第82話

「なっ……メアリっ?」


 窓際の椅子に腰を下ろし、頬杖をついて外の景色に目を向けるメアリの姿を見て、テスラさんは反射的に戦闘体勢をとる。ナインさんもほぼ同時に大剣を抜いて身構え、間髪入れず振りかぶるとそのまま一気に斬りかかった――。


「……っ……?」


だけど、ナインさんはなぜかメアリを間合いに収める数歩手前で立ち止まり、大剣をそっと下ろしてしまう。あたしは少し遅れて彼女に追いつき、その反応を不思議に思って横からその顔をのぞき込むと……ナインさんはまっすぐに相手を見据えながら、困惑したような表情を浮かべていた。


「どうしたんですか、ナインさん?」

「……おかしい。何も、感じない」

「感じない……?」


 その言葉の意味を理解しようと、あたしは視線を前に戻してメアリの様子をうかがう。

 ……確かにナインさんの言うとおり、椅子に座った彼女はこちらの接近に備える動きをするどころか、顔すらも向けるそぶりを見せない。いくら傲慢な態度を崩さないのが彼女の信条だとしても、殺気も感じさせずに無防備な姿をさらしたままだというのはどういうつもりだろう。


「っ、メアリ……?」


 怪訝な思いを抱いて眉をひそめながら、あたしは名前を呼びかけてみる。……だけど彼女は、やはり何も反応を返さない。

ひょっとしたら、こちらを油断させるために聞こえないふりをしている……? なんて可能性も一瞬考えてみたけど、だとしたら余計に攻撃を仕掛けてみなければその後の出方がわからない――そう思い直したあたしは、手に持ったローズ・クラッシャーをメイス状に変える。そして柄を両手でつかむとぐるぐるとその場で回転し、鎖付きの巨大な水晶の塊をハンマー投げの要領で投げ放った。


「エンジェルジェットスライダー・暁――って、ええっ!?」


 その光景を目の当たりにして、あたしは思わず叫び声をあげてしまう。なぜなら、確実にメアリの身体へと直撃したはずの水晶の巨塊は、……まるで実体のない幻影に触れるかのように虚空をすり抜けていったからだ。


「こ、これはどういうこと……?」

「……っ? めぐるさん、これを見てください!」


 すると背後から、テスラさんの驚いたような声が聞こえてくる。振り返ると彼女はあたしたちから少し離れた場所に立っており、そばにある本棚の中を怪訝そうに調べている様子だった。


「この本……触ることができないようです。こうして手を伸ばしても、ほら……!」


 そう言ってテスラさんは、自分の右手を本棚の中へと差し入れる。……すると、そこにあったはずの書籍はまるでTVのブロックノイズが乱れるように形を変え、やがて光に包まれたかと思うとそのまま空気中に溶けるように消えてしまった。

 しかも不思議なことに、テスラさんが手を戻すとしばらくして周囲から光が集まり……消えたはずの空間に再び書籍が出現して、何事もなかった景色へと復活する。どういう原理なのかは全然わからないけど……まるで、映画とかで見た仮想現実のような現象が実際に起きている以上、やっぱりここが現実の空間ではないことは確かなようだった。


「(でも……だったらいったい、ここは何なの……?)」


 最初は何もない、真っ暗な空間に閉じ込められて……次に目の前に現れたのはメアリに似た女と、見たことのない光景が幻として存在する「どこかの場所」。自分たちの置かれているこの状況が全く飲み込めなくて、頭の中がパニックを起こしそうだ。


「これも……メアリが仕組んだ罠……?」

「わかりません……ですが、めぐるさん。あなたは現在のこの状況が、私たちかあなたの夢……あるいは心の中の世界だ、と言ってましたよね。だとしたら、この部屋は何からつくり出されたものなんでしょうか?」

「え、えっと……それは……」

「少なくとも私となっちゃんは、このような部屋をこれまでに見たことは一度もなかったはずなんです。ということは、あなたの記憶か、心の中にあった風景がここに映し出されているということなんでしょうが……何か、思い当たるものはありますか?」

「…………」


 テスラさんにそう言われたので、あたしはこの光景の中に自分の記憶と引っかかるものはないか、改めて部屋の周囲を見渡してみる。

 ……絶対とは断言できないけど、たぶん見覚えはない。なんとなく、以前にエンデちゃんと一緒にアストレアさまを救出するために訪れたイスカーナ王国の城に似ているような気がしないでもないかな……と感じた程度で、やっぱり初めて見るものだ。


