第98話
「こ、この光景は……、っ!?」
「姉さんっ……!」
記憶にない景色が視界に映し出されるとともに、鋭い衝撃が頭の中から全身へと広がりゆく。突然の痛みに思わず顔をしかめながら、私はなっちゃんが差し伸べてきたその手を強く握り返した。
まるで意識を他人に乗っ取られて支配されるような、不思議で不快な感覚。ひょっとしてこれは何かの罠で、敵が仕掛けてきた精神攻撃なのかとも考えて反射的に身構えたが、……そんな緊張と困惑をよそに目の前の景色は徐々に輪郭を整え、色彩を帯びたものへと変わっていった。
「ここは、どこ……?」
一見したところ、どこかの小屋の中のようだ。ただ、窓は全て締め切られた上に分厚いカーテンで覆われているため、辛うじて差し込む陽光で今が日中だとわかる以外は、この建物の所在を窺わせるものが何もない。
室内は埃っぽくて垢の蒸れたような臭いが混じり、あまり良質とは言えない空気が充満している。すぐそばで暖炉の火が薪のはじける音を立てて燃えており、それが灯りとなってぼんやりと薄暗い室内を照らし出していた。
「……姉さん」
「ええ……」
なっちゃんの呼びかけに頷き返しながら、私は視覚だけでなく嗅覚も、温感も働いている状態を確かめる。……これと同じ体験を、私たちは直近に味わったことがあった。
「メアリの妖術によって閉じ込められた時と同様に、誰かの過去の記憶が入り込んできているのでしょうね。そして……」
先ほどのヴェイル、ヌイの声から察して、推論はすぐに出る。おそらくこの光景は、彼女たちの記憶が私たちの脳内に侵入して構築された、疑似的な空間に違いない。
媒介となったものは……さっきまで彼女たちが装着していた、この髪飾りだろうか。そう考えて感覚を受け入れることで状態が安定してきたのか、痛みも次第に鎮まっていった。
「……?」
ふと部屋の隅で何者かの気配がして視線を向けると、そこに置かれていた小さなベッドがもぞもぞと動く様子が目に映る。そして、中で臥せっていた人物がゆっくりと起き上がって姿を現すと……それは粗末な衣装に身を包んだ、老婆だった。
『…………』
寝起きのせい……だけではなく、やつれ切ったその表情からは生気が感じられない。髪はぼさぼさに乱れ、目はどこに焦点を合わせているのかもわからないほど虚ろに濁っている。
……人がいると意識したことで、さっきからの異臭がその老婆から漂ってきていることに気づく。この感じだと入浴はもちろんのこと身体を洗ったり、身なりを整えたりといった行為さえまともにしていないのだろう。
「このお婆さんは、いったい……?」
そんな、疑問の言葉が口から漏れ出たその時……再び私たちの脳内にあのアンドロイドの姉弟の声が響き渡ってきた。
――ストロガノフ・ロマイア。かつて北方の諸国を支配したロマイア王朝の、お姫さまだった人。そして……。
――王族の、最後の生き残り。それが、僕たちにとって大切な人……。
× × × ×
……今から100年前の20世紀初頭、ロマイア王朝で革命が起きた。支配階級に虐げられていた民衆と農民が蜂起して都を襲い、長い内戦の末に王政を廃して新政府をうちたてたんだ。
どちらが正義と悪か、なんて僕たちにはわからない。多くの人々の心をつかんで力を手に入れた側が勝ち、そして見捨てられた側が負けた。それだけだ。
だけど、新政府の支配者たちは負けた皇族、貴族を許さなかった。戦争が終わってからもたくさんの命が失われたり、見せしめのようにひどい扱いを受けたりした。
……その中にはまだ年端も行かない、自分の身に何が起こったのかすらわかっていない子供もいた。僕たちのおばあさん――ストロガノフさんも、そのひとりだった。
新政権の兵士たちは、幼いストロガノフさんを家族から引き離し、辺境の村に連れ去った。そして村はずれの貧しい小屋の中に放り込んで、戸惑う彼女に向かって言った。
『……姫様。今日からあなたは、ここで暮らしていただきます』
『なに、われわれも悪魔ではない。あなたが生きていくだけの援助は保証しますよ』
『まって……! おとうさまと、おかあさま……みんなは、どこ?』
『なに……すぐに会えますよ。その日を楽しみに待っていることです』
