第93話
……混濁した意識の中、どこからともなく「音」が聞こえてくる。
それが意味を持つ「声」だとおぼろげに感じ取った私は、誰か近くにいるのか、と思って目を開けようと力を込めた。
「…………」
なぜか、瞼がいつになく重い。それでもわずかに開いた隙間から、2人の人影らしきものが視界に映る。
「……、……」
「っ……! ……」
色彩と輪郭がかすんではっきりとは見えないものの、耳に届いた口調から一人はめぐるだとすぐに分かった。ただ、もう一人は……誰だろう。声の響きから察して若い男性のようだけど、真っ先に思い浮かんだ「あの人」とはどこか違う気もする。
「(何を、話しているんだろう……?)」
そう思った私は、めぐるに呼び掛けようと口を開きかける。……だけど、それよりも早く眠気にも似た感覚が頭の中に広がって、視界は再び闇に閉ざされてしまった。
「…………」
全身から生気が失われ、暗くて深い底へと吸い込まれるように意識が遠のいてゆく。その過程で私は、自分がどうして今の状況になったのかを思い出した。
「(そうか……私は、ブラックカーテンの罠に落ちて……)」
あの「影」が私に向けた妖しい笑みを間近にとらえながら、邪悪の瘴気に包まれたことで瞬く間に力を奪われてしまった光景が脳裏に蘇って……情けなさに臍を噛む。
激情に駆られて冷静さを失い、敵の策略にまんまと乗せられてしまうとは最低の対応だ。お兄様が知れば、きっと優しい口調ながらも私をたしなめることだろう。
それに、めぐる……あれほど私のために注意を促してくれたというのに、それを裏切るようにはねのけてしまった――、っ?
「……めぐる……!!」
大切な親友のことを思い出した瞬間、私は冷水を浴びたように朦朧としていた意識を覚醒させる。
そうだ……! 私が気を失ったままだと、あの子は一人であの「影」と戦うことになる。あのミスティナイトが一緒にいるとしても、とても安心できるものではない。
そう考えた私は自我を引き戻すと、一刻も早く目覚めなければ、と懸命に力を振り絞って意思を奮い立たせる。そして、暗闇の中に見えた小さな光のようなものに手を伸ばし、それをつかんだと思った次の瞬間――。
「えっ……?」
……目の前には、どういうわけか野外の明るい光景が広がっていた。
「……ど、どういうこと?」
わけがわからず、あたりをきょろきょろと見回して天を仰ぐ。さっきまで古めかしく暗い城の中にいたはずなのに、目を向けた先には大小の雲が浮かんだ空があり、輝く太陽は燦々と光を地表へと降り注いであたたかい。振り返ると背の高い木々が生い茂り、いっぱいの日差しを浴びて瑞々しい緑を彩っている。
そして、私の眼前には海――いや、これは湖か。折からのそよ風を受けてさざ波立つその水面はキラキラとした光の粒を無数に浮かべ、まるで鏡のように空の青さを反射しながら向こう岸をはるか遠くに臨んで広がっていた。
天と地を二分した、とても美しい景色。……さらに私にとって、ここは初めて訪れる場所ではなかった。
「どうして私が、『大鏡』に……」
そう、『大鏡』――。
ここで数か月前にメアリと戦い、快盗天使の先輩たちとともに大魔王の復活を阻止したのだ。そして、私がめぐると最初に出会った、思い出深いところ……。
「って、……なっ!?」
そう記憶を掘り起こしてから私は、ふと抱いた違和感を訝しく思いながら視線を左右に巡らせ、さらに自分の身体を見下ろしてあっ、と声をあげる。
……地面が、近い。立ったままの姿勢のはずなのに、踏みしめている芝生の青さどころかその合間の砂利、列をなして歩くアリの群れもはっきりと見てとることができる。
なによりも小さすぎる手のひらと、丈の短い子供用の巫女装束――もしやと思った私は駆け足ですぐそばの湖畔にたどり着き、誤って転落しないよう恐る恐る首を伸ばして水面を覗き込んだ。
天気が良いおかげで、私の「今」の姿がはっきりと映し出される。それを見て私は、驚きとともに目を見開いてその場に固まってしまった。
「な、なんで……?」
思わず発した自身の声も、変換されたようにたどたどしく聞こえる。……水面に映った私の顔はまるで童女――ではなく、まさに幼い日の私の容貌になっていた。
しかも衣装は、「あの日」行われるはずだった儀式向けの白無垢と蒼の巫女装束で、少し歩いた先には祭壇が準備されている……つまり――。
「あの日の、チイチ島……!?」