「(テスラやナインさん、ましてあたしの知らない景色……じゃあ、これは誰の記憶の世界なの……?)」


 そう内心で呟きながらあたしは再び、目の前のメアリらしき女性に視線を送って様子をうかがう。

 ……やっぱり容姿は、メアリによく似ていた。だけど年齢はそれよりも若く、どちらかといえば遥先輩や葵先輩に近い感じだろう。


「……あっ……?」


 また、何かの声が聞こえてきた。今度は人の言葉としてはっきりと聞き取ることができたけど……おかげで誰の声なのかがわかったことでそれ以上の驚きがわき起こり、あたしは思わず息をのんでその場に固まった。


「どうしました、めぐるさん?」

「まさか……これって……!?」


 間違いない。――これは、メアリの声だ。

 それを意識した瞬間、目の前の景色が様変わりしていく。――その変化の動きを見ながら、あたしは悟った。

 そう……ここは、メアリの記憶によって生み出された世界なんだ。そしてあたしたちは、今その内容に触れようとしている――?


 × × × ×


メアリ・イスカリオテ。

この世に生を受けてその名を与えられてから、ずっと私はつまらない人生を送っていた。

 いや、「送らされていた」と言ったほうが正しいのかもしれない。そもそも私には将来を決定する資格などなく、選択肢も用意されていなかったのだから――。


 現在からさかのぼること、約350年前の17世紀のヨーロッパ。その時代は栄華を誇った王侯貴族が権勢を失い、それに入れ替わるように知識や技術を持った市民が権利を獲得して、新しい価値観と社会体制が形成されつつある……いわば変革期だった。

その諸侯連邦国家のひとつにあったのが、『イスカーナ侯爵領』。そして私は、そこの一人娘として生まれ育った。

イスカーナは、かつて女神アストレアがもたらした武具や魔術によって覇を争い、一時はこの大陸の盟主に君臨していたこともあったという由緒ある国家だった。だが……もはやこの当時は見る影もなく、わずかな領地と領民を従える程度の凋落した存在となり果てていて、代々この地を統治する領主も常に外敵からの侵略や大国の併呑に怯える……身内の私から見ても惨めな地方貴族でしかなかった。


とはいえ、そんな領主でも財産は有り余るほど潤沢にあった。おかげで娘の私は、幼い頃から何不自由のない暮らしを送ることができていた。

食べるものに困ったことは一度としてなく、好き嫌いも言い放題。ドレスは常に仕立てたばかりの新品がクローゼットに何着も揃えられており、一度でも身に着けたものは翌日には捨てられたので、同じデザインの服を着たことがない。

住居であった城はやや年季があるものの巨大な構造で、私に割り当てられた部屋だけでも数え切れないほど存在していた。子供の頃は探検気分ですべての部屋を見て回ろうとも考えたことがあったが、それもすぐに飽きて……いつしか移動すら億劫に感じた私は、一日を同じ部屋で過ごすことが大半になっていた。

そして、たとえ城の外で自然災害が起こって領土が荒れようとも、戦乱で何人もの人間の命が失われようとも、私の生活と時間に変化などは一切訪れなかった。おかげで私は毎日、豪奢で単調な出来事が繰り返される生活をただ漫然と送り続けていた。

……そんな私を見て、家臣たちはよく言ったものだ。


『メアリさまは、お父上様からとても愛されておいでですね』

『いつも優雅な毎日を送られていて、素晴らしいです』


 そんな彼らに愛想笑いを返しながら、優雅に茶を傾ける。……だがその一方で私は、反吐が出るような思いを抱いていた。

 愛されている?……違う、ただ「売り出す」前に余計な傷などがつかないよう、囲われているだけだ。

 優雅な毎日?……何の変化も刺激もない、同じことを繰り返すだけの日々にどんな価値があるというのか。

 そう……私は、かごの中の鳥だった。いずれ政略的に適当な相手が見つかれば、私の意志など完全に無視したまま婚姻させられて、ここと違うどこかの城の一室でつまらない毎日を過ごすことになるだけの、人格や意思を持たないただの愛玩物でしかなかった。


