第119話

 すみれちゃんから差し出されたその手を取ることには、もちろん躊躇いなんて感じたりしなかった。

 だけど、握った瞬間……不思議な心地よさと同時に意識が遠のくような感覚にびっくりして、ほんの少し前に抱いた悲壮な覚悟を忘れそうになるくらいに心を乱しそうになったあたしは思わず、真正面に立ってこちらを見つめ返してくるすみれちゃんに向かって呼びかけた。


「す、すみれちゃん……これは、なに!?」

『……動かないで。そのまま、「私」を受け入れて――』

「……っ……?」


 頭の中に、あたたかくて優しい声が響いてくる。

 すみれちゃん……じゃない。女性には違いないけれど、落ち着き払った母性と知性を兼ね備えた――大人の人の声色だ。

 なにより、あたしは……「この人」を、知っている。

そう……魔界エリュシオンの崩壊を止めるために平行世界を移動して、エンデちゃんやアインちゃんと一緒に今は復興に勤しんでいるはずの、あの――!


「……アストレア、さま……っ!?」


 魔界にいるはずのアストレアさまがどうしてここに? とあたしは当然の疑問を抱いたけれど、そんな思いが伝わったのか……くすっ、と目の前のすみれちゃんが笑みを浮かべる。そして、そっと両方の手であたしの手を包み込みながら穏やかな「声」で語りかけてきた。


『そうです……私は、アストレア。ただ、あなたが知っているのはエリュシオンを再建する使命を負った、平行世界に存在するもう一人の「アストレア」。……私ではありません』

「えっ……? じゃあ、あなたは……」

『私は、私。そして同時にすみれでもあり、「あなた」でもあります。……さぁ、目覚めて。あなた「たち」に託した、本当の使命を果たすために――』


 次の瞬間、あたしの中にあるものが別の「何か」へと置き換わっていく。それとともに、真正面にいたすみれちゃんがゆっくりと近づいて……その姿がまばゆい光に包まれていく様子を薄れゆく意識の中で視界にとらえていた。


『大丈夫よ、めぐる。私を信じて……』

「……。うん」


 ようやく聞くことができたすみれちゃんの声に、あたしは安堵して頷く。そして目を閉じ、流れ込んでくるその「意思」に心を委ねていった――。


 × × × ×


「如月すみれと天月すみれが、ひとつにっ……? これはどういうこと、ユーノ!?」

 

 頭の中に映し出されたその映像に困惑し、動揺を抑えられずに私は思念波を送ってきたユーノに向かって問いただす。

 古の魔物たちを底の深くに封印していた中央の泉はすでに滝の壁によって封鎖されて、復活した『影』とめぐる・すみれはその向こうに消えてしまった。とはいえ、次元の狭間に閉じ込められた彼女「たち」の姿は情報波動の媒介によってなんとかとらえることができる……のだけれど、自分の「見て」いるものが本当に真実なのかつかみきれず、今すぐにでも彼女たちのもとへ駆けつけて真偽を確かめたい衝動が弾けそうな気分だった。


『……女神アストレアは、平行世界をまとめ上げるためにこの『ワールド・ライブラリ』を構築し、そのエネルギー受信と循環を行う立場として自らの血族……アスタディール一族を人間界に残しました。さらに、それを守護する者として波動エネルギーを力に変える能力を持つ『天ノ遣』を置き、自らは元の居場所である天界へと帰っていった――それが、数多の平行世界に共通して残る女神伝承です』


 ……その話自体は、キャピタル・ノアの各所で保管される資料や文献類にも書かれていることなので、この『ワールド・ライブラリ』にて管理者を務めるようになる前から私もよく知っている。その内容には多少の脚色と誇張が施されているものの、アスタディール家への畏敬と『聖杯』に対する信仰を裏付けるものであり、今もなお国内だけでなく世界各国にて語り継がれるまことしやかな「歴史」となっていた。


『ですが……実際のところ、『天界』というものは存在しません。私たちの世界は、因果律によって分岐し幾重にもたばねられた『平行世界』としての人間界(イデア)と、その中で『鼓動を失った世界』がたどり着く魔界(エリュシオン)……そして、その両者間にて存在するこの『ワールド・ライブラリ』によって構成されています。また、そもそもアストレアは女神ではなくエリュシオンからやってきた移民者のひとりであり、たとえどんな結末や終焉を迎えようとも世界から「消える」ことは絶対にできないはず。……にもかかわらず、彼女は姿を消した。少なくとも、私たちでさえ感知できないところに移動してしまった――』