まさか、と思いながらも、目に映る光景は自分の記憶のとおりの様相を呈している。
10数年前……如月家の正当な後継としての禊を受けるため、私は母とともに『大鏡』を訪れた。そして儀式が行われる当日の朝、ここを訪れた私はめぐると初めて出会ったのだ。
そこで彼女と話して、仲良く手をつないだ直後……私たちは――。
「……っ……」
味わわされた過去の記憶が、恐ろしさとともに感覚として蘇り……私は思わずきゅっ、と胸元を握りしめる。
あの時、私たちは突然湖から立ち上ってきた渦に巻き込まれて、深い底へと引きずり込まれた。そして薄れゆく意識の中、闇の中にぞっとするような何者かの気配を感じて――。
気がついた時には、島の診療所のベッドの上だった。その後の母の話によると、私たちはずぶ濡れになった状態で如月神社の祭壇の前に横たわっているところを発見され、その後診療所へと運び込まれて数日間眠り続けていたのだという……。
「(……あの時、何が起こったんだろう。それに……)」
そもそも、私たちはどうやって湖底から脱出して、あまつさえ鍾乳洞を抜けた先にある如月神社へ移動したのか……記憶が蘇ったあとも、思い出せないままだ。だからエリュシオンからの帰還後、私はめぐるにそのことで何か思い当たることがないかを尋ねてみた。
だけど、彼女もまた『大鏡』で私と出会ったこと自体は覚えていたものの……それ以外のことは全くわからない様子だった。
『……『大鏡』の中にいた、黒い影? えっと……うーん……』
『覚えてない……?』
『ごめんね。すみれちゃんと仲良くなって手を握った時、渦に巻き込まれて湖の中に落ちたところまでは思い出すことができるんだけど、……そこから先は……』
『……そう。ごめんね、嫌なことを聞いて』
めぐるにとっては、思い返すのも辛い記憶なのだろう。そう言って詫びながら、……私は一方で若干の違和感を抱いていた。
「(めぐるは、あの黒い影を見ていない……?)」
湖の中に引きずり込まれた時、私は確かに渦の中心に「闇」の存在を見た。だけどめぐるは、それを見ていない……あるいは覚えてないという。
これは、どういうことだろう。単純に私たちの記憶力の違いであれば問題はないのだけど、それだけではないような不安がどうしても拭いきれない……。
「あの黒い影の正体は、いったい……、?」
頭を抱えてため息をつきかけたその時、不意に背後の林から不自然なざわめきを感じた私は反射的に振り返る。するとそこには木陰に隠れながら、目を丸くしてこちらを見つめる女の子の姿があった。
「めぐる……っ?」
あどけない顔をしていたが、一目見ただけですぐにわかる。それは私の記憶の中にある、幼い頃のめぐる本人だった。
それを見た私は、反射的に立ち上がって駆け出す。すると彼女はこちらの反応に驚いたのか、びくっと肩を跳ね上げながら踵を返し、脱兎のごとく逃げ出した。
「っ、待って……めぐる!」
めぐるの背中に呼び掛けながら、慌てて追いかける。そして林の奥にある鍾乳洞の入口の手前で追いつき、その手を掴むと彼女は「ひっ?」と怯えたように涙目で私に振り返った。
「あ、あの……あたし、その……っ……」
「怖がらせてごめんなさい。……でも、どうして逃げるの?」
「だ、だって……ここ、はいっちゃいけないところだって……」
その言葉を受けて、私はそうだった、と合点する。確かに『大鏡』のある場所は一般の人が立入禁止になっていて、如月家をはじめとする『天ノ遣』の資格者のみが足を踏み入れることを許された神聖な場所、という扱いを受けていたのだ。
実際、この場所に繋がる鍾乳洞の入口には厳重な鉄の扉が設置されていて、途中には退魔と人払いを目的とした結界もあったと思う。だから、容易に人がここに来ることはできなくなっているはずなのだけど……。
「……あなたは、どうやってここに?」
「え、えっと……いつもはしまってるとびらがひらいてたから、きになって……。だまってはいって、ごめんなさい……」
めぐるはそう言って、勢い良く頭を下げる。……その幼い仕草がとても愛らしく思えて、私はつい頬が緩みそうになるのを抑えられない。
ただ、……その一方で思考が、おかしいと私に告げる。なぜならこの時、私はその鍾乳洞を通ってここに来たのだけど、母からの言いつけを守って入口の扉は内側から鍵をかけていたはずだ。
それが、どういうわけかめぐるが訪れた時に解錠されていた……いったい、誰の手で?
