第94話

「て、天使ちゃんが……どうして……っ?」


 あまりに想定外な「ひと」の姿を目の当たりにした私は湖水をかき分け、足下のいびつな凹凸に何度かつまづきそうになりながら慌てて駆け寄る。

 天使ちゃん――数多の可能性によって無限に存在する『平行世界』を見守り、その構造を維持する『ワールド・ライブラリ』の管理者。その立場と能力をもってすれば時間や場所の概念を超越して「世界」間を移動するのは容易いことであり、このように出現したとしても別に不思議なことじゃない。

 ただ、……現時点の私の姿、そしてこの場所は過去の記憶のとおりとはいえ、意識と自我は成長した「今」のもの。つまり、この二つの時間軸が混在する空間は私自身の夢であり、それゆえに現実の世界とは異なる精神上の「幻想」と考えていたから、たとえ超常の存在であったとしても現実の存在である「彼女」が介入できるはずがないのだけど……。


「(あるいは……今見ている天使ちゃんも、私の夢が生み出したものなの?)」


 正直、何が現実で何が夢なのか、こんがらがって思考をまとめることができない。すると天使ちゃんは、逡巡する私を焚きつけるように切羽詰まった声で言い募った。


『詳しい説明は、あとでさせてもらいます! 混乱するお気持ちはよくわかりますが……今はとにかく、私の言うことを聞いてください!』

「っ、け、けど……」

『このままだと、めぐるを本当の意味で救えなくなってしまいます! これは夢でも、『平行世界』によって生み出された可能性分岐でもない、ただ一つの事実です!』

「……っ!」


 めぐるのことを強い口調で突きつけられた私は、はっと息をのんで困惑と逡巡を頭の中から叩き出す。

 天使ちゃんがなぜこんなに焦っているのかは確かに気になったが、それをさておいても現状は黒い渦によって飲み込まれためぐるの救出が最優先事項であることは、間違いない。その後のことは、まずめぐるの安全を確保してから整理するなり、解決すればいいだけの話だ……!


「なら、一刻も早く追いかけて、めぐるをっ……!」

『ダメです! 今のあなたは、年相応の力しか持っていない……普通にもぐって泳いでも、追いつくことはできません』

「だったら、どうすれば!?」

『……緊急事態です。私の力を受け入れてください――、っ!』


 そう言って天使ちゃんは、私の胸元めがけて勢いよく飛び込んでくる。そして体当たりをするように、巫女装束の襟口に触れたかと思うと、その内部――どころか体内へと侵入した。


「なっ……!?」


 その姿が入り込んだ途端、私の全身は金色の光に包まれて輝き……濡れそぼって冷えていた手足に、力とあたたかさが隅々にまで行き渡るように広がっていく。

 これって……アインと『同化』した時と同じ……? そんな内心での呟きを感じ取ったのか、私の頭の中に「――その通りです」と天使ちゃんの声が響いてきた。


『私と『同化』した状態であれば、水中でも息ができるはずです……さぁ、行きましょう!』

「わかったわ!……っ!」


 私は改めて湖の奥へと足を進めると、徐々に深さを増していく水面が肩あたりに達したところで深呼吸とともに気持ちを鎮め、意を決して頭まで水中に身を沈める。続いて水泳のターンの要領で向きを変え、はるか下に感じる底に向かって泳ぎ出した。


「(息が……できる。それに、視界も……!)」


 天使ちゃんが『同化』した効果なのか、さっき潜水した時は何も見えなかった水中が薄暗がりながらもある程度見通すことができる。それに加え水の抵抗が思ったよりも軽く感じられて、まるで自分が魚になったようにぐんぐんと進んでいった。


「……っ……!」


 やがて進むうち、底の方から徐々に水流が感じ取れるようになる。……おそらく、その先にめぐると、先ほどの黒い渦をつくり出した「何者」かがいるのだろう。

そう考えた私はさらに水をかく手を速め、蹴り足に力を込めた。


「……、いた……!」


 ほどなく私の進む先に、めぐるとおぼしき小さな人影が見えてくる。私と違って、呼吸ができないのだろう……苦しそうに口をふさぎながら流れに抗い、必死にもがいている様子だった。


