第114話

 ……そういえば、と思い出した。「初めて」如月先輩の姿を見たのは、聖チェリーヌ学院の入学式だ。

ずらっと居並ぶ私たち新入生が緊張して壇上を見つめる中、理事長の挨拶の後にやってきた彼は、遠くから一目見ただけで「すごい人」なんだと感じさせる威厳と気品に満ちていたのが、とても印象的だった……。


『――生徒会長の如月です。新入生の皆さん、入学おめでとう』


 凛と澄み渡るように響くその声と、優しさを含んだやわらかい微笑み。語りかけてくれた言葉はちょっと難しくてあまり覚えてないけれど、私たちのことを気遣ってくれる想いが伝わってきて……期待と不安が入り交じっていた心が安らぎ、なんだかあたたかい気持ちになったことだけはよく覚えている。

 たとえるなら、童話の絵本に出てくる王子様が現実に現れたような素敵な人。……だから、そんな彼と数日後に出会い、ましてお話をすることになるなんて夢にも思ってなかったんだ――。


『お待たせ―、葵ちゃん。……あれ?』


 夕暮れの放課後、入部したばかりの水泳部での練習を終えた私は、葵ちゃんと一緒に帰るために弓道場を訪れた。そこで見慣れた姿を見かけて声をかけると、制服に着替えた彼女は誰か知らない人と話し込んでいるところだった。


『……? 葵ちゃん、その人は?』

『っ、この方は……その……』


 ちょっと尋ねただけなのに、どういうわけか葵ちゃんは驚いたように目を見開きながら言葉を選ぶように口ごもり、すぐには答えてくれなかった。そのぎこちない反応が少しだけ気になったけれど、なにげなく視線を移動して相手の人の顔を正面から見たその瞬間……私はまるで雷にでも打たれたのかと思うほどの衝撃を感じて、その場に固まってしまった。


『せっ、生徒会長、さん……!?』

『やぁ、初めまして。君が、水無月遥さんだね』

『っ、は……はいっ……!』

 

 応える声がつい、うわずって響く。にこやかな笑顔で話しかけられただけでも光栄なことなのに、私の名前を知ってくれていることが驚きで、嬉しくて……今にも心が舞い上がってしまいそうな感じだ。

それに、……なぜだろう。その目で見つめられていると、胸の内がぽかぽかとあたたかい。くすぐったくて……それでいて泣きたくなるくらいに切なくなるこの気持ちは、どう説明したらいいのか私にはわからなかった。


『あぁ、すまない。少し馴れ馴れしくなってしまったかな。ここにいる神無月とは、親戚の関係でね。君のことも、よく聞いているよ』

『こっ、こちらこそ……!』


 そう言って私は、額が膝にくっつくくらいに深くお辞儀をする。……ただ、あまりに勢いよく頭を下げすぎたせいで前のめりにふらつき、しかも「わっ、とと……!」とよろめいたことで情けないことに、その人に寄り掛かる格好になってしまった。


『っと……大丈夫か い?』

『っ、……す、すみませんっ!!』


 両肩を優しく支えられたことで、その人――如月先輩の顔がすぐそばに迫り、胸の高鳴りはさらに大きく、激しくなる。とても恥ずかしくて照れくさくて、そんな顔を見られたくはなかったのに……その人の瞳が吸い寄せられるように綺麗で、私は思わず魅入られるように目が離せなかった。


「(あ、……あれっ?)」


 どうしてだろう。この懐かしくて、優しい感じ……ずっと昔に同じようなことが、あったような気がする。いったい、どこで……?


