第92話
霧のような禍々しい影に包まれて、すみれちゃんはまるで糸が切れた操り人形のように崩れ落ちていく――。
そんな、信じられない……ううん、信じたくもない光景を見てしまったあたしは愕然と息をのみ、頭の中が真っ白に染まったまま反射的に駆け出そうと地面を蹴った。
「す……すみれちゃんっ!!」
「――、サファイア!」
だけど、それよりも早く仮面の人――ミスティナイトがあたしを制止するように腕をつかみ、ぐいっ、と引き寄せる反動とともに目にも止まらないスピードで追い抜くとためらいもなく「影」の中へと突入する。そしてすみれちゃんの身体を抱きかかえ、後ろ向きのまま飛び込んだ時と同じくらいの勢いで元の場所に戻ってきた。
「ぐ……ぅっ……!」
すみれちゃんをその腕の中におさめながら、ミスティナイトは荒い息をついて肩を大きく揺らし、全身から滝のような汗をふき出している。
たぶん、すみれちゃんが意識を奪われたように「影」の中には精気を吸い取るような力が働いていたのだろう。顔色も明らかに悪く、苦しそうで……彼女を床へ静かに横たえるや、彼はがっくりとその場に膝をついた。
「ミスティナイトっ?」
「だ、大丈夫だ……。それより、サファイアを……」
その言葉に促されたあたしが顔を戻すと、すみれちゃんの身にまとっていたスーツが光の粒とともに消えて……元々着ていた学院の制服姿へと戻っていく。額には大量の汗で髪がはりつき、その表情は生気を失ったように青白かった。
「すみれちゃん! すみれちゃん……!!」
すみれちゃんはぐったりとしたまま、呼びかけにも応じる気配がない。まさか、と血の気が引く思いでその胸に手を当てると……かすかだけど上下の動き、そして脈動が伝わってきたので少しだけ、ほっとした。
「……私のミスだ。何としても止めるべきだったのに、制止できなかった……!」
そう言ってミスティナイトは、悔しそうに呻いて床にこぶしを叩きつける。
でも、それはあたしだって同じ思いだった。まるで嘲笑うように、お兄さんの幻を見せつけられた怒りにすごい目で睨んできたすみれちゃんに怯んで、引き止める気持ちが挫けてしまったのだから。
メアリの時はあたし自身が似たような罠にはまって、その脅威と可能性をよくわかっていたはずなのに……自分の心の弱さが、今はただ情けなくて仕方がなかった。
『……心配するなって、命までは取らねーよ。俺はこう見えて、カワイイ子には優しい男だからな』
その言葉とともに「影」は再び人の形に戻り、こちらを傲然と見下ろしてくる。そして、おもむろに掲げたその手にあったものを目のあたりにしたあたしは、あっ、と驚いて叫び声をあげた。
「それは……ブレイクメダル!?」
『……あぁ、そうだ。とりあえず一つ、いただいていくぜ。いずれはそこの赤いの、お前のメダルももらい受けるつもりだがな』
「……っ……!」
挑発的な言葉を投げかけられて、あたしはぎりっ、と奥歯をかみしめる。
できることなら、今すぐにでも飛び掛かってこのクラッシャーの大槌を叩きつけてやりたい。……だけど、さっきも「影」には攻撃が通用しなかった以上、それは感情的な意味のない行為だ。
そう自分に言い聞かせて、あたしは懸命にその場に踏みとどまったけど……悔しかった。ここまで自分たちの攻撃が無力化されたのは、きっとこれが初めてのことだろう。
『おーおー、怖い顔で睨んじゃって、おっかねーな』
「よくも……すみれちゃんを……!!」
『ほ~、俺のことが憎いか? ま、フツーに考えりゃそうなるだろうな。だが……』