その言葉を残して、兵士たちは出ていった。つい数日前まで王城で何不自由のない生活を送ってきた彼女は、あまりにも突然な環境の変化に泣くことも忘れるほどに呆然となって、ただ閉じられた扉を見つめるだけだった……。
その日を境にして、ストロガノフ王女――いや、王政は廃止されたからただの少女、ストロガノフさんの新しい生活がはじまった。
厳しい見張りがついて、外に出ることは一切許されなかった。毎日、役目を仰せつかった村人の手で衣類と食糧が届けられるものの、彼らはかかわり合いになるのを恐れてか、顔もほとんど見せずに玄関口のそばに置いていくだけ。もちろん、会話を交わす機会なんて皆無に等しかった。
軟禁、なんて生易しいものじゃない。ほとんど牢獄暮らしのようなものだよ。……でも、そんな中で彼女にはひとつだけ、許されていたことがあった。
それは、人形遊び。人形集めが大好きだったストロガノフさんはかつて、両親や家臣からたくさんの人形をもらって大切にしていたんだ。
その私物は本来、王政の廃止とともに新政権に没収されるはずのものだった。……だけど同情か気まぐれか、気を利かせた誰かが小屋の中に運び込んでくれたらしい。
彼女はその人形全部に名前を付けて、とても可愛がってくれた。……そしてその中には、僕たちもいた。
『……おはよう。みんな、元気……?』
ストロガノフさんは毎日そんなふうに、壁いっぱいに並んだたくさんの人形たちと朝の挨拶を交わしたり、両親や、兄姉たちのことをとめどなく話したりした。夜になって寝る時には、おやすみの言葉を伝えて眠った。
誰とも話すことがなく、何もやることがない彼女にとって……それは本当に、唯一の娯楽だったんだ。
そんな日々を送りながら、彼女はずっと家族が来るのを待った。兵士たちが言ったことを信じて、何年も、何十年も。
『お父さま、お母さま……いつになったら会えるんだろう。ねぇ、みんな……?』
あの人は僕たちに、何度もそう言っていた。その寂しさ、悲しさは痛いほど伝わっていたけれど、言葉を話せない当時の僕たちは慰めることも、励ますこともできなくて……すごく、悔しかった。
……あの人は知らなかったんだ。両親と他の兄姉は、みんな革命の時に捕らえられてすでにこの世の人ではなかったことを。だから、『すぐに会えますよ』――兵士たちの言葉はすなわち、彼女が独りではそれほど長く生きられないだろう、という揶揄の裏返しだったんだ。
それを後々になって知った時の、僕たちの気持ち――ここであえて説明するまでもないよね?
やがて、ストロガノフさんは子供から、少女、そして女性に成長して……。
外の世界のことなんて何もわからないまま年老いて、やがておばあさんになっていた。
『……。このまま、私はひとりぼっちで死ぬんだろうか……』
与えられた食事をして、人形と独り言のような会話をしてから、疲れて眠る……自由なんてない、ただ生きているだけの毎日。
夢も希望も、何もなかった。おばあさんは次第に感情を表に出すこともわからなくなって、いつしか僕たち人形との会話さえ億劫になっていた。
『……あんたたちが、話ができたらよかったのにねぇ……』
そう、寂しそうにおばあさんから言われた時は……胸が張り裂けそうだった。自分たちが人形であることを憎んで呪うようになったのはひょっとしたら、それが始まりだったのかもしれない。
……でも、そんな彼女の暮らしにある時、転機が訪れたんだ。
『おばあさん、こんにちはー!』
『……えっ……?』
朝の差し入れの時間になって、扉が開かれた。だけど、その向こうに立っていた女の子はいつもの村人たちと違って無言で立ち去ることなく、それどころか食事や日常品を入れたかごを両手に抱えたまま、わざわざ室内に入ってきた。
『? どうしたのおばあさん、お身体の具合、よくないの?』
『い、いえ……お嬢ちゃん、あなたは?』
その子に尋ねかける言葉を口にしておばあさんは、驚いて息をのんだ。誰かに話しかけるなんて、もう何十年ぶりのことだったからだ。
そして女の子は、弾けるように明るい笑顔を浮かべながら彼女に応えていった。
