第二部 第一章

第60話

 高等部の校舎を出ると、学院の敷地一面に朱の彩りが徐々に広がってきているのが目に映った。


「……陽が落ちるのも、ずいぶん早くなったわね」


 たなびく雲間から姿をのぞかせる夕陽に顔を向け、私はふぅ、とため息をつく。

 高等部の生徒会長を務める水無月先輩の依頼と唯人お兄様のお願いを受けて、中等部・高等部合同の学院祭の手伝いを引き受けた当初は、放課後でもまだ額や首筋が汗ばむほどの暑さが残っていたはず。今ではまとわりつくような熱気もなりをひそめたのか、吹き抜ける風が涼しくて心地よい。

 季節が本格的に、秋へと移り変わろうとしているのだろう。そのことを肌身で感じながら、私はしばし佇んで並木からはらり、と舞い落ちる紅葉を眺め見ていた。


「あれから、もう一週間か……」


 私の世界(あえてこう言っておく)の時間の経過はこんなにも速かっただろうか、と疑いたくなるほど、あっという間の週末の到来。明日は土曜日ということもあってめぐると一緒に街へお出かけし、以前から話していた手芸道具を買いに行く約束になっている。

 ……「あの時」からの緊張が完全にぬぐい切れていないせいか、まだ現実味に欠けるようで心と身体が落ち着かない。そろそろ切り替えるべきだとは自覚しているのだけど、気持ちの整理が追い付いていなかった。


「ふぁ……ぁ……」


 思わず口元からあくびがこぼれ出て、……はっ、となって周囲へと目を配る。幸い下校の混雑時間を過ぎていたためか、だらしない顔を誰かに見られずにはすんだようだ。


「疲れている、……というほど、今日は働いていないはずなんだけどな」


 やはり、昨夜からの寝つきの悪さと……目覚めの直前に見た「夢」の内容が気怠さの原因だろう。悪夢は自分の深層心理に残る不安が具現化したもの、と誰かが言っていたが、その埒もない内容が脳裏に蘇るや……ぞくっ、とした冷えが背中を撫でつけたようにも感じて、私は思わず唇をかみしめていた。

と、その時。


「あっ、すみれちゃーん!」


 呼び掛けられる声に気づいて中庭をまたいだ先の校門のところに目を向けると、こちらに元気よく駆けてくる制服姿の女の子の姿が見える。言うまでもなくそれは私の親友、天月めぐるだった。


「今終わったところ? あははっ、だったら一緒に帰ろ~!」


 そう言ってめぐるは満面の笑みを浮かべながら、立ち止まることなくダッシュの勢いそのままに私のもとへと文字通り飛び込んでくる。それを見て取った私は、笑顔でにっこりと応えてから、……接近してくる彼女をひらり、と回避した。


「……もげっ!?」


 目標を見失っためぐるは勢い余って、あわれヘッドスライディングの格好で芝生の上を軽やかに滑っていく。

 この辺りの地面は手入れが行き届いて柔らかいので、怪我の心配はなさそうだけど……起き上がった彼女はやや恨みがましくこちらにジト目を向けながら、赤くなった鼻を押さえて私に迫ってきた。


「ひどいよ、すみれちゃん! 親愛と喜びのダイブだったのに、よけるなんて!」

「……ダイブじゃなくて、タックルの間違いでしょ。私を地面に引き倒すつもり?」


 両腕をぶんぶんと振り回して抗議するその仕草を見つめながら、私は若干の可笑しさを胸の奥に押し込めてそうたしなめる。

 そもそも、どこの世界に体当たりで親愛を示す挨拶の作法があるというのだろう。……あ、そういえばルンルンたちはこんな感じだったかも。


「それより、あなたこそクラスでの作業は終わったの? 伊院さんたちと一緒に飾りつけの制作、結構な量があるんでしょ?」

「もちろん! 今日のノルマ分はしっかり片付けたから、早めに解散することにしたんだ。すみれちゃんにもお疲れ様って伝えておいて、ってみんなから言づけね。あと、明日は久しぶりのデートなんだから、楽しんでいってらっしゃいだって♪」

「……そう」


 矢継ぎ早にまくしたてるめぐるの報告に、私は短く答えて再び歩き出す。

生徒会の作業がちょうど佳境のために、クラスでの催し物の準備まで手が回っていないことについては申し訳なさも感じていたけれど……みんなのお気遣いについては、ありがたく感謝しておこう。