「――めぐるっ……!」


 懸命に呼びかけてみたが、その声は水中のために泡となって届かない。それでも、接近を試みる私の気配を感じたのか……めぐるはゆっくりと目を開けて、こちらに顔を向けるとその小さな手をいっぱいに延ばそうとしてきた。


「くっ……このぉっ……!」


 あと少しのところで流れが急激に早く、不規則になっていく。おまけに小さなこの身体のせいで姿勢を安定させることが難しく、まっすぐに向かうことができない。気持ちが急いて苛立ちと焦りは募る一方だったが、私は何とかその気持ちを抑えながら、前にはだかる水の壁を引き裂かんばかりの気迫で湖中を漕ぎ進んだ。

 そして、ようやくめぐるの表情をはっきりと見てとれる距離に近づき、その手をつかんだ次の瞬間――。


『……おいおい、邪魔してんじゃねーよ。今いいところなんだからさ~』

「なっ……!?」


 突然、「声」が頭の中に直接話しかけてくる。いったいどこから、と左右に視線を振り向けたその時、暗闇に包まれた渦の中心から黒い触手のようなものが伸びてくるのが見た。

 とっさにめぐるを引き寄せ、私は彼女の身体を抱きしめて庇う。だけど、水中では回避もままならず、あっさりと2人まとめてそれに絡めとられてしまった。


「ぐっ……!?」

『ったく……お前、なんなんだ? ガキのくせにとんでもねぇ追いかけてきやがって……さすがに驚いちまったじゃねーか』

「あ……あなたこそ何者、なの……っ?」

『ほー? この状況でもビビらず話ができるたぁ、大したもんだな。さすがは如月家、いや『天ノ遣』開祖以来の神童――『アカシック・レコーダー』ってやつか』

「っ……!?」


 以前にも何度となく聞いた……そして、今もなおその意味を正確に理解できない言葉でそう称されて、私は苦しさを一瞬飛ばすくらいの驚きで目を見開く。

 ……いや、それだけじゃない。この声の感じと、口調……私の記憶の中にある「知って」いるものだった。


「あなたは……ブラックカーテン……?」

『っ? お前……なんで俺の名を知っていやがる……!?』


 さっきまで余裕たっぷりに飄々としていたその声に、驚きと緊張した敵意がはっきりと入り交じって聞こえてくる。その動揺が術の乱れに繋がったのか、闇に覆われていた渦の中心部がわずかにかすみ、そこにいた「存在」の姿を浮かび上がらせていった。

 その姿を見て、私は思わず息をのんで全身に戦慄を覚える。それは――。


「っ、……蜘蛛……!?」


 八本の脚を従えた胴体に、頭部には複数の赤い眼……さらに、水中にもかかわらず周辺に張り巡らされていたのは、網のような「巣」。まさに、地上の生き物で言うところの「蜘蛛」としか表現できないものだ。


「(じゃあ、あの日私たちを襲ったのは、このブラックカーテン……!?)」


だとしたらいったい、何のために?……そんな疑問をぶつけようと口を開きかけたが、それよりも早く胸の中に抱えていためぐるがついにこらえきれなくなったのか、口を開いてしまう。その瞬間、私の目の前を大きな空気の泡が無数の粒とともに浮かび上がっていった。


「っ、めぐる……!?」


 必死に呼びかけるが、めぐるは意識を失ってしまったのか、身体からみるみるうちに力が抜けていく。

 まずい……このままだと、めぐるは……!