「…………」

『おそらくアストレアは、この『ワールド・ライブラリ』をつくり出した後……平行世界の全体を見渡してもっとも危険な「世界」を見つけたのでしょう。ですが、そのまま移動しては敵にその存在を知られ、逃走される可能性もあった。なればこそ姿を変え、その「世界」に移動して雌伏の時を過ごすこととなった。おそらく来るであろう、未曽有の災厄に備えて……』

「じゃあ、アストレアはそのために……すみれに「転生」したってことなの……!?」


 ユーノからの説明を受けて、ようやく私は如月すみれが『天ノ遣』の中でも最強と呼んで差し支えないほどの実力と才能を持ち、あまつさえ『アカシック・レコーダー』という常人では考えられない異能を持っていたわけを理解する。

 つまり彼女は、『天ノ遣』どころかアスタディール一族さえも凌駕する存在だったのだ。そしてその要因は、彼女自身の体内に「女神」が眠っていることにあった……。


「……だけどユーノ、あなたはどうしてそのことに気づくことができたの? 同じように『ワールド・ライブラリ』にいた私には、そこまでのことを突き止めることができなかったのに」

『ひょっとして、と仮説を立てるようになったのは、すみれとめぐるが巻き込まれたという11年前の事故の話を聞いてからです。そして、ブラックカーテンの罠にはまってブレイクメダルを奪われたすみれを救おうと意識干渉を行い、彼女の脳に残っていた記憶野の一部に接触したことで、それは確信となりました……』


 ――11年前。ブラックカーテンの半身……魔獣アリアドネによってチイチ島の神聖な湖『大鏡』の底へと引きずり込まれためぐるは、瀕死の危機に陥った。そんな彼女を救うためにすみれは幼いながらも単身でその脅威に挑み、救出後は自らの生命エネルギーの流れとつなぎ合わせることによってめぐるの蘇生に成功したのだ。

……しかし、その代償としてすみれは常にエネルギーが不足した状態であることを余儀なくされて病弱な身体となってしまった。彼女が常日頃から尋常ではない量の摂食などが必要であったのは、そのことが原因だという。


「で、でも……その程度、と言ったら失礼だけど、2人分の生命エネルギーを補完することは多少の能力者ならできてもおかしくない技よ。すみれは、『天ノ遣』の直系なんだから」

『エリス……大事なことを忘れていませんか。すみれが生命エネルギーを分け与えた相手は、普通の人間じゃない……あの『魔王のメダル』を因子として体内に持っためぐるだったのですよ?』

「あっ……!?」

『無尽蔵な力を持った魔王の生命を維持するなんて暴挙は、あくまで人間である『天ノ遣』の能力者にできることではありません。アスタディール一族の者ですら、数日と持たず枯れ果ててしまうでしょう。その証拠に、エリス……あなたが大魔王ゼルシファーによって一度命を落とした時、その回復にどれだけの代償が必要になったか思い出してください』


 ……そうだ。確かに私は、リリカの持つ聖なる力を全てつぎ込まれることでこうして息を吹き返すことができたが、元々の力とは比べものにならないレベルにまで弱体化している。

また、力を使った反動によってリリカは『聖杯』としての能力を喪失してしまった。それは一時的なものなのかどうかは現状不明だが、そのせいで遥たちは変身能力を得るため、自律的な『アスタリウム・メダル』の開発に乗り出す必要に迫られることになったのだ。

 アスタディール一族同士の私とリリカの場合でさえ、それほどの消耗と減退を余儀なくされたのだ。それなのに、すみれは確かに健康面で減退が見られたとはいえ……曲がりなりにも11年もの間、めぐるに力を分け与えつつも生き永らえてきた。それに加え、快盗天使の後継として活動を立派に果たしている――。

その事実は、本人の頑張りや奇蹟によるものでは決してない。いやむしろ、「ありえない」と断じてもいいくらいの非常識と不合理に満ちていた。


『……そういうことです、エリス。母体である自分自身を崩壊させず、めぐるの生命を補完し、かつ彼女が「死亡」した結果として『魔王』へと覚醒することさえ阻止してきた力は、アスタディール一族ですら凌駕するほどのもの。あまつさえ平行世界を渡り歩き、それぞれの世界に存在する『因果律』に干渉して内容を改変する能力を持つような人が、普通であるわけがない。……彼女は、生まれながらにしてアストレアの「ひとつ」だったのです』