『ははっ、なるほど。神無月が言っていたとおりの女の子だな。元気一杯はいいことだが、なんでも頑張りすぎて倒れないように』

『もう、ひどいですよ唯人さ――いえ、如月 先輩。遥さんは私の大切なお友達なんですから、あまりいじめないでください』


 葵ちゃんは私のことを気遣いながら、そう言って如月先輩をたしなめてくれる。だけど、その表情は穏やかな微笑みで満ちていて……彼のことを心から信頼しているという思いがとてもよく伝わってきた。


『(だから私も、その時感じたんだ。如月先輩とはきっと仲良くなれる、って……)』


 幸せなことにその予感は、数日も経たないうちに揺るぎないほどの確信になった。先輩は私を見かけると気軽な感じで声をかけてくれたり、なにかと気遣ったりしてくれた。

私は、先輩のことを心から尊敬していた。この人みたいになりたい、認めてもらいたいと考えて、本当に憧れの存在だった。

だけど……ううん、だからこそ、かな。如月先輩と親しくなればなるほど、ほんの小さな「歪み」がちくりと私の心に刺さって、違和感につながるようになっていた。

 そして、私がその存在をはっきりと意識するようになったのは、葵ちゃんへのなにげない質問がきっかけだったのかもしれない――。


『……そういえば、葵ちゃん。如月先輩は親戚だって前に言ってたけど、神無月のお屋敷に来たことがあった?』


 葵ちゃんと一緒に暮らし始めてからわかったことなんだけど、神無月家にはたくさんの親戚がいる。私の水無月家もそのひとつだ。おかげで正月やお盆には多くの訪問客があり、中にはわざわざ外国からやってくる人もいた。

 だから、今までその中に如月先輩もいたのかな……もしそうだったら失礼なことをしちゃったかなー、なんてことを確かめるつもりで、葵ちゃんの回答も軽い笑い話になる程度の内容が返ってくるものだと私は、勝手に期待していた。

 ……でも、その時の葵ちゃんは明らかに顔をこわばらせて、言葉を失ったように固まってしまった。そして、そこに浮かんだ表情は怒りでも驚きでもなく、怯えるような「恐怖」に彩られたものだった……。


『……ど、どうしたの葵ちゃん? 私、何か変なことを聞いちゃった?』

『っ、いえ……! すみません遥さん、今日は体調が優れないようなので……先に休ませてもらってもいいでしょうか?』

『えっ、そうなの? ごめんね、気づかなくて……私は別の部屋で寝るから、ゆっくり休んで!』


 そう言って私は 「失礼します……」と言って背を向ける葵ちゃんを送り出し、咲枝さんに頼んで別の部屋で一晩を過ごした。そして翌朝になり、朝食の席で顔を合わせた時はいつもの優しい笑顔になっていたので、私も安心して普段通りの挨拶を交わすことができた。

 ……ただその時、私はなんとなくだけど理解した。理由はともかく、「あれ」は聞いてはいけない質問なんだ、と。

だから私は、それ以降は忘れたふりをして、話題に持ち出したりしなかった。それで困るようなこともなかったし、だったら別に確かめる必要もないかな、とも思い始めていた。

 でも、……疑問はずっと残っていた。あの時葵ちゃんはいったい、何を「怖い」と思ったんだろう、って――。


 × × × ×


「あ……あぁっ……!?」


 ……崩れ落ちていくミスティナイトの姿を、私は血の凍るような思いで慄然と見つめる。

アリアドネの肢による攻撃は、スーツの周囲に展開されるはずの相転移障壁でさえも薄紙のように斬り裂き、穿つようにその身体へと刻まれた傷は肩口から腰あたりにまで至るほど深刻なものだった。


「み……ミスティナイト様ぁぁっっ!!」


 いち早く動き出したのは、すぐそばにいた遥だった。彼女は全身が血まみれになるのも構わずミスティナイトに縋りつき、その顔を覗き込む。そして、


「っ……うそっ……!?」


 遥の表情が驚愕にこわばり、その身体は小刻みに震えて止まらない。いったいどうしたのか、と問いただすよりも早く、その足元を見た私はあっ、と声を上げて全てを理解した。

 そこには、……ミスティナイトの仮面が半分、破片となって転がっていたからだ……。


「き……如月、先輩っ……!?」

「……っ……!」


 悲鳴のような、息をのむ声。それが誰のものかと知りつつ顔を向けると、そこには絶望に染まって呆然と固まる、葵お姉さまの姿があった。


「っ…… どうして、こんな時に……こんなところでっ……!!」


 呪詛にも似た彼女のその言葉は、私も同感の思いだった。いくらなんでもこんな状況下で明るみになるなんて、運命の悪戯にしてはたちが悪すぎる。

 ……そう、ついに遥は知ってしまったのだ。ミスティナイトが、彼女の尊敬する如月唯人であったことを――。


 × × × ×


 私がイタリアから日本へと戻り、ホワイトエンジェルとして半ば強引に『天ノ遣』の一員に加わるようになってから、間もない頃のことだ。3人で活動するにあたって葵お姉さまが出してきた「条件」は、意外にもミスティナイト――如月唯人お兄様に関することだった。


