の頭の下に左手を、そして抱え込むようにして右手を背中に差し込んだ時、彼は突然、火がついたように泣きだした。
「ちょ、ちょっとどうしたの? なんか尋常じゃない泣き方なんだけど!?」
ダイニングでミルクを作ろうとしていた佳菜子が、空の哺乳瓶を持ったまま飛んできた。
「いや、わからない。初めてだ、こんな風に泣くのは。一度下ろした方が良いのかな、それとも、揺らしてみる?」
「どうしたのかな、とりあえず、抱っこ代わるわね」
佳菜子が抱っこを代わると、あっさりと祥太朗は泣き止んだ。キャッキャと笑ってさえいる。
もしかして……と信吾に渡すとまた泣き出す。
「……もしかして、僕のことが嫌いになったのかい? 君も……僕のことが怖いのかい?」
佳菜子に抱きかかえられた祥太朗の顔を覗き込むと、やはり火がついたように泣く。これはもう疑いようがなかった。
「きっと、この子にばれてしまったんだ。僕が人間じゃないって。何か恐ろしいものにでも見えているのかな。――ねぇ、僕はちゃんと人間の形でいるよね……?」
いままで見た中で一番悲しい顔だった。いまにも涙が零れ落ちそうである。
「もしかしたら、これが魔法使いの親に与えられた試練なのかな。いまが消えるタイミングなのかもしれない。きっと、魔法使いの子どもは、親が恐ろしい何かに見える瞬間があるんだ。そうなったら、自分の子どもが、自分を怖がらなくなるまでに成長して、見つけに来てくれるまで姿を消してしまうんだよ」
信吾は一息にそう言った。
祥太朗は佳菜子の腕の中で笑っている。
いつもなら、首を動かして自分にもその可愛い笑顔を向けてくれるのに。いまは頑なにこっちを見ようとしなかった。
「どんなに上辺だけ繕っても、わかっちゃうんだね。でも僕は幸せだよ。離れていても、君の目があるから、いつだって祥太朗を見ることが出来る。君の顔も見たいから、毎日鏡を見てほしい。1日に1回でも良いから、僕に向けて笑ってくれるかい?」
佳菜子は何も言えなかった。
ちゃんと人間の形をしているわ。
そう言いたかった。でも、形は人間でも、やっぱり信吾は普通の人間じゃない。
「約束だよ。笑顔を見せて。祥太朗は魔法使いになれないかもしれないけど、もしかしたらもう会えないかもしれないけど、僕は君達のそばにいるからね。ルール違反かもしれないけど、君達は絶対に僕が守るから」
そう言いながら、信吾の身体は透けていき、最後の一言を話し終えるころには、もうどんなに目を凝らしても見つけることは出来なかった。
★★★
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