「っ、……え……? ちょっと待って、ユーノ。ひとつって、どういうこと!?」


 驚きとともに納得しかけた私だったが、ふとユーノの台詞の中に謎を含んだ言い回しがあることに気づいて、質問を投げかける。すると彼女は、苦笑まじりに「……ごめんなさい」と謝ってから、さらに言葉を繋いでいった。


『説明がひとつ、抜けていましたね。その前に……エリス、魔王ディスパーザの名前の由来はわかりますか?』

「えっ……? それは、……」


 いきなり何を聞いてくるのだろう、と私は違和感に眉をひそめながら、とりあえず自分の持っている語学の知識を紐解く。

 ディスパーザ……英語の単語では『disperser』――科学、それも天文学などで用いられる分光器のことだ。確かラテン語などでも、ほぼ同じスペルで存在すると聞く。

 え……? ちょっと待って、……「光」? ということは、まさか――!?


『『ディスパーザ』とは、「光」を分散する媒介器……もしくは分散された「光」そのものを指します。つまり、アストレアはエリュシオンの統治管理をさせるために、自分の持つ力を分離して残したのです。それがいつしかメダルの形となり、『魔王』となった……そして、長い年月を経た後すみれに女神の魂と意思が宿ったのと同様に、めぐるの体内にもそれが「転生」した――』

「な……なんで、そんなことにっ!?」

『その経緯は、さすがに私でも追いかけることができません。ただ、自分の想い人であったカシウスが大魔王ゼルシファーとなり、それを討ち果たした力を持ち続けることは、たぶんアストレアにとって苦痛だったのかもしれません。あるいは、自分が良かれと思って人間界を救った力が、必ずしも良い結果につながらない……むしろ、新たな争いの種になることを恐れたとも考えられます。あの大国、イスカーナが歴史から抹殺された時のように……』

「…………」


 ほとんど推測、あるいは創作とも受け取られかねないユーノの話す内容に、私はただ声を失って愕然とたたずむ。

 管理者になって間もない私と違って、何千、何万もの平行世界を気の遠くなるような時間を費やして渡り歩いてきたというユーノ……本名、フレア・アスタディール。リリカと同様の力を持っている彼女だからこそ、そこまでの真実に至ることができたのかもしれない。

 だけど、……いや、だからこそどうしても、確かめておかなければいけないことがある。そして私は呼吸を整え、最悪の回答が返ってくることを覚悟した上でユーノに問いかけていった。

 

「ユーノ、教えて。あなたの言うとおりにアストレアが、本来の魂と姿を取り戻したのだとしたら……その器であっためぐるとすみれは、どうなるの?」

『……わかりません。本当に、どうなるかわからないのです。……なのに私は、この世界を守るためにすみれを……行かせてしまった。おそらく彼女も、それが分かった上で行くことを選んだ……その覚悟をして……っ』


 ……伝わってくるユーノの声に、震えと嗚咽がまざって響く。

 それを聞いて、私は理解した。彼女がいまだに姿を見せようとしないのは……おそらく、きっと……。


『私は、ただ知るだけで何もできない……。神の使いなどおこがましいどころか、その資格すらない……卑怯者です……』


 × × × ×


『くくく……あははは、あっはははははっっ!!』


 嵐が吹き荒れる漆黒と虚無の空間の中、巨大な『闇』が形容しがたい姿でうごめきながら高らかに笑い声をあげる。

 それは、『ワールド・ライブラリ』の中央の泉の底で神話の時代から封印されてきた……大魔王ゼルシファーの忠実にして暴虐たる従者や、獣たちの集合体。しかもそれぞれが魔王級の力を持ち、禍々しい圧倒的な力のオーラを全身から発しながら猛っている様子だった。


『やっとだ……やっと、解放された! これこそが我らが望み、願い……! そして、大魔王ゼルシファーさまの覇道が、今ここに始まるのだ!!』


 『影』の意思が、伝わってくる。傲慢、強欲……そして、殺意と憎悪。

 それぞれに意思はあるものの、そこに秩序や理性はない。ただ思うがままに感情をぶつけて、行動するだけの……まさに、「ケダモノ」。この悪辣な示威がわずかでも力なき人々に向けられることがあれば、その哀れな力なき存在は蹂躙されるしかないだろう。