「あ、あの……」
「? なに?」
「さっきはどうして、あたしのなまえを……?」
「え? えっと、その……」
そう尋ねられて、今度は私が返答に困ってしまう。
……これは私の夢の中の世界なのか、それとも何らかの現象で「跳んで」きた過去の世界なのかはわからない。ただ、めぐるとは初対面のはずなのに名前を知っているのは明らかに不自然なので、慌ててごまかそうと強引に話題をそらすことにした。
「え、えっと……めぐ――あなたは『大鏡』に、何か用があったの?」
「……わかんない。でも――」
きょとん、と首を傾げながら、めぐるはわずかに目を伏せる。そしてしばらく考え込むように押し黙ってから、口を開いていった。
「だれかに、よばれたような……そんなきがしたんだ」
「…………」
めぐるの言葉を聞いて私は、自分もそうだった、と記憶を辿って同意する。確かに私も、誰かの声を聞いてここにやってきたのだ。
如月家の儀式――生後1000日を経た日、次期当主の資格を得た者はその力を示すため、この世とあの世を隔てる門の一つである『大鏡』を訪れ、それを臨む場所で禊を受けることになっていた。
ただ、私もお母様に言われるがままやってきただけなので、なぜここなのか、そしてその禊にどんな意味があるのかは理解していなかった。
それに、……緊張もあった。お母様がいつになく緊張した面持ちで、「しっかりお務めを果たすのですよ」と出発してからここに到着して宿に入るまで、何度も私に注意をしていたからだ。
とはいえ何もわからなかったから、表向きは大人しく頷いて従うのみだった。だけど内心では、不安と恐怖で一杯だった……。
『……。うまくいかなかったら、どうしよう……』
そんな思いを抱きながら、まだ誰も起きていない早朝に目覚めた私は……確かにそこで、声を聴いた。そして、それに誘われるように鍾乳洞を抜け、この『大鏡』を訪れた……。
「(あの声……めぐるじゃないとすれば、いったい誰だったの……?)」
「……? あの、どうしたの」
「えっ?」
考え込むようにうつむいていると、ちょこん、としゃがんだめぐるが私の顔を覗き込んでくる。その目は私のことを気遣うように、じっと私の様子を見つめていた。
「なんか、かなしそうなかおをしてたから……。どこか、いたいの?」
「……。ううん、別に」
私は即座に首を振って、にこやかに笑いかける。するとめぐるも安心したのか、朗らかで屈託のない表情を浮かべながらえへへっ、と口元をほころばせた。
「それにしても……島の中に湖があるなんて、素敵ね」
「うんっ。このチイチじまのめーしょ? なんだって。でもふだんはちかづいちゃいけないから、あんまりここにくることはないんだけど……」
「……どうしてなのか、理由は知ってる?」
「わかんない。こどもがあそんだり、およいだりしてあぶないから、かな……?」
「…………」
そういえば以前、メアリとの戦闘後にチイチ島の人たちと話す機会があったけれど……彼らもまた『大鏡』についての詳細は知らない様子だった。めぐるの両親もまた、天月家が『天ノ遣』の立場を離れて久しいせいか、私が知る以上のことは何も聞きだすことができなかった……。
「(この湖はどうして、ここにあるんだろう。それに……)」
あの時の黒い影は、メアリが復活させようとした大魔王ゼルシファーだったのだろうか。それとも全く別の、私たちが知らない悪しき存在の可能性も……?
「……かわいいね、それ」
「え……な、なにが?」
思考に浸っていたところに突然話を向けられて、心の準備ができていなかった私は若干の動揺を押し隠しながら顔を向ける。すると、めぐるは私の額のすぐ上を指さしながら言葉を繋いでいった。
「おはなのかんむりっ。まるでおひめさまみたい♪」
「……?」
めぐるにそう言われて、ようやく自分の髪に飾られていたものに意識が回る。確かに、湖面に映っていた私の頭には花の冠のようなものがあった。
そっと手を伸ばし摘まんでみると、白い花びらが何枚か指にはりついてくる。この花は、湖のほとりに咲いていたのと同じものだ。だけど――。
「(これって……私がつくったの……?)」
「あの日」のことを全て把握しているという自信はないけれど、これは私が記憶している限りでは私ではなく、仲良くなった記念としてめぐるから贈られたものだったはず。それに、花で冠をつくることは特に嫌いではなかったが、これから行われるであろう神聖な儀式の前に幼い頃の私が、母たちの承諾もなく現場の自然を「荒らす」ようなことをするとはちょっと考えられない。
だとしたら……これはいったい、誰が私に……?