『すみれ、『平行跳躍(レイヤージャンプ)』を使います! めぐるを絶対に離さないで、意識を集中させて……!』

「れ、『平行跳躍』っ? それって、何を――!」

『……今です!』


 言葉の意味が分からず、私はその説明を求めようとしたが……それが届かなかったのか無視されたのか、天使ちゃんは気合の声とともに内部からエネルギーを放出させる。そして、現実離れした浮遊感とともに意識が遠のきかけた――かと思った次の瞬間、


「えっ?……きゃぁぁぁあっっ!?」


 いきなり周囲から水の感覚がなくなっただけでなく、重力感が加わったかと思うと、私はめぐるを抱えたまま下に向かって落ちる。激しい衝撃に続いて痛みが全身を駆け抜け、顔をしかめながら視線を巡らせてみると……私たちは古めかしい、小さな和風のつくりをした板の間の床に投げ出されていた。


「こ、ここは……?」

『如月神社の、祭壇の間です。うまい具合に『アストレア・メダル』が存在してくれていたので、無事に脱出ができたようです』


 そう言って天使ちゃんは私の身体から抜け出ると、ふわふわと浮かびながら部屋の上座へと移動する。

……確かに言われてみれば、見覚えがある。そして彼女の言うとおり向かった先には祭壇があり、お札や玉串などに飾られた隙間に円盤状のものが祀られているのが目に映った。


「(あれも……『アストレア・メダル』だったんだ……)」


 知らなかった事実に驚きを覚えながら、私は目を凝らしてそれを見る。まさか、チイチ島の如月神社に『アストレア・メダル』が存在していたとは思わなかったが……そのおかげで私たちは命拾いをしたということだろう。


「(そういえば……)」


 ふと、思い出す。母たちからあとになって聞かされた話によると、私たちはこの神社の中でずぶ濡れになった状態で発見されたという。だから2人が湖に落ちた後、いったい誰が助けた上でここまで運んでくれたのか、ということが長い間ずっと疑問だったらしいのだけど……。


「私たちが助かったのは、こういう経緯だったのね……」

『多少の違いは生じてしまいましたが、おおむねその通りです。……でも、まだ終わりではありません』

「えっ――、っ!?」


 天使ちゃんの、いまだに解けない緊張した面持ちがどこに向けられているのかを悟った私は、抱えたままのめぐるの表情を覗き込んで……息をのむ。


「う……嘘……っ……!?」


 ……めぐるが、息をしていない。

心臓の鼓動も全く感じられず、身体のぬくもりも急速に冷えて――。


「めぐる……めぐるっ!!」


 大声で呼びかけても、力を込めて乱暴に揺さぶっても……彼女は全く反応を示さない。

……全身から血の気が引き、驚愕と戦慄で頭の中が真っ白になる。それでも私はその身体を横たえると半狂乱になりそうな気持ちを必死に抑えながら、思いつく限りの蘇生措置を行った。


「…………」


だけど、……何をしても、変化は、なかった。

水を吐かせ、胸部を圧迫し、息を吹き込んで……どれだけ手を尽くしても、めぐるの意識は戻らない。

声も、反応も、……かすかな動きさえ、私の手には何も伝わってこなかった……。


「そ……そんなっ……!!」


 ……視界が、暗い。何も見えない。

絶望に打ちひしがれ、私は全身をがたがたと震わせながら……両肩に鉛がのしかかったような息苦しさと圧迫感を覚え、その場に崩れ落ちた。


『友達になってくれる?』


 そう言って、手を差し出してくれためぐるの屈託のない笑顔が浮かんで……ボロボロと涙がこぼれ落ちていく。

 ……私の、せいだ。

つまらないことで迷わず、もっと早い段階で決断していれば……ブラックカーテンとのやり取りに気を取られていなければ……っ!