『私は、何のために生まれてきた……?』


 そんな、事情を知らぬ他人が聞けば「贅沢極まりない」と誹りを浴びせるような問いを、私は常に持っていた。そして、そんな答えのない自問を続けていくうちに自分の存在、さらにはこの世の全てがひどくつまらないものに見えて、空虚さが心の中で際限なく膨らんでいくのを感じ続けていた……。


 ……やがて、そんな毎日の繰り返しに飽きた私は時折口の堅い侍従を数名引き連れて城を抜け出し、夜の街を徘徊することを唯一の楽しみにするようになった。

 目的は食べ物でも、装飾品でもない。……男との「愛」の真似事だ。

 幸い、私は男好きのする容姿をしていた。おかげで道を歩いていれば、勝手に相手から声をかけられた。気に入らなければ無視し、少しでも興味を感じた時はそのまま行きずりで夜を過ごし――。

そして、口封じに殺した。


『な……何をするっ? 昨夜の愛の囁きは、嘘だったとでもいうのか!?』

『いいえ、本当よ。昨日の私は、確かにあなたを愛していた。――でもね』

『……っ……!?』

『今日の私は、生まれ変わった別人なの。だから昨日の私と一緒に、消えて頂戴……』

『っ、ぎゃぁぁぁあっっ!!』


 最初のうちは、多少気が咎めないこともなかった。……だけど、行きずりの男など所詮は私と違う生き物で、羽虫も同然……そう思ううちに、罪悪感は徐々に失われていった。

当然父も、その愚行と凶行のことは知っていた。だけど、我が娘の評判に傷がついて商品価値が落ちるのを恐れたのか、それとも別の理由があったのか……いずれにせよ、私以上に臣下や領民を「ヒト」として扱わない性分であった彼はそれを黙認し、時には権力を用いて握りつぶしたという。


 そんな時に、私は――「彼」と出会った。


『……貴様から、血の臭いがする』

『……?』


いつものように繁華街を徘徊し、目ぼしい退屈しのぎを物色していた私の顔を見るや、その男は開口一番こう言い放ったのだ。


『ずいぶん、荒んだ目をしているな。世の中が退屈でつまらぬ……そう言っているようだ。そのために、相当の数の生命を踏みにじってきたようだな』

『……あら、ふふっ。なかなか勇気のある方ね。死にたいのかしら――』


 最初、その言葉に抱いたものは嫌悪感……そして、殺意だった。さらに、男が錬金術師と名乗ったことでその感情には侮蔑も加わった。

 なにしろ、魔法の概念が否定されて錬金術の存在が過去の遺物と化してから、ずいぶんの年月が経っている。科学を志すのであればまだしも、錬金術を学ぼうとする者はただの時代錯誤な老害か、それとも狂気に身をやつした異常者扱いを受けるのが常だったからだ。


 ……だけど、「彼」はなかなかの人物だった。


『ぐわっ……!?』

『がはっ、っぐ……!?』

『……これで全部か? お望みであれば、貴様が相手でも構わんのだが』

『……っ……!?』


私の護衛たちをあっという間に素手で組み伏せて、それを見た私は情けないことにその場で腰を抜かした。そんな醜態を傲然と見下ろしながら……男はフードの奥に隠した鋭い眼光をぎらり、と閃かせる。

今まで一度も感じたことのなかった恐怖に、屈辱感。……私は震えた。

そして同時に、……歓喜を覚えていた。


『(これだ……これが、私の求めていたものだ……っ!)』


 全てが思うがままだった私の世界を打ち砕く、圧倒的な力。

 常に見下ろす立場から蹴落として、屈辱に打ち震える私を蔑む独尊。

 そして、なによりもその、全身から放たれている「気」の波動……っ!


『あ……あぁっ……!!』


 自分にはない誇りと威厳に満ちたその気配に、私は立ち上がることすらできずに呆然とその姿を見上げる。

年齢は顔のほとんどを隠しているため、察することができない。だけど、その低く重厚に響く声色はどんな楽器よりも格調高く、発すると魂までもが震えてくるようだった。


『あ……あなた様の、お名前は……?』

『……名前など捨てた。ヌッラと呼べ』

『……っ……!』


 その時私は、感じた。そして理解したのだ。

 今、ここで抱いた感情こそがまさしく、「愛」なのだと――。

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