『お願いです、クルミさん。これは、私のわがままだと思ってくださっても結構です。……遥さんにだけはミスティナイトの正体を、どうか秘密にしておいてもらえないでしょうか?』

『つまり、それって……唯人お兄様のことを遥に教えるな、ってことですか?』

『……はい。遥さんは、唯人さんがミスティナイトであることにまだ気づいておりません。都合の良すぎる話だとは重々理解していますが、遥さんにはできればこのまま誰であるかわからずにいてもらえたら、と私は思っています』

『お気持ちはわかりますけど……お兄様が『天ノ遣』の血筋の人である以上、遅かれ早かれ遥も気づくと思います。それに……』


 確かに当時の私は、遥のことを信頼していなかった。……というより、こんな危険な役目がつとまるのか不安でもあり心配でもあったから、そこまで彼女のことを気にかけることがまるで過保護のように思えたのも、事実だ。

ただ、それでも……私たちが知っているのに、遥だけが知らない。それはまるで、彼女を騙しているようにも思えて正直、納得がいかなかったのだ。


『そもそも、話してはいけない理由はなんですか? 『天ノ遣』の間柄でそこまで隠さなければいけないこととは思えないのですが』

『……。そのことは、いずれ機会を改めた上で説明させていただきます。ですから、どうか今だけは私の言う通りにしてもらえませんか』

『…………』


 いつも明確で、歳の差の関係なく私の意思を尊重してくれる葵お姉さまが珍しく歯切れの悪い、それでいて断固とした主張の「わがまま」。それに対しての違和感は確かにあったけれど、当時の私にとっては『天ノ遣』の一員として認められることが最優先のことだったので、それ以上は聞かずに「わかりました」と頷いて従うことにした――。


 × × × ×


「(こんなことなら……もっと早く、遥に教えておけばっ……!!)」


 自分の考えの浅ましさと怠惰ぶりが情けなくて申し訳なくて、私は唇を噛みしめる。

 運命に怒りを覚える、なんて責任転嫁もいいところだった。本当に責められるべきは自分自身であり、後悔するのは過去の失態に対しての感情だ。

そしてそれは、きっと私と同じ――いやそれ以上に、葵お姉さまが今抱いている苦悩だとわざわざ確かめなくてもわかりきっていた……。


「……っ……」


 その時、ほんのわずかに身じろぎした唯人お兄様がゆっくりと目を開け、顔を傾けて遥に視線を送る。だけど、その口から漏れ出てくる息に力は全く感じられず……今にも途絶えてしまいそうなほどか細いものだった。


「先輩……っ? しっかりしてください、如月先輩っ!!」

「……は、るか……。怪我は、ない……か……?」

「はい……はいっ! 先輩が庇ってくれたから、私は……!」

「っ、よか……った……」


 ほっとしたように息をついて、口元から大量の血を吐き出しながら唯人お兄様は表情を緩める。そして、そっと自分の目元に手を当てると、むせこみとともに苦笑いを浮かべながら呟くように言った。


「とうとう、……ばれてしまった、な…… 」

「な、なんで……? どうして言ってくれなかった んですか!? 先輩がミスティナイトだったなんて、私……全然っ……!」

「それは、……っ……!」


 応えようとしたその時、鋭い殺気が私たちのもとへ迫るのを感じる。それが、アリアドネの肢による攻撃だと理解して思わず身をすくめかけたその時――ひとつの影が私たちの前に割り込み、両手持ちの剣の刃から火花を噴き上げて轟音を響かせながらその猛威を受け止める姿が目に映った。