『私は、クルーシァ! みんなは、ルーシャって呼んでくれるよ』
『……ルー、シャ……』
『うんっ! これからよろしくね、おばあさん!』
そう言って、女の子――ルーシャがにっこり笑った瞬間、おばあさんはその背後に「光」を感じた。
錯覚なんかじゃなかった。それは、今まで見たことも感じたこともないほどにまぶしくて、あたたかくて……とても、優しい光だった――。
それからルーシャは、毎日おばあさんの家に来て食事を渡すついでに、話の相手をしてくれるようになった。時にはお茶をしながら、日が暮れるまで話し込むこともね。
彼女がいうには、どうやら新政府のほうで何か異変があったそうなんだ。それで見張りについていた兵士たちが去り、世話役に対する制約もなくなって自由に接することができるようになったらしい。
……だけど、そんなことはどうでもよかった。ルーシャとの出会いはおばあさんにとって本当に貴重で、かけがえのないものだったから。
最初の頃は、大きすぎる変化に戸惑いもあったものの……ルーシャの笑顔にひきこまれていくうちに、彼女の表情もみるみる明るくなっていった。そして、それに合わせるように僕たち人形に話しかけることも以前と同じくらい、いやそれ以上に増えてきたんだ。
『ねぇ、みんな。ルーシャは、本当にいい子なんだよ……』
夜になってルーシャが帰ってからおばあさんは、昼間に彼女と話したことを楽しそうに教えてくれた。その内容は僕たちも一緒に聴いていたから全部わかっていたんだけど、その嬉しくて幸せな感情はすごく伝わってきた。
こんなにも明日の訪れを心待ちにするおばあさんを見たことなんて、今まで一度もなかった。僕たちまであたたかい気分だった。だから、僕たちはルーシャに感謝すると同時に、自分たちにはできなかったことをやってのける人間のすばらしさにすごく興味を持つようになった――。
× × × ×
「……。あれ……?」
ルーシャという女の子の容貌を見て、私はまさか、と声を上げる。
最初の時から、なんとなく既視感を抱いていたのだけど……その理由が、やっとわかった。めぐるさんにそっくりなのだ。
それも髪の色といい、どことなく日本人に近い面立ちといい……ひょっとして――。
「(まさか……ね)」
あるいは遠い親戚とも可能性を考えたが、今からさかのぼっても50年以上も前の話で、しかも北方の大陸に住んでいる子と似ているなんて、さすがに他人の空似だろう。そう思い直して私は、再びヴェイルとヌイの語らいに意識を戻した。
× × × ×
……そして、ある日のことだった。
『おばあさん、みてみて! 私が作ったんだよ』
そう言って、喜々とした表情を浮かべながらやってきたルーシャの手の中にあったものは、半分に割れたメダルを使ったペンダントだった。
『お父さんがくれたメダルを使って、私がつくったの! どこかの国にあった古いお守りで、幸運を呼ぶ不思議な力があるんだって!』
『おやおや……よくできてるねぇ。とっても素敵なペンダントだよ』
『ほんとに? おばあさんもそう思ってくれる?……じゃあこれ、はいっ』
『えっ……!?』
それを差し出されたおばあさんは、一瞬何のことかわからない様子だった。
でも、続いてルーシャがいった言葉に、あの人はわが耳を疑い、そして目を大きく見開いて驚いた……。
『これは、おばあさんへのプレゼント! 今までずっと、楽しいお話をさせてもらったからそのお礼!』
『い……いいのかい? だってこれは、ルーシャの……』
『うんっ! 私はこれの半分を持ってるから、大丈夫! それに私、おばあさんにも幸せになってもらいたいから……ねっ?』
『――っ……!!』
プレゼントを誰かからもらうなんて、もう何十年ぶりのことだろう……。
ペンダントを受け取ったおばあさんは、ぼろぼろと涙をこぼした。もう忘れかけていた、昔の幸せで優しく、暖かった記憶が蘇って、切なくて……。
『っ? どうしたの、おばあさん? なんで泣いてるの?』
『……ありがとう、ルーシャ。あなたは本当に、いい子だねぇ』
そう言ってストロガノフさんはルーシャの頭を優しく撫でながら、真心を込めて感謝を伝えた。そして座っていた安楽椅子から立ち上がると、壁際の棚に飾ってあったマトリョーシカの片方を手に取って、その子に差し出していったんだ。
