第1章 いだいなる魔法使い
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☆☆☆
「――まぁ、そういう感じだったのよね」
指に挟んだボールペンをくるくると回しながら、母――佳菜子は言った。右手の中指と薬指に挟まれたペンが回る度、キャップに付いている金具が日の光に反射してきらきらと光り、地味に俺の目を攻撃する。
「何言ってんだよ。頭大丈夫か」
4人掛けのダイニングテーブルで、母と向かい合わせに座った俺は、淹れたばかりのコーヒーに、ミルクと砂糖を入れようかどうしようかとひとしきり悩んだ後、
「もうそろそろブラック飲む年なんじゃねぇの、俺達」と恰好つけていた友人の言葉を思い出し、シュガーポットの蓋に掛けていた手を離した。
鼻に近づけて、それらしく香りを楽しむ素振りを見せてからゆっくりと口を付け、その苦さに眉をしかめる。
――ミルクくらい、良いよな。
「ちょっとちょっとぉ! 親に向かって大丈夫かはないでしょうよ。だいたい、アンタが父さんとの馴れ初めを聞かせろって言うから――」
「あのさ、こっちは真剣に聞いてんだっての。宿題なんだよ、しゅーくーだーい!」
やっぱりミルクを入れて正解だった。いや、出来ればもう1つくらい入れたいけど。
そう思いながらもうひと口啜る。
でも、眉間にしわを寄せながらゆっくりと苦いコーヒーを啜る姿はなかなか様になっている気がするのだ。
だって渋いじゃん、何か。
「大体ねぇ、親の馴れ初めを宿題にするってどういうことよ。小学生の作文じゃあるまいし」
母は少々気分を害した様子だったが、もともと子どものような女性なのだ。甘いものでも差し出せばたちまちのうちに御機嫌になるだろう。
そう思って、しぶしぶ、『俺専用・開けるな!』という紙の貼られた戸棚から、秘蔵のチョコレート菓子を取り出し、彼女のお気に入りのガラスの器に丁寧に盛って差し出してみる。
「作文なんかじゃねぇよ。誰のでも良いから、身近なカップルの馴れ初めを英訳しろってさ。なーんかロマンチストな先生なんだよなぁ。――あ、新婚だからかな。関係ないか」
「英訳ねーぇ。――あら、祥ちゃんったら、気が利くじゃない。いただきまぁす」
ほーら、ね。
にこにこと嬉しそうな顔で銀色の包み紙を破る母の姿を見て、俺は胸を撫で下ろした。
全く、どっちが子どもなんだか。
「そんなわけで、さ。俺、英語苦手だし絶対時間かかるから、このインタビューの時間は短めにしときたいんだよ。母さんの絵本の話はさ、小さいころから何回も聞かされてんだから知ってっから」
英語が苦手なのは本当だ。
ただ、急いでいるのは英訳に時間がかかるから、だけではない。16時には友人の家に行くことになっているからだ。
現在14時。
充分余裕はあるが、思春期の男というものは仕度に時間がかかるものなのである。
「なーにが『知ってる』よ。これがノンフィクションだって何回言っても信じてくれない癖に!」
「ノンフィクションだって、よっく言うぜ! そもそも母さん視力めちゃくちゃ良いじゃねぇか! 2,0以上あるだろ、絶対! これだからファンタジーに生きる絵本作家様はさー」
俺もご相伴にあずかろう(もともと俺のもんなんだけど)と器に手を伸ばすと、手の甲をぺちっと叩かれる。気付くと菓子は最後の1枚になっていたのだった。
一体いつの間に。
仕方なくすごすごと手を引っ込めた。
「視力が良いのは当たり前よ。だって『いだいなる』父さんが作ってくれたのよ?」
そう言って母は黒縁の眼鏡を外して、大きく瞬きをしてみせた。
この眼鏡はもちろん伊達だが、昨今はパソコンやスマートフォン等からのブルーライトをカットするレンズがあるらしく、パソコン作業をするのでしたら、と店員に勧められて購入したのである。
そして「なーんか知的に見えるわねー。作家度アップなんじゃなーい?」と大層気に入っているようだった。
「よーくよーく見てみなさい。右の黒目の端っこの方……薄い茶色のところに父さんのサインが入ってるから」
「――は?」
そう言って母は目を大きく見開き、ぐっと顔を近付けてくる。
実の母親といえども、こんなに顔を近付けられるとドキッとする。これが千鶴だったら……などと余計なことを考えてしまい、顔が熱くなった。
「ちょっとー、照れてないで早くしてよーう。乾いちゃうでしょー」
「照れてねぇって! 母親に照れるかよ!」
ま、まぁ、我が親ながら、きれいな方だよな。19で俺を産んでるから、まだ35だしな……って、何だこれ!
