2-2
絵本研究についてはとりあえず一段落ということにして、最近ちょっと苦味が癖になってきたコーヒーでも飲もうかと、自室を出た。右手の指を左手で握ったりさすったりしながら階段を下りる。
ダイニングでは、母が一足先にコーヒーを堪能しながら仕事をしていた。食卓の上で執筆するのが彼女のスタイルである。
「これなら仕事の気分転換に料理が出来るでしょ」と得意気に話してくれたが、ノートパソコンを開いたままそこで仕込みをし、キーボードを小麦粉まみれにしたり、牛乳をこぼしたりしておじゃんにしてしまったことは一度や二度ではない。
ていうか、俺の血となり肉ともなる手料理は気分転換で作られているのかよ!
……とは言えないけど。
まぁ、どんな経緯で作られたにしても、まぁ、それなりには美味いし……うん。
内容は、先日話していた、全エピソードをまとめるってやつなのだろうか。
仕事の邪魔するのも悪いと、小気味良いタイピングの音が止まるまでソファに腰開けスマートフォンをいじりながら待つことにした。
カタカタ、という音が止まり、「ふわぁぁあ」という大きな欠伸が聞こえて来る。
「――母さん、ちょっと良い?」
「なーに? 夕飯ならまだだけど」
ひょい、と首だけを俺の方に向けて言う。
まぁ、用があるのはこっちだし、自分から出向くのが筋だよな、そう思ってダイニングへ向かう。右手を差し出して「ちょっと、俺の指先、握ってみてほしいんだけど」と言ってみる。
「何よ、ドッキリなら嫌よ」
そう言いつつも、恐らく、息子は自分と違ってそんなつまらないドッキリも仕掛けないかと思い直したのだろう、母は素直に俺の指先を握った。その瞬間にいつもの緊張感のない顔(まぁそこそこ美人だけど)がきゅっと引き締まる。
「アンタ……この指……。いつから?」
「いつからかはわかんないけど、気付いたのはさっき。なぁ、父さんの手もこんな感じ?」
母は何度も何度も優しく俺の指先を握った。握られている感触は左手と変わらない。けれどきっと、この指だけはいままでとは同じじゃない。魔法使いの指なのだ。
「そう、このしゅわってする感じ。父さんにそっくり。懐かしいわ」
「絵本、続き一冊だけ読んでみたんだけどさ。あれもノンフィクションなんだよな。父さんの姿って決まった形がないのか?」
ヒノキだったりタンポポだったりって……。
「最初に見た時はおっきな木だったの。でもあたし、しばらく失明してたし、何の木なのかまではわからなかったのよね。そしたら『これはヒノキの木だよ』って」
「最初は木だった、って……。どういう感じなわけ? 完全に木? それとも木っぽい人間みたいな感じ? 何っつーの、ホラ、ゆるキャラの着ぐるみみたいな」
「ううん、木よ。完全に木。でも、それじゃ自分だって気付いてもらえないと思ったんじゃないかなぁ? すぐにぼわーっと人間の形になってくれたわよ。たぶんだけど、人の形にならないと目を作れないんじゃない?」
「その辺は知らないけど、俺。でも、確かにそう言われると納得かも。でもさ、母さんは自分の結婚相手が見知らぬ魔法使いで良かったわけ? すっげー悪いやつかもしれないじゃん。まぁ、結果オーライだったけど」
絵本だから、細かいところは省略されているのだろうが、それでも何でこの2人がいきなり夫婦になったのか疑問だった。
だって父からしたら盲目の少女だし、母からしたら得体のしれない魔法使いだ。昔の人はお見合い結婚が一般的で、結婚式で初めて相手に会うってパターンも少なくなかったって聞いたことはあるけど、それでも何らかの情報は与えられているもんだろ。
「うーん、何かね。ビビッと来ちゃったっていうか。声が良かったのよねー。あとは、母さん、あの時、死のうかと思ってたところだったから」
「――はぁ? 何かいきなり重たい話なんだけど!」
「だってねぇ、目は見えないし、両親も兄弟もいない、友達も出来なくて、遠縁のオジサンの家に預けられたは良いけど、厄介者扱いだったし。このままずーっとおんなじ日々を送り続けるんだろうなって考えたら、もうどうでも良くなっちゃってね。だったら何とか歩いて海まで行けないかと思ったの。そしたら父さんに声をかけられたのよ」
海か。
そういえば母さんは海のそばで育ったって絵本に描いてあったな。
俺はどうして何もかも知らないんだ。
教えてもらえなかった、といえばそれまでだが、聞こうとしなかったのは自分だ。何となく詮索してはいけないような気がしたのだ。
「父さんはね、母さんの目を作ってくれた後、すぐに海へ連れてってくれたの。とっても良い声で、本物の海と偽物の海、それから借りてきた海のどれが良いかなって聞くのよね。そしたらやっぱり本物の海が良いじゃなーい?」
そりゃあ、その3択なら本物が良いに決まってるけど……。偽物と借り物の海って、何だ?
