第61話
……私が読んだとある本によると、夢というものは本人の記憶の中にある出来事を断片的に切り出したもの、という説明が記されてあった。
たとえるなら、記憶を保管した書庫から古びた一冊の本が何かの拍子に床に落ちて、偶然開かれたページを覗き見たもの……それが、夢の正体。だから、始まりはいつも脈絡もなく唐突で、前触れもなく不条理な幕切れで終わりを告げる。
そして、目覚めとともに本が元の場所へと戻されてしまうと、もはやそれは膨大な記憶の一つとなって埋もれ、やがては存在すらも忘れてしまう……。
そう思っていたからこそ私は、どんなに悪い夢を見たとしてもそれを生み出した原因である自身の不安定な心理に懸念を抱くだけで、夢の内容そのものを深刻にとらえることはなかった。
そう、今までは……。
「(だけど……)」
今回の「夢」はあまりにも印象深い上に、異質すぎて……どうしてもただの夢と突き放すことが難しいものだった。
× × × ×
思い出す。……その「夢」の中で意識を取り戻した時、最初に視界の中に飛び込んできたのはもう見慣れた中等部の校舎と、その前に広がる校庭とグラウンドだった。
「えっ? こ、これは……!?」
自分の身なりを確かめると、胸元にチェリーの飾りが見えるいつもの制服。だけど手には鞄がなく、生徒会の仕事を手伝うようになってから携行している荷物入れも見当たらない。
ということはつまり、今は休み時間か、授業中? だけど――。
「(誰も、……いない……?)」
そう……学院の敷地内に人影は全く見当たらず、声どころかかすかな物音さえも消え失せたように、辺り一面がしんと静まり返っている。
天を仰ぐと、雲がちらほらと浮かぶ青空に眩しいほどの太陽が輝いている。なのに、これだけの燦々とした強い日差しにさらされているのにもかかわらず私は、暑さや空気の動きといったものをこの肌に感じ取ることができなかった。
と、そこへ――。
「……すみれちゃんっ?」
ふいに右隣から呼びかけられた私は、それが誰かと確かめるまでもなかったものの……反射的に振り返って声を発した当人へと顔を向ける。果たしてそこにはめぐるがいて、私と同じく制服姿ながらその手には何も持っていなかった。
「めぐる……どうしてあなたが、ここに?」
「すみれちゃんこそ、なんでここにいるのっ?」
「なんで、って……」
わからないから、あなたに尋ねたんだけど……と喉元にまでせり上がってきた返事を、私はぐっ、と飲み込む。
お互いに答えらしきものを持っていないのだとしたら、いくら訊いてみたところで堂々巡りだ。だとしたらまずは、私たちが置かれている状況を把握すべきだろう。
「ここって、学院だよね? あたし、気がついたらこんな場所にいて……これっていったい、どういうことなの?」
「わからない。だけど……」
見慣れている光景なのに、私たち以外の存在の姿がどこにも見当たらない……その事実が、いやが上にも緊張と不安を高めていく。
そして、重く停滞した空気の中にこれまでにも何らかの敵と対峙した時にあった「異常」と同じものを感じ取った私は、左右、そして背後をうかがいながら声を張り上げて叫んだ。
「出てきなさい! 何のつもりかは知らないけど、姿を隠してても無駄よ!」
『――――』
景色は変わらない――だけど一瞬、反応した気配を察知する。
そこに含まれていたのは、明確な悪意……それも、殺意と断じて差し支えがないくらいの激しい感情だった。
「変身しましょう、めぐる! この格好のままだと、危険だわ」
「う、うんっ! それじゃ――」
『――させないわよ』
「えっ? きゃぁぁぁっっ!?」
脳裏に怪しく歪んだ声が響いたかと思うと、ふいに衝撃波のようなものが横殴りに襲いかかってきて、私たちは受け身をとる暇もなく地面へと引き倒されてしまう。
それでも、すぐさま起き上がって身構えようとしたその時、――私はその「人物」が最初は影のようにぼんやりと、そして徐々にはっきりとした輪郭をとって実体化していくのを目の当たりにしながら、驚きとともに息をのんでその場に固まった。
「メ……アリ……っ?」
忘れるはずも、見間違えるわけもないその容姿は、まぎれもなくわたし達の宿敵……あのメアリだった。
「な……なんでメアリが、ここに!?」
「……っ……!」
信じられない、とばかりに後ずさるめぐるをかばって前に足を踏み出しながら、私は邪悪な形をした槍を悠然と構えたメアリの姿を窺い見る。
髪と瞳の色は、私たちがチイチ島で対峙した時のもの……イスカーナとエリュシオンで出会ったそれとは違っている。つまり、今目の前に立っているのは『鼓動を止めた世界』で私たちを襲った「メアリ」になる前の、彼女……?