『くくくっ……あの連中、次元の狭間に追いやることでわれらを閉じ込めたつもりでいるかもしれんが……笑止! このように脆弱な空間などたやすく突破して、再びイデアへと辿り着いてみせるわ! そしてかの地を焼き払い、生を持つ者どもを駆逐しつくしてやる……!!』

『さよう……! われらの主ゼルシファーさまを迎え、再びエリュシオンの民に栄光を! さらに、堕落して荒廃したエリュシオンを支配してみせるのだ!』


 正気を保つことすら難しいこの空間の中でも、『影』たちはほんのわずかな怯みも見せる様子がない。それは虚勢でもなければ現実逃避でもなく、自分たちに対抗できる力を持つ者など存在しない、と信じて誇るがゆえんの矜持と驕心だった。

 しかし――。


「――いいえ、あなたたちは消えるのです。この何もない『ゼロ』の世界で、跡形も残さず……」


 それは、私たち――いや、「この人」の出現によって過去の妄想へと変わり、はかなくもうち破られる愚かな幻想となった。


『っ? お前は……いや、あなたさまはっ……!?』


 声に反応して『影』のいくつかが意識を向けたその直後、一条の光が嵐を切り裂いて迸る。それは、閃光によって闇の中を駆け……形を持たないはずの『影』を貫き、砕き、さらには灼き尽くすように消し去っていった。


『ぐわっ!? な、なんだこれは……ぎゃ、ぎゃぁぁぁぁあっっ!!』

『と、溶ける……崩れるっ……!? わ、私の身体が……魂が……ぐわぁぁぁあっっ!!』


 空気を激しく揺さぶる響きの中、甲高い声が阿鼻叫喚となって木霊する。直撃を受けた『影』は再び元の姿に戻ることもできず、その破片は上下もわからぬ虚空の中へと飲み込まれてあっという間に見えなくなった。


『こ、この力と気配は……あ、アストレア……様……っ!!』

「……あなたたちにそう呼ばれるのは、もう幾百、幾千年ぶりでしょうか。ですが――」

『ぐぎゃぁぁぁぁっっ!!』

「残念ですが……虚無の牢獄でも魂の浄化が叶わなかったあなたたち、いえ「お前たち」をもう、許すわけにはいかない。消えるがいい……邪で愚かな、エリュシオンの咎人どもっっ!!」


 そして姿を現した私たち……いや、アストレアは神々しくも脅威に満ちた杖を手に構え、背中から美しい翼を広げながら一迅の大鳳となって闇の中を疾駆する。その斬撃は目にも映らないほどに速く、鋭く……無造作に居並ぶ『影』の群れを次々に消滅させていった。


『ひっ……ひぃぃぃぃっ!? あがっ……!!』


 怯えてその場から離れようとした『影』の一つを、アストレアは一切の容赦なく背後から斬りつける。その表情は冷たく、険しく……目には以前会った時に見たような慈愛など全く感じられない、刃物のように酷薄な彩りが紅となって浮かんでいた。

 だけど……。


「(聞こえる……アストレアの想い……そして、「悲しみ」が……)」

「(うん……あたしにも伝わるよ。アストレア様……泣いているんだね……)」


 怖気が走るほどの表情を感じ取って心が震えそうになりながらも、……私とめぐるはその本心に触れて、胸が締めつけられるような思いを抱く。

 アストレアは、本当ならば……ここまでのことをしたくなかったのだろう。『魂の牢獄』として『ワールド・ライブラリ』の中央の泉の奥底に封印していたのは、『影』たちの心が浄化され、その邪な考えが沈静化することを望んだからこその戒めだったのだと、同化した私たちには理解できる。

 だけどもう、そんな思いはあの男……いや、「彼女」によって完全にかなわぬ願いなってしまった。だからこそアストレアは「目覚める」ことを決心し、私たちに語りかけてきたに違いない――。