「母さん、偽物と借り物の海って、何なの?」
「ああ、それはね、川とか湖とか、何ならコップの水とかでも、基本の材料さえあれば偽物の海を作れるのよ。借り物ってのは、そのままよ。本物の海からちょっと海水を借りてきて即席の海を作るのね。もちろん、借りた後はちゃんと海に返さなくちゃならないけど」
それが魔法の力なんだろう。
材料を使って何かを作る、みたいな。
それから、そのものの量を増やすことも出来るらしい。
だから母さんの目を作るために人型になって自分の目を使ったのだ。
絵本の中にもあったな、吐いた息が竜巻になったり、ろうそくの火が大きな竜の形になったり、コップの水が溢れたり……。ということは、近くにその材料がないと駄目なんだろうな。
腕を組んでなにやらぶつぶつ言い始めた俺を、母は不思議そうに眺めている。
「祥ちゃん、どうしたの?」
「何となくだけど、魔法のことがわかってきた気がする。ただ、問題はさ、どうやったら使えるのかってところなんだよなぁ」
「あらー、何となくでももうわかったの? さっすが父さんの子だわぁ」
「何か他にヒント無いのかよぉ~。何か呪文とか、魔法の杖とかそういうのなかった?」
そう言うと、ぬるくなったコーヒーを一気に飲む。
そうだよ。ゲームだったら呪文とか、杖とかでシャラララーンじゃないか。
「ヒントねぇ……。でも父さんは道具を使ったりはしてなかったわね。それに呪文? そういうのもなかったかな。さっと触ったり、かきまぜたり、指をはじいたり、何かそんな感じ。で、『はい、もういいよ』って。ほんっと、良い声だったわぁ」
母は遠くを見つめながらうっとりとしている。良いよ、良い声だったってのは、もう充分伝わりました。お腹いっぱいです。マジで。
――もしかして。
もしかして、その視線の先に父親がいるのかと思ったが、普通の人間である母には父の姿を見つけることは出来ないのだ。夫婦の絆というものが確かにあるとしても、悲しいことに、この部分においては効力が無いのだろう。
だから母はきっと、記憶の中の夫を思い出しているのだ。
「触れて念じてみたら良いんじゃなーい? 例えば、ほら、母さんのコーヒー、もうそろそろ無くなっちゃうのよ。もう少し飲みたいから増やしてよ。なーんて」
「記念すべき魔法の第一発目が母さんのコーヒーかよ!」
「あら、父さんは人の役に立つためにしか魔法を使わなかったのよ? だから、母さんの役に立ってよ。コーヒーもう一杯飲まないと仕事が出ー来ーなーいーのーっ!」
途中からはもう駄々っ子のようだった。
父は、この成長の止まった少女のような女をどう思っていたのだろう。
可愛い?
それとも面倒臭い?
俺だったら……うん、まぁ、いまのところは面倒臭いに1票ってことで。
そういえば、父さんって一体いくつなんだろうか。それから、名前。
小学生の時に死んでしまった(これは自分の勘違いだったわけだが)と知り、何となくそれ以上父さんのことを聞けなくなってしまったのだ。
それはたぶん、父さんのことを聞こうとすると、いつもは底抜けに明るい母さんが悲しそうな顔をしてしまうからだと思う。
お母さんにこんな顔をさせたら駄目だ。
僕がお母さんをずっと笑わせてなくちゃ。
そんな殊勝な気持ちがあったのだ、当時は。それに俺、一人っ子だしさ。
で、まぁ結局は生きていたわけだけど。でも、生きてるとはいっても、目の前にはいない。この家には母と俺しかいないのだ。
だからもちろん、会話も出来ない。嬉しかったことを話したり、辛いことがあっても相談することだって出来ない。母には、父と俺以外に家族はいないのに。同じ景色を見ている、ただそれだけで、この寂しさを埋められるのだろうか。
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