「くっ……!」
いずれにしても、今はとにかく目の前の敵を倒すことだけを考えよう。そのあとでみるくちゃんやお兄様に相談すればいい。……そう思考を切り替えた私は意識を集中させて、変身のためのメダルを出現させようと胸の前で手のひらをかざした――が。
『無駄よ』
「……っ……!?」
嘲りを含んだその声の響きにはっ、と顔をあげて、私は血の気の引くような戦慄が全身を駆け巡っていくのを感じる。
手のひらの中には、……なにもない。慌てて再び念を込めてみたが、結果は同じだった。
「メダルが……出て来ない!?」
「な、なんでっ? いつもならこうするだけで、勝手に出てきてくれるのに!?」
めぐるも私と同じ結果だったのか、虚空をつかむ自分の手を見比べながら動揺をあらわにしている。
私だけでなく、めぐるも変身のブレイクメダルを出すことができない? ということは、あのメアリが私たちの『天ノ遣』としての力を封じているとでもいうのか……?
『ここは、お前たちの心の中……』
「心の、中……?」
『えぇ、そうよ。どんなにフィジカルを鍛えて力を磨き上げたとしても、眠りの中では誰もがノーガードになる。その状態に置かれたメンタルへの干渉は、魔の力をもってすれば容易いこと……!』
そう言ってメアリはギラリ、と瞳に邪悪な輝きを宿らせながら、呆然と立ち尽くす私たちのもとへゆっくりとした足取りで歩み寄ってきた。
……エリュシオン・パレスで対峙した時に感じたことだけど、その口調と形相は、以前の面影よりもどこか荒々しく、粗暴さが強まったような気がする。
それは、テスラさんたちが言っていたように洗脳か何かを受けた影響なんだろうか。それとも……?
『お前たちの心は今、私の支配下にある。つまり、何をしようとも意のままにボディを動かすことができず、たとえ逃れるすべを考えたとしても、その意図はこの私がすべてを把握済み……!』
「そ、そんな……!?」
さすがに、眠っている肉体にではなく精神に襲撃をかけるような手段があったとは予想もしていなかったので、私は恐怖を覚えその場に立ち尽くす。
そして、私のその反応が嗜虐心を満足させたのか……にたり、と嬉しそうに口元を歪ませながら、手に持つ槍の切っ先をこちらにかざしていった。
『……いわば、このワールドはお前たち自身。だから、ここでお前たちをデリートすれば『アカシック・レコーダー』の力は、我々のもの……!』
「……っ……!?」
その言葉に私は、はっと息をのんで目を見開く。
『アカシック・レコーダー』――その言葉は天使ちゃんたち、さらには死闘を繰り広げたあのクラウディウスも私たちに向けて、そう呼んでいた。
つまり、メアリがこうやって心の中に侵入して私たちを襲うのは、その力が目当てということか……?