『代わりに、この人形を持っておゆき。私だと思って、可愛がってやっておくれ』
『えぇっ、いいの!? ありがとうおばあさん、大切にするねっ!』
ルーシャは本当に、心から喜んでくれた。それが嬉しくて、幸せで……。
おばあさんはまた、涙を流していた。
…………。
でも、その直後に悲劇が起こった。
その年の暮れ頃、とてもたちの悪い流行り病が発生したんだ。
あっというまにそれは、その村全域に広がった。ルーシャも、その病気にかかって明日をも知れぬ身になってしまった。
おばあさんは祈ったよ、心の底から。どうかルーシャの病気が治って、また元気な笑顔を見せてくれるように、って。それだけじゃなく、自分の家族が戻ってきた時のため、と内緒でとっておいた宝石やお金を彼女の両親に差し出して、遠くから医者を呼び寄せたり、高い薬を手に入れたりもした。
でも、……ダメだった。
雪の降る寒い夜、……ルーシャは手当てのかいもなく、息を引き取った――。
そしておばあさんの不幸は、まだ続いた。
『あの村はずれに住むばあさんは、魔女だ』
『呪いの人形をルーシャに持ち込ませたから、この村に病が蔓延したんだ……!』
そんなうわさが広がって……流行り病は、全部彼女のせいにされてしまった。
誰が言い出したのかなんて、わからない。興味もない。……ただ、それまでおばあさんの境遇に同情して、ルーシャの行動を黙認していた村人たちまでもが手のひらを返したように憎悪を向けるようになったんだ。
『魔女を殺せ!』
『呪いの人形を、全て焼き尽くせ!』
村人たちは大挙して押し寄せ、村外れの小屋を取り囲んだ。そして我を失ったまま、それぞれの手に持ったたいまつで火を放った……。
燃え盛る炎の中、おばあさんは逃げようと考えなかった。ルーシャがいなくなった以上、彼女はもう、生きる希望を完全に喪ってしまっていたんだ。
するとそこへ、窓の外から何かが小屋の中に投げ込まれた。……あのマトリョーシカだ。ルーシャの命を奪った呪いの人形だから、一緒に焼いてしまおうと村人の誰かが考えたんだろうね。
そして――
『……っ……!?』
マトリョーシカの中は、空洞だ。だから床に落ちた時に二つに分かれて、その中に入っていたものが転がり出てきた。
それは……半月状のメダルだった。
『ルーシャ……あなたは……、っ……』
それを見たおばあさんは、泣いたよ。あの人があげた人形の中に、ルーシャは自分の大切なものをしまってくれていた。そして、それが何を意味しているのかを理解してね……。
『……。せめて、これだけは……』
だから、おばあさんは2体のマトリョーシカの中に自分のペンダント、そしてメダルをそれぞれに入れて、床の下に隠した。
火に焼かれてしまわないように、って思ったんだろう。だってそれは、大切な友達との絆……自分の生きてきた時間の中で一番、幸せな思い出の証だったから……。
『……もし、生まれ変わることができるのだとしたら……』
焼かれていく家具類と人形たちを見つめながら、おばあさんは寂しそうな表情で呟いた。……僕たちはその言葉、今でもはっきりと覚えている。
『今度は、家族に囲まれたあたたかい生活を送りたい……そしてルーシャ、あの子とも一緒に、毎日を笑って……』
× × × ×
「……っ……!?」
はっ、と息をのんで顔を上げた瞬間、紅蓮に包まれた目の前の景色が本来私たちの立っている研究ルームへと移り変わる。
そして、気がつくと破壊されたポッドの中からヴェイル、ヌイがそれぞれ立ち上がり……その瞳に弱々しい光をともして私たちに向き直っていた。
「っ、ということは、まさか……」
その姿を見て、私たちはすべてを理解する。ストロガノフ・ロマイアが炎に包まれる小屋の中で遺したという2体の人形。それは、つまり――。
「……そう。私たちがその、マトリョーシカ。そして――」
「あの人の願い……そして悲しみを引き継いで生まれたのが、僕たちってわけさ――」
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