「え、エリスっ……!?」

「場の空気を読もうとしないのは、魔界の人間の特徴なのかしら……? ねぇ、ブラックカーテン――いや、アリアドネッッ!!」


 獣のような咆哮とともに、エリスは黒い肢を剣戟で弾き返す。その衝撃を食らってアリアドネは謁見の間の中央付近にまで押し戻されたが、ダメージを受けたようには見えず即座に体勢を立て直し、再びその巨大な肢を振りかざして攻撃を仕掛けてきた。

 それらをエリスは回避しつつも、私たちから遠ざけるように牽制を繰り返して奮戦する。そして何度目かの激突で生まれた一瞬を見計らい、彼女はアリアドネに向かって鋭く剣を振りかざして叫んだ。


「『フェニックス・エクスプロージョン』っっ!!」


 剣から放たれた紅蓮の炎は大きな翼を広げた不死鳥と化し、アリアドネの頭部――ではなく今度は肢の一本を目がけて襲いかかる。それはあやまたず折れ曲がった節のひとつへと命中し、その衝撃で巨大蜘蛛は姿勢を崩し、まるで尻もちでもつくように地響きを立てて床に崩れていった。


「さぁ、今のうちに……! あなたたちはこれで、ミスティナイトの治療を!!」


 そう言ってこちらに駆け戻ってきたエリスは、懐から取り出した一枚のメダルを私に向かって投げ渡す。それは、デザインこそ少し異なるが……めぐるに施したものと同じ波動の力にあふれているものだった。


「これなら……えっ?」


 めぐるを使った時のようにメダルを唯人お兄様の胸にあてがった私は、次の瞬間目の前に表示された立体スクリーンのメッセージを見て、愕然と固まる。

 『Refused(起動拒否)』……? 波動エネルギーを使うことをメダルが拒否するなんて、いったいどういうこと!?


「な、なんで……っ? 『アストレア・メダル』と同等の働きをするはずなのに、どうして力を使ってくれないのよ!?」


 ほとんど八つ当たりにも近い気持ちで、私はメダルに向かって怒鳴り声を上げる。すると、それを聞いたのか唯人お兄様は私の手にそっと触れ、かすかに首を横に振っていった。


「……当然、だ……。お前たちと、違って……俺の力は 、……『闇』に属するもの、だから……な……」

「『闇』の属性……? ど、どういうことなんですか、唯人お兄様!?」


 その言葉の意味が分からずに、私はお兄様に向かって問いただす。……だけど彼はもはやそれに答えを返す力もないのか、ただ寂しそうに笑みを浮かべるだけだった。


「っ、……遥……お前たちも、もういい……。俺に構わず、脱出……するんだ……」

「そんなっ……嫌、嫌です! しっかりして、如月先輩っ!!」


 遥はそう言って、自分のスーツのリボンを引きちぎって包帯代わりに傷口へとあてがい、懸命に止血を試みようとする。……だけどそれは、みるみるうちにどす黒いほどの赤に染まり、それでなくとも唯人お兄様の身体が伏せる床には、おびただしいほどの量の血が広がっていた。


「……遥……黙っていて、すまなかった……。お前を、騙すつもりはなかった……すべては、弱い、俺自身のせいだ……」

「っ……先輩は、弱くなんかないです……! いつも、私のことを助けてくれて……私なんかよりもずっと、強くて……優しくてっ……!!」

「っ……優しくなんか、ないさ……。俺は、弱い……そして、恥知らずの、卑怯者だ……」

「止めてくださいっ! そんなこと、ないっ……そんなこと、絶対――」


 激しく首を振って大粒の涙を散らしながら、遥は何か治療手段がないものかとスーツの非常用端末を立ち上げて、必死に機能リストに目を走らせる。……と、その時だった。


『くくっ……確かにそうだな、如月唯人。お前は己の罪に向き合うことができず、逃げ出した卑怯者だ……!』


 そんな状況に追い打ちをかけるように、嘲笑うアリアドネの酷薄な声が響き渡った――。

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