「っ、ふざけないで……! 私たちは、あなたの思い通りになんて……!」
『ふふっ……お前たちの意思なんて、どうでもいいのよ。心さえ壊してしまえばそのボディを手に入れて、※※※を……っらぁぁぁっっ!!』
メアリが地面へとその槍を突き立てるや、地面に落ちた私たちの影がみるみるその面積を広げて、大きな黒い円状へと変化する。さらに、「影」はまるで沼のように私たちの足をとらえて離さず……自分の身体がずぶずぶ、とその中へと沈み込むのを感じていた。
「す、すみれちゃんっ……!」
「めぐる……!!」
抜け出そうにも身体の自由が利かず、なすすべもなく闇の中へと引きずり込まれていく自分の身体をよじらせながら私は、必死にその手を伸ばして同じように向けられためぐるの手を掴もうとする。
それは、すがりたいからじゃない。せめて、彼女だけでもここから脱出させなければ……そう思って残る力を振り絞り、その小さな手を握った次の瞬間――。
『だから、無駄。……ナンセンスッ!!』
その言葉とともに、私たちの身体は完全に深淵の闇へと引きずり込まれた。
「――っ……かはっ……!?」
……息が苦しい。目の前にはただ闇が広がるばかりで何も見えず、音も聞こえない。
沈黙の世界の中で、遠のく意識。……全身から力が抜けて、急激に薄くなる感覚。私は、自分の思考がどす黒い絶望によってじわじわと汚染されていくのを感じながら、……何もできなかった。
「(このまま……死ぬの?)」
頭の中になぜか、その思いだけがはっきりと浮かんでくる。
やっと、平穏な時間を取り戻すことができたと喜んでいたのに……こんな形で奪われて、そして失ってしまうなんて。
……悔しい? 腹立たしい? ううん……それ以上に私は、悲しかった。
いくつもの困難を乗り越えて、恐怖に打ち勝ってきたのに、……結局、幸せはこの手からこぼれ落ちてしまった。
……笑顔が、目の前に浮かぶ。
その眩しくて明るい輝きはいつでも、どこにいても私の進む先を照らしてくれて――。
だから私も、あの子に……笑顔と、祈りを――。
「っ、――めぐる……!!」
その名前を口にしたことで、私は闇に沈みかけた意識を覚醒させる。
ほんのわずかに残った、手の中のぬくもりと優しい感触。それをしっかりと受け止めると、支配されかけていた絶望が希望の光によって浄化されていく実感を、私は胸の中に抱いていた。
「――すみれちゃん……!!」
……聞こえる、あの子の声。それはどんなものよりも力強く、そして――!
「……行こう、すみれちゃん!」
「えぇっ、めぐる……!」
手のひらを通じて伝わってくる、めぐるの熱い思い。私はそれに気持ちを込めながら強く握り返すと、意を決して目を閉じ、意識を集中させた。
「「っ……、ぁあぁぁぁぁっっ!!」」
全身に込めた気合とともに、周囲に生み出されたほのかな光が徐々に、だけど確実に広がって……混沌しかなかった空間を少しずつクリアにしていく。
やがて私の目の前には、かけがえのない親友がしっかりと私の手を握りながら、きらきらとした意志の強い眼光で私に頷きかけていった。
「……準備はいい? すみれちゃん」
「もちろん……、っ!」
私はゆっくりと目を閉じ、強い気持ちを込めて意識を集中させる。……すると、ブレイクメダルがイメージとして浮かんでその輪郭からかたちとなり、手に取ったコンパクトへと吸い込まれて――。
「ラブリー☆くりすたる!」
「ジュエリー☆えんじぇる!」
その、心にもなじんだ台詞とともに私は全身をあたたかく、そして力強い光が包み込んでいくのをはっきりと感じていた。
「っ、……はぁぁぁあぁっっ!!」
咆哮にも近い叫びを気合に乗せて放った瞬間、空間を覆っていた闇は弾けるような音を立てて四散し、視界の中には元通り学院の景色が戻ってくる。そして正面には、絶対の勝利をつかみ損ねた驚愕で固まるメアリの姿があった。
『なっ……そ、そんな馬鹿な!?』
「暁に射す、まばゆい朝陽! エンジェルローズ!」
「黄昏に煌めく、一番星! エンジェルサファイア!」
「「輝く未来を切り拓く! ツインエンジェルBREAK!」」
勇気と力を奮い立たせる言葉とともに、私はメアリに向かって対峙する。そして隣には、かけがえのない親友であり、心強いパートナー……めぐるがいて、私にいつも通りの笑顔を向けてくれていた。
「もう、負けない……だって」
私は手をかざし、『サファイア・ブルーム』を出現させて構えをとる。
もう絶望は、私の心の中に存在しない。あるものはただ、親友と実現させる正義への思いだけだった――!
「私たちは、二人だから……!!」
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