1-3
自転車を飛ばして、友人である国重千鶴の家に着いたのは約束の16時を10分ばかり過ぎたころだった。
千鶴とはお互いに何となく友達以上な思いはあるものの、あと一歩踏み出せないという関係である。
決め手に欠けるというか、きっかけとなるイベントに欠けるというか……。
若さがあるとはいえ、これだけ飛ばせば呼吸も乱れる。ただでさえ、あんな話の後だ。乱れた呼吸を整えようと、インターホンを鳴らす前に大きく深呼吸をした。深呼吸を2回して、ボタンに触れる。
押そうとした時、ふと思った。さっきの話、千鶴に話すべきか、と。ここへ来た名目は『苦手な英訳を手伝ってもらう』なのだ。そして、英訳の内容は『身近なカップル(両親でも可)の馴れ初め』である。
こんなことなら、最近出し抜かれて彼女持ちになった友人に頭を下げて聞くんだった!
どうしたものかと悩んでいると、玄関のドアが開いた。開けたのは千鶴である。
さらさらとしたストレートの黒髪を顎の辺りで切りそろえ、少し長めの前髪の隙間からは形よく整えられたまゆ毛が覗いている。大きな目を縁どる長い睫毛を数度瞬かせ、彼女は首を傾げた。
「どうしたの? なかなかインターホン押さないんだもん、こっちから開けちゃったよ」
「――え? 何でここにいるってわかったんだ? まさかお前も……」
お前も魔法使いの何かなのかよ。そう言いかけて、止めた。
「何がお前もなのかわかんないけど、祥太朗のチャリのブレーキ、最近キーキー言ってるじゃん? その音が聞こえたから。ウチの玄関モニター、インターホン押さなくても、ボタン押せばこっちから見えるんだよ。そしたら何かインターホンの前で固まってたから」
良かった、どうやら深呼吸のところはぎりぎり見られてなかったらしい。
「とりあえず、中、入ったら? すごい汗かいてるし、冷たいお茶出すよ」
***
「――で、誰の馴れ初めにしたの?」
良く冷えた麦茶を勧めながら、千鶴が聞く。
「いやー、その、ウチの、親の?」
「へぇー。そういや、祥太朗のお母さんってきれいだよねー。若いしさぁ。ね、ね、お父さんも若いの? 美人の奥さん捕まえたんだから、やっぱりイケメンなのかなぁ」
俺の気も知らず、千鶴は無邪気に聞いてきた。
しかし、そこではたと気付くのだ。
そういえば俺自身も父親の顔を知らない、と。
そうだよ、だって俺が産まれてすぐに死んだって話だったし……。そういえば写真なんてのも一枚も無い。父さんは写真が苦手な人だったと聞かされていたのだ。
あれ、でもさっき母さん、『父さんと一緒』に俺の顔じーっと見てるって……。
麦茶を手に持ったまま微動だにしない俺を、千鶴は訝しげに見つめている。
「ちょっとちょっと、祥太朗。何か変だよ、今日。どうしたの?」
「え――……っと、ああいや、何でもない。父さんの顔は……まぁ普通だよ。普通のおっさん」
まさか見たことも無いなんて言えるわけがない。
ていうか、魔法使いって人間の年と同じなのかな。漫画とかだと何百歳とか何万歳とかザラだしなぁ。
「ちょっとー、もう、またぼーっとして。絶対何かあったんでしょ。どうして話してくれないの?」
鋭く突っ込まれ、後ろめたさでほんの少し背中をのけ反らせる。
「……あっ、あのさ、ウチの母さん、絵本作家なんだよな。それでさ、何つーか、馴れ初めが『多少』ファンタジックっていうかさ……」
『多少』の部分をだいぶ強調してみたが、こんなことですべてが伝わるわけがないのはわかっていた。それでもワンクッション置かずにはいられない。
「知ってるよー。小さいころ、良く読んでもらったもん。魔法使いさんがお嫁さんを探すやつ。あれって続きとかってないのかなぁ。あたし大好きだったんだー、あの話」
続きなら、ある。お前の目の前にあるのが、その続きだよ。そう言ってしまいたかった。
でも、自分自身がまだ半信半疑なのに、母さんみたいに語れる自信はない。
「ファンタジックな馴れ初めかぁ。女子的にはすっごく素敵な感じするけど、オトコノコ的にはちょっときつかったんでしょ。それで元気ないんだな?」
まぁそんなところである。
「まぁ、そんなとこ。第一、よくよく考えたら、両親のそういう恋愛的なところって何か恥ずかしいよな。その結果が俺らなわけだしさ」
「言われてみれば、そうだよね。あんまり生々しいなら、違う人のにしたら? 個人的には、その馴れ初め、聞いてみたいんだけど。祥太朗が話せるようになってからで良いからさ」
「サンキュ。でも、そしたら誰のにするかなー。提出期限って来週の水曜だっけ。今日が金曜だからなー……」
やっぱり最近彼女が出来たあいつかな。それとももう2ヶ月続いてるっていうあいつか……。それとも、俺らの……。
――待て、違う。
そんな宿題のためにとかってそれはおかしい。動機が不純っていうか、そんな宿題がきっかけとかって絶対おかしいだろ!