 それにしても、……デート? その言葉って、女性同士が連れ立って出かける時にも使うものなんだろうか。


「でも、すみれちゃんとお出かけするのって、本当に久しぶりだねー! この前お買い物に行ったのって、先月? それとも先々月?」

「……先々週よ。イスカーナでの出来事まで、日にちの計算に入れちゃってるんじゃない?」


 私の指摘を受けて、めぐるは「そうだったー」といいながらぺしぺし、と自分の額を叩いてみせる。

 確かに、ワールド・ライブラリでの出来事やイスカーナでの行程、そしてエリュシオンでの決戦と、体感的にはずいぶん長い月日を過ごしてきた気がする。……のだけど、この世界の時間だけで換算すると実質的にはめぐるの「検査入院」の期間のみなので、めぐるを見送ってからせいぜい1週間足らずしか経っていなかった。


「(でも……待ち遠しかったって思いは、私もめぐると同じかな)」


 素直に本心を語るのが恥ずかしいから、内緒だけど……嬉しさと懐かしさは今この瞬間も、胸の中にある。だから小躍りしたくなる気分、という表現が大げさではないくらい、私は綻びそうになる表情を抑えるのにかなりの自制心を必要としていた。


 × × × ×


 ……数日前の朝、登校した時のことを思い出す。めぐると一緒に学院寮を出て、久しぶりに教室の入口の扉を開けて中に入った途端、……一斉にクラスメイトたちの歓声が割れんばかりに響き渡ったのだ。


「……天月さんっ!!」


 そして、私たちのもとへ真っ先に駆け寄ってきたのは、意外かもしれないけど伊院さん。彼女は満面の笑顔に瞳をやや潤ませながらめぐるの両肩に手を置くと、ほっと安堵のため息をつきながら言った。


「よかった……心配してたのよ! 検査入院だって言うからすぐ戻ってくるって思ってたのに、1週間近くも音沙汰なしなんだもの……」

「……ごめんね、千代理。でもあたし、もう大丈夫だから」

「うんうん、そうみたいね。顔色も前よりずっと良くなった感じだし、安心したわ」

「いつものめぐるだば~」


 そう言ってわずかに出遅れた川流美さんと宇狩さんもまた、めぐるを左右から囲んで声をかけてくる。さらに、その後ろでは寿さんが机の上にカードを広げながら、何やら聞き取れない呪文? を口ずさむとにやり、と顔を上げていった。


「ふむ……占いによると、『嵐を乗り切った』と出たな。憑き物が取れた雰囲気で、何よりぞよ」

「あ、あはは……」


 占いの結果を聞いてめぐるは、どう答えたらいいのかわからない、と言いたげに私に視線を送ってくる。

 まぁ、嵐のような体験の連続だったことは事実だろう。それに、この日を迎えられたことも奇跡の産物に近いと言って過言ではなかった。


「とりあえず、しばらく学院に来てなかったから授業に追いつくのは大変かもしれないけど……わからないところがあったら聞いてくれていいからね。あ、ノートも見る?」

「大丈夫! すみれちゃんにも手伝ってもらうから、何とかなると思うよ♪ ねっ、すみれちゃん?」

「えっ? あ、えっと……」


 誇らしげに話を向けられたものの、私は即答できず思わず目をそらしてしまう。

 白状すると、めぐるがいなくなって以来……授業は気もそぞろで、ほとんど聞き流してしまっていた。しかも、あとでまとめて復習すればいいという油断もあって、ノートは覚え書きにも満たないほどに適当で、とても見せられたものではない。

 信頼してもらえるのはとても嬉しいのだけど……ノートを貸せと頼まれても、以前とは違う意味で渡すのはためらわれる思いだった。


「(あとで、伊院さんに内緒でノートを借りることにしよう……)」


 自分のためではなく、めぐるのために他人のノートを見せてもらうのは本末転倒も甚だしいだろう。……ただ、ノートに板書を忘れるほど心配をかけていたのかと、彼女に余計な気遣いをさせたくもなかった。


「ところで、今度の合同学院祭の話って聞いてるよね? 実は私たちも、すみれの生徒会の仕事を手伝ってるんだけど、めぐるの手も借りていいかな?」

「もちろん! そのつもりでケガとかも万全に治してきたから、何でも言ってね♪」

「頼りにしてるわよ。……ん? めぐる、怪我ってどこを……?」

「け、検査の時に病室で転んだらしいの。それで退院が、少し遅くなっちゃって……そうよね、めぐる?」


 慌ててめぐると伊院さんの会話に割って入り、私はとっさに思いついた言い訳を二人の間にさしはさむ。そしてめぐるの脇腹を肘で小突いて目配せすると、彼女も失言に気づいてくれたようで「う……うんっ」とぎこちなく頷き、私の話に合わせてくれた。