そこで「影」は言葉を切って、あたしの顔を真正面から見据えてくる。その凄みに満ちた表情に思わず身構えかけると、……がらりと変わった口調で、それは続けていった。
『これだけは覚えておけ。……その娘がこんな状況になったのは、『天ノ遣』でも俺たちのせいでもねぇ。……お前だよ、天月めぐる』
「っ……!?」
『自分の存在ってのを、よく考えてみるんだな。お前は正義の味方でもなんでもねぇ、ただの偽善者だってことを――』
そんな意味深の言葉を残して、……「影」は消える。後には何も残らず、何もない部屋の空間だけが視界に広がっていた。
「……あ……」
少しの間あたしは、「影」が消えた痕を見つめたまま呆然と立ち尽くす。……だけどすぐ我に返り、すみれちゃんのもとにしゃがみ込むと懸命に呼びかけた。
「すみれちゃん……しっかりして、すみれちゃん!」
「……ダメだ、ローズ。「影」の妖気に当てられたダメージも深刻だが、それ以上にメダルを奪われたことで、彼女の体内の波動エネルギーが不安定になっている……」
「っ、不安定だと……どうなるんですかっ……?」
「この闇のオーラに満ちた城の中では、体力を大量に消耗してしまうだろう。最悪の場合、生命の危険も……」
「……なっ……!?」
一番聞きたくなかった事実を聞かされたことで、体中の血液が凍り付いたように寒気が駆け巡って……あたしの視界が真っ暗になる。そして、混乱と焦りで思考がぐちゃぐちゃのまま勢いよく立ち上がり、駆け出そうとした――とその前に、ミスティナイトが素早く立ちふさがった。
「待て、ローズ! いったいどこへ行くつもりだ?」
「どいてください、ミスティナイト! あの「影」――ブラックカーテンを捕まえて、すみれちゃんのメダルを取り戻してきます!」
「無暗に迫ったところで、敵の罠にはまるだけだ。今は少しでも落ち着いて何をすべきか、何ができるかを整理したまえ……!」
「で、でもっ……!」
じっとしていることそのものが罪悪にさえ感じるあたしは、なおも食い下がろうとしたけれど……どう考えてもミスティナイトの言うことが正しいと思い直し、口を噤んでうなだれる。そして、目を閉じたままのすみれちゃんの顔を視界の中にとらえてそばに歩み寄り、膝をついてそのほっそりとした白い手を自分の両手で包み込んだ。
「すみれちゃん……!」
たぶん錯覚なんだろうけど、手の中に収められたすみれちゃんのぬくもりが急速に失われていくようにも感じられて……思わず目が潤み、涙がこぼれ落ちそうになる。
すると、そんなあたしを見てミスティナイトは優しくぽん、と肩を叩き、「大丈夫だ」と気遣うように言葉をかけていった。
「君のパートナーは、こんなことで命を落としたりはしない。……安心したまえ」
「……どうして、そう言い切れるんですか?」
「さっき「影」は、あのまま君に攻撃をかけてもおかしくなかったのに、それをしなかった。……なぜだと思う?」
「それは、……」
ミスティナイトにそう問いかけられて、あたしはどうしてだろう、と首をかしげて思案に暮れる。
「影」――ブラックカーテンにはこちらの攻撃が全く効かず、逆に不可思議な力であたしたちを捕えようとしていた。途中からミスティナイトの加勢があってからも明らかに相手の方が優位な立場にあり、げんにすみれちゃんは誘い出される格好で敵の罠にはまり、メダルを奪われてしまった――。
「(あのままあたしが戦い続けても、たぶん勝てなかったと思う……)」
それなのにブラックカーテンは、あたしに凄んでみせたけどそれ以上の攻撃をしかけず、その場を立ち去った。あたしが持つもう一つのメダルを奪う絶好の機会だったはずなのに、どうして……?