「さっきから何ぶつぶつ言ってんの? 愛の告白ならはっきり言ってほしいんだけど、あたし」
「はぁっ? こここここ告白なんてべべべべべ別に……!」
「冗談だよ、冗談。もー焦りすぎだってば。祥太朗はこの手の冗談通じない人?」
「……今日は特にな」
女ってやつは、どうしてどいつもこいつもこんなに鋭いんだ。
結局、その後は甘酸っぱいイベントが起こることもなく、遠縁のオジサンの馴れ初めという設定で適当に話を作り、英訳は千鶴の協力を得て、宿題は完成した。
話が出来上がってからは英訳に集中し、あまり会話らしい会話もなかった。いつもなら物足りない展開だが、今日は何だかそれがありがたかった。千鶴の前でまた余計なことを考えないで済むからだ。
千鶴の家を出たのは20時過ぎだった。ちょこちょことお菓子をつまみながらの作業だったのでそんなに腹は空いていない。母はきっと夕飯を食べずに待っていてくれるだろう。さすがに連絡するか。尻ポケットからスマートフォンを取り出し、ホーム画面にワンタッチ登録されている彼女の携帯に電話をかけた。家には固定電話が無いのだ。
「――ああ、俺だけど。いまから帰るわ。夕飯、何?」
***
家に戻って、夕飯を囲む。4人掛けの食卓に2人だけ。俺が物心ついた時からこうだった。いつか4人で食卓を囲むことを想定して揃えたのか、それとも俺が産まれたタイミングで購入したのか、それはわからない。人数が増えて買い替えることはあっても、その逆というのはあまりないのかもしれない。出版社の人以外にほとんど客らしい客も来ないから、残りの2脚の椅子はきれいなままだ。
夕飯はから揚げとポテトサラダ。それに豆腐とわかめの味噌汁。から揚げは俺の帰宅に合わせて揚げたらしい。まだ一部しゅわしゅわと音が鳴っているものもある。小さいころから大好きなメニューである。
母は俺に揚げたてを食べさせたいのか、積み上げられたから揚げをなるべく崩さないように、下の方から取っている。いや、単に猫舌だからかもしれない。
俺はアツアツのから揚げで舌を焼きながら、昔のことを思い出していた。
幼稚園児のころ、「僕のパパはどこにいるの?」と聞いたことがある。
「遠いところから見守っているのよ」
確かこんな感じの答えが返ってきた。
小学生になって、もう一度「僕のお父さんって、何でいないの?」とも聞いた。確かその時は、
「あなたが産まれてすぐ、遠い遠いところに行ってしまったの……」
そんな風に濁された。
そのころには片親がいない友人もちらほらいたし、ウチだけが特別じゃないって思って納得した。
でも、よくよく考えたら、ウチには仏壇なんて無いぞ。
遺影だって無いし、墓参りだって行ったことがない。
どうしていままでそこに気が付かなかったんだ! 俺は馬鹿か! 死んだなんて言われてないじゃないか!
「……母さん、あのさ、もしかして、父さんって生きてんの?」
「生きてるでしょ。母さん、死んだなんて一言も言ってないと思うけど」
母は味噌汁を1口啜り、中の具を箸でつまみながらさらりと答えた。
「いやいやいやいや、そういうことじゃないだろ。父さんいまどこにいるんだよ!」
「そんなの母さんがわかるわけないじゃない。父さんどこにいるのよぅ」
「俺に聞くなよ!」
「アンタに聞かないで誰に聞くのよぅ!」
母は箸と椀を置いて俺をじっと見つめた。父が作ったのだという、その目で。
「――アンタ、さっきの母さんの話、ちゃんと聞いてたの?」
「えっ? 聞いてた……と思うけど……」
「魔法使いはね、自分の親を見つけられるようになったら一人前なの。魔法使いはね、子どもが出来たら、見つけてもらうために姿を消さなくちゃいけないのよ」
「あっ、そういえばそんな
「人間とのハーフだけどね。まぁ、練習次第なんじゃない?」
「軽く言ってくれるなよな。教えてくれる先生もいないのにどうやって何を練習すれば良いんだよ」
から揚げを口に運び、咀嚼する。そう、教えてくれる父親はいないのだ。いや、厳密にはいるんだろうけど……。
「ヒントならあるじゃない」
「ヒント?」
「言ったでしょう? 母さんの絵本はノンフィクションなのよ? まだ祥ちゃんが産まれる前、まだ父さんが母さんの前にいたころの話だってあるんだから」
「マジ?
「書店に置いてある本がすべてじゃないのよ」
「どういうことだよ」
「あの本はね、あれ以降があんまり売れなくてねー。そのうちそこの出版社が倒産しちゃったのよね。で絶版になっちゃったってわけ。母さんの部屋にあるから暇な時にでも読んでみたら?」
絵本の続きがあるって言ったら、千鶴、喜ぶかな。そんなことを考えた。
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