第3章 いだいなる魔法使いの親

3-1

 ――もしかしたら夢で?


 何て淡い期待もしてみたが、残念ながら、その夜は夢らしい夢も見ることはなかった。


「祥太朗、おっはよぅ! なーんか顔色悪いけど、大丈夫?」


 登校途中で千鶴に会った。太陽のような笑顔が眩しい。

 いつもならそれだけで一日上機嫌なのだが、何だか身体がだるすぎてテンションが上がらない。


「……はよ。ちょっと寝不足なんだ」


 寝不足なのは本当だ。でも、それだけというわけでもない。


 あの後、寝転がりながらうだうだと考えているうちに眠ってしまったが、どういうわけか2時間ほどで目が覚めてしまい、その後は何だか目が冴えてしまったのである。


 せっかくだから絵本をもう1冊読んでみようかとも思ったが、未読の本は母の部屋にあることを思い出し、あきらめた。母親といえども、無許可で寝室に忍び込むのは好ましいことではないと思ったのだ。


 いや、母さんだったら「何? 眠れないの? じゃあ母さんが子守唄を歌ってあげるわね。ラーラララ~」とか何とかって、へったくそな歌を歌いかねないのだが。


 ――あと何冊あったっけか。


 絶版になってしまったというその絵本達は、大きめの段ボールの中にぎっしりと詰められており、てっきりあともう2、3冊だろうと思っていた俺は、がっくりと肩を落としたのである。

 しかし、気合を入れて中を確認してみると、どうやら『いだいなるまほうつかい』のシリーズ自体はもう何冊も無いようだった。残りはいまでも描いている『びょうぶネコ』シリーズと『きまぐれきーくん』シリーズ、あとは単発ものの絵本である。出版社から発売前に数冊送られてくるのだが、母にはそれを配るような友人やら親戚というものがおらず、たまっていくばかりらしい。


 とりあえず、タイトルの上に『いだいなるまほうつかいシリーズ』と書かれているものがそうだろう。

 ただ、母の作品はどうもファンタジックなものが多いので、もしかしたら、別の作品の中にもヒントがあるかもしれない。

 こんなことなら早々に自分の部屋へ運んでおくんだった。

 まぁいっか。また今度で。


 とりあえず、優先すべきは『いだいなるまほうつかいシリーズ』だ。それらをすべて読み終えてからまた考えよう。そう思ってベッドから降りたのである。


 水の入ったコップは、朝起きてから片付けても良かったのだが、どうせまだしばらく寝られそうにないので、シンクまで運ぶことにした。うっかり片付けるのを忘れると、こういうことにはやけに几帳面な母が、勝手に部屋にまで侵入し回収するのだ。

 冷蔵庫の中に何が残っているかは覚えられず、同じ野菜を何度も買ってきたりする癖に、どういうわけだか食器類に関しては何が何枚あるのかをきっちり覚えている。だから、コップが一つ無いだけで大騒ぎである。


 コップを持って、階段を下りる。

 リビングのドアは少し開いていて、室内の明かりが漏れていた。しかしそれはリビングの光ではなく、奥のダイニングの光が漏れているようだった。まだ23時半、きっと母が仕事をしているのだろう。執筆に集中しているだろうから、大きな物音を立てて驚かせないようにと、ゆっくりとドアを開けた。