「――何だこれ!」
「あは。やっと見つけたー? あー、乾いた乾いたー」
母は瞳を潤ませながら何度も瞬きをし、作家度アップのアイテムを再度装着した。
あった、確かにあった。
何て書いてるかまでは読めなかったが、サインらしきものが眼球に書いてあった。
いや、でもコンタクトだろ? 眼球に直接サインとか、ハードすぎるだろ、父さん!
「――いっ、いやいやいやいや! 騙されねぇぞ、俺。それ、コンタクトだろ!」
深呼吸をして、平常心を取り戻す。この母親の悪戯はいろいろと質が悪い。今回のもそうだろう。いつの間にコンタクトを装着していたのかはわからないが、いつか驚かせてやろう、と前々から仕込んでいたのかもしれない。この母ならやりかねない。そういう性格なのだ。
しかし、ここで、長い付き合いの俺でもまっっったく予想出来なかったことが起こった。
「仕方ないなぁ、これなら信じてくれる?」
そう言って母は右目を抉りだしてしまったのだ。そして、不服そうに口を尖らせつつ、俺に見せつけるようにして、その黒目の表面をつるつると撫でた。
「――ね、コンタクトなんかじゃないでしょ? 祥ちゃんも触ったらわかるよ。サインのところ、ちょっとザラザラしてるから」
驚きすぎて、声も出ない。
「え? あらら? 祥ちゃん? しょーうちゃーん! 祥太朗くーん! ちょっとやーだ、固まらないでよー」
「――っえ? ああいやいや大丈夫。大丈夫だけど。やっぱ大丈夫じゃないかも……。母さんって、義眼だったの……?」
そう言うのがやっとだった。
心臓はまだバクバクと強く波打っており、深呼吸をして落ち着こうにも、なかなか呼吸が整わなかった。
「ちょっと落ち着いてって。肝っ玉の小さい子ねぇ」
母さんはあっけらかんと笑っている。誰のせいだよ。右目はいつの間にか、元のところに収まっていた。
「じゃ、じゃあさ良いよ、わかったよ。ノンフィクションってことで良いよ。夢見がちな母さんに付き合ってやるよ」
そう言って、大きく息を吐く。あえて大きめの声を出すことで平常心を取り戻す。
「なんか棘のある言い方ねぇ」
口を尖らせたまま母は言った。
子どもか!
「で、何? 父さんがいだいなる魔法使いで? 当時盲目だった母さんの目を治して?」
「――作って!」
すぐさま訂正が入る。どうやら大事なところらしい。
「ああごめんごめん『作って』、ね。で、俺が産まれたってことでいいの? ――ん? そしたら俺も魔法使いなわけ? つうか、父さんはいだいなる魔法使いなのに死んじゃったの? 人の眼球作れるのに?」
『死』という言葉口にした時、胸がちくりと痛んだ。茶化すテンションで出すワードじゃなかったと後悔する。しかし吐き出してしまった言葉はもう戻すことは出来ないのだ。
「祥太朗……さっきの続き、教えてあげようか。『それなら わたしが およめさんになるわ』の続き。あの本は『それから ふたりは すえながく しあわせに くらしました』で締めちゃったけど……」
やけに真剣な顔で、母は言った。こんな真面目な顔、久しぶりに見た気がする。
俺は一体何が語られるのかと唾をごくりと飲んだ。
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