 そんな後悔と、自己嫌悪が思考を支配し……身体の中からふき上がる激しい感情が爆発しそうになる。そして心が闇に染まり、怒りとも悲しみともつかぬ思いに耐え切れず言葉にならない叫びを上げかけた、その時――。


『――大丈夫です。めぐるは、救えます』


 決壊寸前の思考と感情を包み込むような、優しい声……それを聞いた私は、はっ、と顔を上げる。

 ……ただの慰めなどであれば、耳には届かなかっただろう。だけど、「めぐるを救える」という彼女の言葉は今の私にとって何にも代えがたい、まさに一縷の望みにつながる拠り所だった。


「す、救えるって……本当にっ?」

『えぇ。あなたなら……いえ、あなただからこそめぐるを救うことが「できる」のです』

「ど……どうやるの!?」


 立ち上がる動作も惜しい思いで、私は這うように天使ちゃんのもとへとにじり寄る。

なぜ、という疑問は浮かばなかった。私が欲しい答えはめぐるを救う方法、ただそれだけしかなかった。


「(それは、ひょっとしたら人の道や世の中の理に背いて、後々にとんでもない代価を求めるものかもしれない……だとしても……!)」


めぐるの生命を取り戻すことと引き換えならば、たとえ自身の魂でも差し出してみせる。その覚悟を胸に、私は天使ちゃんの次の言葉を固唾をのんで待ちうけた。


『そんなに畏まらなくても、大丈夫ですよ。あなたが幼い頃、めぐるを救った手順を改めて行うだけですから』

「私が……めぐるを救った……?」

『ええ。もっともあなたはあの時、無意識に自分の潜在能力を発動させたようでしたが……』

「…………」


 そう言われてみても実感がわかず、私は自分でもわかるほど渋面になって首をかしげる。

天使ちゃんの言葉を信じるなら、何らかの方法で私はめぐるの命を救ったようだが……その手応えどころか、記憶さえ残っていない。私が使った能力とは、いったいなんだったのだろうか。


『……では、始めます。目を閉じて、意識を集中させて……胸に手を当てて心からの祈りと、願いを捧げてください。あなたの大切な友達を、自分のもとへと呼び戻すように……』

「……っ……!」


 天使ちゃんに言われるがまま、私はめぐるの胸元に手を置いて目を閉じ、歯を食いしばるほどの力を込めて念を送り込んでいく。

 もはや、なりふりを構う余裕なんて欠片もなかった。あるのはただ、どこかもわからない暗闇に向かって声のない叫びを送る、痛切な想いだけだった。


「(お願い……目を覚まして、めぐるっ……!)」


『……天月めぐるのコアを固定。ディメンション・コード331-α『MESSIAH』を認証――※※※・※※※※※※※の権限のもとライフリンクを実行。『Akasha』、シンクロ開始――』


 …………。

 ……。

 すると、……冷たく、固く動かなかっためぐるの胸がとくん、とか細く揺れる。

それは、ゆっくりと繰り返しながら間隔を縮めて、力を増し……やがて、はっきりと手に伝わるようになっていった。


「めぐる……よかった……っ!」


 私はまだ意識を失っているめぐるの首元にすがりつき、頬をすり寄せる。

 どういう理屈かは、わからない。それでも一時は心の中がどす黒く塗りつぶされるほどの衝撃を感じて絶望した私にとっては何にも代えがたい救いと、嬉しすぎる報いだった……。


『当初の想定よりもギリギリになってしまいましたが……もう大丈夫です。彼女をつなぐ因果律が完全に消えないまま残っていてくれたことが、功を奏しましたね』

「ありがとう、天使ちゃん……!」


 私は嗚咽とともにとめどなく涙を流しながら、心からの感謝を込めて頭を何度も下げる。それを受けて天使ちゃんは薄く笑いながら、首を左右に振っていった。


『私は、あなたに感謝されるようなことは何もしていませんよ。先ほども申し上げたとおり、めぐるを救ったのはすみれ……あなた自身の力。私はそれが適切に発動するよう、道を指し示しただけです』

「私の……力……?」


 その意味をまだ実感も理解もできなくて、私は怪訝な思いを抱きながら天使ちゃんを見つめる。すると彼女は穏やかながらも厳かさをはらんだ表情になり、言葉を続けていった。


『無を有に。悲劇を幸福に。平行世界のあらゆる理の制約から逃れて、ひとつの「最善」を創造し、実現する力を持つ存在。それが、あなた……『アカシック・レコーダー』なのです』

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