 キィと小さな音を立ててドアは開いた。そのわずかな音に彼女は気付いたようだった。そんな音もしっかりと聞こえてしまうほど、風も無い、静かな夜だった。


「――誰? 祥太朗?」


 ? という言葉が引っかかる。


 この家には母さんと俺しかいないはずだろ? それともやっぱり父さんいるのかよ。


「俺だよ。コップ戻しに来たんだ」


 そう言ってシンクの中にコップを置いた。洗い桶の中には布巾が漂白剤に浸けられている。

 昔、この中にコップを入れて叱られたことがあるので、洗い桶から少しだけ離して置いた。


「順調? 今度の話は何?」


 すぐに部屋に戻っても良かったのだが、何だかまだまだ話足りない気がした。


「うーん、まずまずね。久しぶりに父さんの話を書こうかなって思って。でも、駄目ね。時間が空いちゃうと」


 順調に進んでいるのであれば、長居は躊躇われたが、そういうことであれば、といつもの席に腰を下ろす。


「ねぇ母さん、さっき『誰?』って言っただろ。この家、母さんと俺しかいないのにさ」

「――え? ああそうね。でもなんか父さんがいる気がしたのよ。祥太朗も魔法使いになったことだし、もしかしたら母さんにだけは会いに来てくれるかもしれないって思って」

「俺まだ魔法使いじゃねぇよ。失敗だったじゃんか、さっきのコーヒー」


「まぁ、失敗はしてたけどね。でもまぁー及第点なんじゃなーい?」


 ケラケラと笑いながら頬杖をつき、俺に向けてウィンクをする。年を考えろ。とは言えないけど。


「さっきのコーヒー、しょっぱくなってたわよ」

「――は?」

「も~超しょっぱいの~。しょっぱいコーヒーってあれ、拷問だね。あたし割としょっぱいものは好きな方だけど、コーヒーは駄目だわ」

「そんなわけないじゃん。からかってるんだろ?」

「信じる信じないは任せるけど。ただ、母さん、この件に関しては嘘ついたりしてないからね」


 きっぱりとそう言って、また執筆作業に戻る。


 いまのやり取りがいい気分転換にでもなったのだろうか。その後は、俺に一瞥をくれることもなく、ただ黙々とパソコンに向かっていた。


 こうなると今日の話はもう終いだな。そう思って、席を立ち、自室に戻ろうとした。その時である。


「――コップ、持ってくなら、朝ちゃんと片付けるのよ」


 ――見透かされていた。


 本当に味が変わるのか自室で試してみようかと考えていたのだ。でもまだ椅子から立ち上がっただけで、シンクに目を向けてもいないのに。

 何だかいつもより勘の冴えている母が怖くなり、「わかった」とだけ返事をした。


 結局、さっきシンクに置いたコップを軽くすすいで使うことにし、画面を睨み付けたままの母さんに「おやすみ」とだけ言ってダイニングを出た。


 まだ量を増やすことは出来そうにないものの、やはり『もしも』が頭から離れず、水の量は控えめにした。だって部屋の中が海になったら片付けが大変だろ。そんなことを考えつつ、ベッドの上に腰掛ける。


 さっきは確か、増えろ増えろと念じながら右手の指でコーヒーをかきまぜた。

 そして、増えろと念じたのに味が変わった。


 じゃあ今回も増えろ、と念じればいいのか? 魔法って随分と天邪鬼なんだな。


 コップを左手に持ち替え、右手の指先を中に入れる。

 ゆっくりとかきまぜながら、増えろ、増えろ、と念じる。


 1分くらいはそうしていただろうか。ただの水だし、少しの変化でもわかるだろう、と右手を抜き、指先を舐めてみた。かすかに塩の味がする。さすがにこのタイミングで汗はかかないだろう。


「マジかよ……」


 確かに、水道水を汲んで来た。


 汲んですぐ戻ってきたから、母さんが塩を入れるはずはないし……。

 でも、マジかよ。

 もう一度やれば、もっと濃くなるのかもしれない。


 そう思ってもう一度右手を入れた。増えろ、増えろ、と念じ、また取り出して舐める。


 やっぱりさっきよりもしょっぱくなった気がする。


 いま思えば、このあたりで止めておけば良かったのだ。


 でも、何だか止まらなかった。

 楽しかったとかそういうことじゃなく、純粋に面白くて、不思議すぎて止められなかった。

 どうなるんだろう、もっとやったらどうなるんだろうって。


 ――で、気付いたら寝てたみたいで朝になってて、母さんに起こされて。コップの水は布団にぶちまけちゃってて怒られて。


 身体にもかかってたけど気付かずに寝るなんてよっぽど疲れてたのかな――、俺――……。


「ちょっと! 祥太朗! 大丈夫?」


 気付くと、目の前に地面があった。

 躓いたかどうにかして転んだらしい。そう自覚すると、強かに打ち付けたらしい額と鼻にいまさら痛みが襲ってくる。

 今日の俺はダメダメだなぁなんて思いながら立とうとするが、身体が動かない。


 ――何だ? どうした?


 何だか回りがざわついているようだったが、だんだんそれも遠くなり、俺の意識は遠のいていった。

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