「病院の床って、つるつるしてて滑りやすいでしょ? だから、よそ見した時につい……あ、あははっ」

「ドジなやつだぱ~。ちゃんと足元見ろだぱ~」

「ころ美に言われたくないやつ~!」


 危ない、危ない……。

幸い、宇狩さんと川流美さんがやり取りに加わってきたおかげで、詳しく突っ込んだ話はそこで打ち切られる。伊院さんもそこまで気にしていなかったのか、さらに尋ねてくる気配がなかったので私は内心、胸をなでおろしていた。


「あと、クラスの催し物の方も頼むわよ~。……あ、めぐるはいなかったから知らないんだっけ。ウチのクラス、メイド喫茶になったから」

「そうなの? じゃあ、みんなでメイドさんになって接客するんだね!」

「い、いえ……全員というわけじゃ……」


 期待が込められためぐるのその問いかけに、私はあいまいに答えを返す。……だけど、伊院さんの次の一言がさらなる追撃となってこの場に炸裂した。


「でも、如月さんはメイド服組よ。そうよね、如月さーん~♪」

「なっ……!?」

「ええっ、ほんとにっ!?」


 キラキラと瞳を輝かせためぐるにかぶりつかんばかりの勢いで迫られて、私は言葉を失い「しまった……!」と内心で後悔する。

 そういえばこの話は、明確に断ることを忘れて結局有耶無耶になったままだった……。


「じゃあ、あたしもメイド服着て接客する! いいよね、すみれちゃん?」

「だ、だから……私は、まだやるって……」

「……あっ! だとしたらお客様への挨拶の仕方も練習しないとっ! よーし、明日から忙しくなるぞ~! 一緒に頑張ろうね♪」

「え、えぇ……」


 こんなにも「楽しみ~♪」オーラ全開でめぐるに言われてしまっては今さら拒否することもできず、私は流されるまま渋々頷いてしまう。そしてふと、……めぐるの肩越しに見えた伊院さんたちのニヤリ笑顔が目に映ったことで、私はすべてを理解した。

 は、はめられた……っ! 彼女たちは、めぐるにダメ押しをさせて私を断りづらい状況に追い込むことを想定していたから、あの時も結論を急がせなかったのか……!?


「……。はぁ……」


 さっきとは異なるため息が出て、私はがっくりと肩を落とす。

 仕方ない……覚悟を決めるしかなさそうだ、いろんな意味で。


 × × × ×


「楽しみだね~、メイド喫茶! すみれちゃんとおそろいの衣装でおもてなし♪ あははっ!」

「……っ……」


 横に並んで歩くめぐるのご機嫌な様子に、私はわざと渋面を作って照れくささを押し隠そうと努力する。……それでも、頬から額にかけて感じる火照りだけはどうしても抑えきれず、ぷい、と顔を背けた。


「…………」


 グラウンドの向こうにさっきの夕陽が視界に飛び込んできたので、私は眩しさを遮ろうと手でひさしを作ってみせる。

 くすぐったいけど、身体の中からポカポカとあたたまるような幸せ。これは、あの苦しい戦いを経て私たちが手に入れたものだった。

 なのに、……なぜだろう。すごく満たされて、もう懸念を覚える必要はどこにもないはずなのに、この胸の奥で今もちくり、と感じる痛みというか、不快感の正体は……?


「……ねぇ、すみれちゃん」


 と、そこへ。

 ぽつり、とさっきよりも声のトーンを落とした口調でめぐるが私に話しかけてくる。その様子に違和感を覚えて顔を振り向けると、彼女は笑みを消した真剣な表情で口を開いていった。


「あの、……昨夜見た、夢の話……聞いてもらってもいい?」

「――っ――」


 その言葉に、私は全身の血液に氷が混じったかと思うような戦慄を抱く。

 昨夜の、夢……それは、私の今朝の目覚めが悪かった原因の「あれ」となにか関係があるのだろうか?


「笑わないで、聞いてね。あたしの夢に……出てきたんだ。「あの人」が――」

「……「あの人」って、まさか――」


 ほとんど確信に近いものを感じながら、私は念のために問いかける。

 めぐるがこんなふうに怯えを表情に浮かべながら話す対象は……私の知る限りただ一人だけだ。そして――。


「うん。……夢の中であたし、メアリと会ったの」


 それはまさに、私自身が見た「悪夢」の内容でもあったからだ――。



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