「っ……! ひょっとして、あの場所から動けなかった……?」
「そういうことだ。こちらからの攻撃は通じないが、だからといって向こうからも攻撃することができない。……そしてあのタイミングで退散したということは、おそらくやつの妖術もあれが限界だったのだろう」
「…………」
「予断を許さない状況には違いないが、まだ手は残されてある。……希望を失うな、ローズ」
「……。はい……」
ミスティナイトの説明に納得して、とりあえずあたしは焦る気持ちを抑えて気持ちを鎮める。
それにしても、ミスティナイトの果断な行動力と冷静な判断力はさすがだ。すみれちゃんはこの人のことがあまり好きではないようだけど、みるくちゃん、そしてあの水無月先輩や神無月先輩が信頼している理由がよく分かったような気がした。
「けど……メダルを奪われちゃったら、すみれちゃんの身体が……」
「それも問題ない。こんなこともあろうかと、キャピタル・ノアからこれを預かってきた」
そう言ってミスティナイトは、懐から金色に輝くものを取り出してみせる。それは、外国の硬貨のように誰かの像をかたどった――「メダル」だった。
「それは、何ですか……?」
「ブレイクメダルの量産型としてつくり出された、人造の『アストレア・メダル』だ。君たちが持っているメダルと比べれば出力はかなり落ちるが、体力の消耗を食い止めることはできるだろう。これを使いたまえ」
「…………」
ミスティナイトから手渡されたメダルを少しの間見つめて、あたしはすみれちゃんの手のひらの上にそれをのせる。すると、以前にあたしがみるくちゃんからブレイクメダルを受け取った時のようにそれはゆっくりと中へ吸い込まれて――。
「あっ……!?」
その効果が働いたおかげなのか、青白かったすみれちゃんの顔に朱がさして、か細かった呼吸が少しずつ大きくなる。まだ意識を回復するほどではないようだけど、さっきよりは明らかに元気を取り戻してくれたように見えて……あたしは心からほっとして、胸をなでおろした。
「ありがとうございます、ミスティナイト。すみれちゃんを、助けてくれて……」
「いや……本来なら君の手で助けたかったのだろうが、邪魔をしてすまなかった。あの「影」は、助けに来た君も捕えようとしていたようだったからな」
その言葉を受けて、ミスティナイトの気遣いに感謝するとともに……ちくり、と違和感を胸に覚える。
あの時、彼のバラの攻撃はお兄さんの偽者を貫き、倒してみせた。あたしとすみれちゃんの攻撃は「影」に対して全く通用しなかったはずなのに、あの一撃が有効に働いたのはどうしてだろう。
それに……あたしには、どうしても自分の「力」のことで確かめておきたいことがあった。
「あの……ミスティナイト。ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
あたしは深く息を吸って意を決し、さっきのことを思い出しながらミスティナイトに向き直る。
とりあえず、すみれちゃんに対しての心配はなくなった。だからあたしの関心は、去り際に残した「影」の言葉に移っていた。
「あの「影」が言ってたのは、どういう意味ですか? 『決戦兵器』と、『泉』って……」
「……。ただの苦し紛れの戯言だ。君が気にする必要はない」
わずかに息をのむような音を立ててから、ミスティナイトは視線をそらしつつそう言葉を濁す。……その反応を見てあたしは確信し、なおも踏み込んで言葉を繋いでいった。
「それって……あたしのこの「力」が、エリュシオンの物だっていうことと関係してますか?」
「――――」
それを聞いたミスティナイトは、背けていた顔を戻してあたしをまじまじと見つめる。その表情は仮面の向こうに隠れてよくわからなかったけど、おそらくすごく驚いていることはその仕草と身振りで明らかだった。
……やっぱりだ。この人は、あたしのことを「知って」いる……。
「ローズ……どこで、そのことを?」
「特に、誰かに聞いたわけじゃありません。……ただ、エリュシオンでディスパーザさまと同化した時に教えてもらったことと、エンデちゃんたちの反応……それと、昔の「事故」を思い出して、気づいたんです」
昔の「事故」――それはあたしが幼い頃にチイチ島の湖、『水鏡』のほとりで同じように幼少のすみれちゃんと出会い、そこで深い湖の底に引きずり込まれそうになったことだ。
あの時のことを、はっきりと覚えているわけじゃない。だけど……あの底のほうに見えた黒い影のような存在は、さっきの「影」とどこか、似ていたような気がして……。
「あたしの、この力は……すみれちゃんやみるくちゃんたち『天ノ遣』に由来するものじゃない、って。たぶんこれは魔界……『エリュシオン』の人たちが使うものと似ている――というより、そのものじゃないかな、って」
そう……それでなければあのメアリの生み出した結界を破り、あまつさえ彼女の過去の記憶に入り込むこともできなかったはずだ。
そして、それは言い換えると……あたし自身の存在が、『天ノ遣』とは異なっているものを証明していることになる……。
「教えてください、ミスティナイト。あなたの知っていることを……」
「…………」
ミスティナイトは再び視線をそらし、しばらく押し黙ってしまう。
話すべきかどうか、迷っている表情だ。そこまでためらってしまうほど、あたしたち……そして、「影」の言い残した『決戦兵器』という言葉には深い意味があったのか、と思わずごくっ、と生唾を飲み込んだ――その時だった。
「ローズ……いや、天月めぐる。そこまでの覚悟があるというのなら、聞いてくれ」
そう言ってミスティナイトは身体ごと向き直り、まっすぐにあたしの顔を見つめてくる。そして、ゆっくりとした動きでその口からもたらされた事実は……。
「君の力の、正体。それは――」
ある意味で、あたしが想像していたとおりの……そして、それを上回るほどの衝撃の真実だった。
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