『こ……この死にぞこないがぁぁぁぁっっ!!』


 すると、そんな圧倒的な劣勢を見て焦燥にかられたのか、『影』のひとつ――おそらくはブラックカーテンが巨大蜘蛛の形をとって、アストレアに襲いかかる。その巨躯は『ワールド・ライブラリ』で対峙した時よりもさらに大きく、鋭利に尖った肢はもはや数えきれないほどの量が前後左右、上下から同時に迫ってきたが、彼女はその猛威さえも意に介したふうもなくかわし、防ぎ……さらには弾き飛ばすと同時に『影』の本体へと迫ると、その頭部へ振りかぶった杖を叩きつけていた。


『っ、……ぐ、ぐぁぁぁぁ……っ!!』

「これが……あなたの力の源、ですか。イデアでどれだけ攻撃を仕掛けても、通じなかった理由がこれでわかりました……」


 そう言ってアストレアは、周囲で動揺と戦慄をあらわにする他の『影』に視線を向ける。それらは独立した個体を保っているようにも見えたが、……よく目を凝らすとその躰からは黒い糸のようなものが伸びており、それらはことごとく巨大蜘蛛――アリアドネの背中や腰の部分につながっていた。


「数多の平行世界から、メダルとなって眠りについていた『魔』を召喚したのですね。身の程を知らぬ野心に踊らされるとは……愚かな……!」

『っ、……お……お許しを……アストレア、様っ……!!』


 もはや先ほどまでの示威や戦意は欠片もなく、『影』たちはアストレアの慈悲を求めようと恭順の意思を伝えてくる。その情けなくも憐れな様子に彼女はふっ、と表情を緩めた――が、次の瞬間には手に持っていた杖を一閃してそのことごとくを切り裂き、『影』は悲鳴すら上げることなくその場から消え去った。


『な……なぜだ! アストレアは確かに、あのエリュシオン・パレスに封じ込めたはず……それがどうして、ここに!?』

「……あなたの言っている「アストレア」は、魔界エリュシオンの統治を行うことになった新しいアストレアのことですね。あいにくですが、私はそれと違います。『ワールド・ライブラリ』を築き上げ、この世界の過去と現在、未来を組み上げて平行世界を創造した、いわばあなたが「求めていた」アストレア。そして――」


 ぎらり、と鋭く輝く杖の切っ先を『影』にさし向け、アストレアは微笑みとも怒りともつかぬ峻烈の表情を浮かべる。そして厳かな口調のまま、冷たく言葉を突きつけていった。


「あなたたちの盟主である大魔王ゼルシファーを倒し、人間界に秩序をもたらした「神」と称される存在。……あなたたちの仇敵が、私ですよ」

『っ、なん……だと……!?』


 『影』から伝わってくる驚愕の思念が、あっという間に憤怒、そして憎悪へと染まっていく。その禍々しい気配はもはや「バケモノ」ではなく悪霊、あるいは怨霊のようにおぞましく恐ろしいものに感じられたが、アストレアはそんな激情をぶつけられても平然と構えて、嵐の中でもその姿勢は微動だにしなかった。


『アストレア……ようやく……ようやく、見つけたぞ! ゼルシファーさまを倒した仇を追ってあらゆる平行世界を渡り歩いてきたが、貴様の存在はどこにも見つからず……! 『ワールド・ライブラリ』からも姿を消して、何処に隠れたのかと思っていたが……まさかそんな小娘たちの身体に転生していたとは……っ!』

「……探していたのは、こちらも同じですよ。魔獣アリアドネ……いえ、今の名はブラックカーテンでしたか。私の『サキヨミ』から逃れ、幾多の平行世界を渡り歩いては能力者たちを狙い、自らに取り込むことで『闇』の波動を高めようとしていたようですが……よりにもよって私の半身であった天月めぐるに目をつけてしまうとは、最後の最後になって詰めを誤りましたね……」

『なっ……?』

「ただ、そのおかげで私も目覚めることが叶いました。……感謝しますよ、それだけは」

『ぐっ……ぐぅぅっ……!!』


 皮肉とも挑発ともつかぬ言葉を淡々と告げられ、巨大蜘蛛……ブラックカーテンはいっそう殺意をみなぎらせる。そして、相当のダメージを負っているのか苦しげに喘ぎながらも、アストレアに呪詛を叩きつけるようにして叫んだ。


『っ、貴様さえ……貴様さえいなければ、カシウスさまを中心にエリュシオンの御代が訪れていたのだ! にもかかわらず、われらの前に立ちふさがり、あまつさえイデアの無能力者どもに与するとは……この、祖国の裏切り者がっっ!!』