「きれいだねー。あたしもそれ、ほしいなぁ……」
「そ、そう? あっちの湖畔にまだたくさん咲いていたから、あなたの冠も……どう?」
「ほんとにっ? じゃ、じゃあ……えっと……」
ぱあっ、と花が咲き誇るような明るい表情を浮かべてから、めぐるはもじもじと胸の前で両手を組んだりして言葉を選ぶように口ごもる。そして、なにか意を決したのか顔を上げると、赤くなった表情で告げていった。
「もし、よかったら……あたしとともだちになってくれる?」
「とも、だち……?」
「うんっ。ねっ、どうかな?」
キラキラと輝くような上目遣いで、めぐるは私をじっと見つめながら握手を求めてくる。
私の記憶にあった、大切な思い出の再現――。それが嬉しくて、思わず反射的に手を差し出しかけた私は……はっ、と躊躇を覚えて、それを途中で止めてしまった。
「(ここで手を握れば、『大鏡』から黒い渦が生まれて……私とめぐるはそれに飲み込まれることになる……)」
なぜ『大鏡』が私たちに反応したのか、その原因はいまだにわかっていない。ただ、それがきっかけになっていることは間違いなく事実だったので、その行動を繰り返してもいいのか確証を持てなかった。
「……あの、どうしたの?」
「っ、ううん……その……」
笑みをたたえながらも、わずかに不安で瞳が揺れるめぐるの顔を見て、私は尻込みしてしまった自分の意気地のなさを後悔する。そして大きく深呼吸をしてから、にっこり笑って再び手を差し伸べた。
「(断ることなんて……できるわけがない)」
それに、湖畔の時と違ってここならかなり距離があるし、いざとなれば鍾乳洞に退避することもできる。思って私は意を決し、彼女のその小さな手を握った。
――その、瞬間。
「えっ……?」
「(っ、まさか……!)」
あの時の記憶の通り、『大鏡』から真っ黒な影があふれ出したかと思うと、やがてそれは渦となって立ち上がる。そして猛然と林を突っ切りながら木々をなぎ倒し、呆然と立ち尽くす私とめぐるに向かって怒涛の如く襲いかかってきた。
「きゃぁぁぁあっっ!?」
「っ、めぐる……っ!!」
突然のことに、逃げる暇もなかった。渦流の勢いによって私とめぐるは手を放してしまい、そのままとらえられて虜となってしまう。それでも、なんとか意識だけは奪われまいと目を閉じて身をすくめ、やがてその抵抗がふっと軽くなったと感じたその時――。
「……。えっ……?」
全身を支配する違和感に目を開けて、私は呆然とその場に立ち尽くす。
めぐるの姿は……どこにもない。あとには凄惨になぎ倒された樹木の残骸と、えぐり取るように削られた地面。
なによりも私は、……ずぶ濡れになった格好で林の中に取り残されてしまっていた。
「な、なんで……っ!?」
どういうこと……? 確か記憶の通りだと、渦によって『大鏡』に飲み込まれたのは私とめぐるではなかったのか?
わけがわからない。……ただ、一つだけはっきりしていることがあった。
「っ、めぐるっ!!」
私は我に返り、慌てて湖の中へと足を踏み入れる。そしてあっという間に腰辺りを越えて水面が胸元に達したところで顔を沈め、水中を覗き込んだ。
……何も、見えない。まるで先ほどの異変が夢であったかのように水面は穏やかさを取り戻し、なだらかに深さを増す湖底が続くだけだ。
だけど、この奥底には間違いなく、渦に飲まれためぐるが引きずり込まれて……っ!
「(どうしたらいい……? いったい、どうしたら……っ!)」
このまま追いかけて、潜るべきか? ただ、この小さな身体でどれだけ息が続くかはわからないし、下手をすると溺れてしまう可能性だってある。
……だけど、私が逡巡した時間はほんのわずかだった。
「……。それでも、かまわない……!」
夢かどうかはわからない。だけど、めぐるを見捨てて自分だけが残る現実なんて、絶対にお断りだ。
そう意を決して、私はさらに湖の奥へと足を進めた――その時だった。
『――待ってください、すみれ!』
背後から呼びかけられて、私は振り返る。すると、そこには――。
「……て、天使ちゃんっ!?」
宙に浮かびながら私のもとへ飛び込むような勢いでやってきたのは、エリュシオンでの戦いでも私たちをサポートしてくれた『ワールド・ライブラリ』の管理人、あの天使ちゃんだった――。
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