「――――」

『全て……貴様のせいだ! あのお方が貴様などに心を寄せることなどがなければ、今頃は覇王として全ての世界を支配することが叶い、エリュシオンの民が全て救われたはずなのだ! なのに、貴様がっ……私が……この私こそが、あの人の栄光を願い、全てを捧げてきたというのに……!!』

「彼は、……カシウスは、そんな世界など求めていなかった。ただ、憎しみと悲しみに心が耐えられなかっただけ……。優しすぎたのよ、彼は――」

『黙れぇぇぇっっ!! 貴様が、あの人を語るなっっ! 貴様にそんな資格など、ない……私が、認めるものかぁァァァッッッ!!』

「――っ……」


 その、血が迸るかと思うほどの咆哮とともに、巨大蜘蛛の『影』は無数の肢を広げてアストレアに向かって迫りくる。……が、それを遮って分断するかのように突然、嵐のような激流が荒れ狂う空間の一部に一条の光が走り抜けた。

 それは虚空を穿って裂け目をつくり、彩のなかったこの空間に虹のような残像となって浮かび上がる。そして、開かれた中から勢いよく2つの輝きが飛び出してきたかと思うと、アストレアの目の前でふわり、と舞い上がって静止し、その光が収まるや形をとって「あの神器」の姿へと変わっていった――!


「(エクス、カリバー……ゲイボルグ……っ?)」

「(じゃ、じゃあ……これって、まさか……!?)」


 私たちの驚きをよそにして、アストレアの手から杖が光の粒となって消え失せる。それと入れ替わるように、右手には以前めぐるが魔王化したクラウディウスと戦うために用いた聖剣、左手には私にかつて託された神槍が収められた。


「感謝しますよ、アストレア……もう一人の「私」。少しだけ、この力をお借りします」

『――礼には及びませんよ、そちらの「私」。以前、あなたの魂を宿した子たちにエリュシオンの危機を救われた、そのお返しです』


 遠くのほうから、聞き覚えのある声。おそらくそれが、私たちの知るあの「アストレア」だろう。

 それにしても、まさかこんな形であの「仲間」たちと再会するとは……! 驚きと歓喜を入り交えながら、私たちはあふれだしそうになる感情を抑えることができなかった。


「(エンデちゃん……アインちゃん……っ)」


 頼もしい「仲間」の登場に、めぐるは万感の思いで泣き出しそうな声を上げる。すると、それが届いたのかアストレアの持つ剣と槍からも、あの懐かしい響きで想いがはっきりと伝わってきた。


『……めぐるさん。またあなたの力になることができて、とても嬉しいです。ぜひ、一緒に戦わせてください』

『へっ……嫌だって言っても、勝手にやらせてもらうつもりだけどな。あいつにはでっかい借りがあるから、ひとつかませてもらうぜ!』


 そう言って2人は、ぎんっ、と鋭くて硬い意識を示すように刃紋から光をひらめかせる。それを見てアストレアはわずかに頷くと、今や目の前で肢を広げ、顎を開いて牙をむく『影』に向き直っていった。


「めぐる、すみれ。……あの複雑に混ざり合った意識の複合体を消し去るには、あなたたちの強い意思の力が必要です。どうか私に、心を合わせてください……」

「(……わかりました。私たちの力を、ひとつに――!)」

「(いっくよぉぉぉっ! はぁぁぁあっっ!!)」


 私たちの叫びが重なり合った瞬間、それに呼応して二つの刃が赤から青、さらには虹色の光に包まれてゆく。そして、そこから広がった波動は闇を斬り裂き、『影』の勢いを押し返して、さらに――。


「「『クロス・アカシック・ブラスター』ッッッ!!!」」

『ぎゃぁぁぁぁぁあっっっ!!』


 交差する閃撃に斬り裂かれた巨大蜘蛛は、血の代わりに無数の闇のかけらを生み出しながら粉々に壊れ、焼かれて……その姿を崩していく。凶悪な意思と狂気は急速に弱まって、うめき声さえも……嵐の響きにかき消されていった。


『……っ、がはっ……ぜ、ゼルシファー……カシウス、さま……っ……!』

「……逝きなさい。あの人のそばで……永遠に……」


 虚無の底へと沈んでいく『影』の残骸をいつまでも見送りながら、アストレアはぽつりと呟いた。


「私は、もう……選べなくなった、「道」だから……」

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