第56話

「わ、わわっ……す、すみれちゃんっ!」


 いきなり背後からめぐるに大声で呼びかけられた私は、力を抜きかけた全身に再び緊張を走らせながら息をのんで振り返る。すると、


「な、なにこれっ……えぇっ!?」

「……っ……!?」


 驚いた表情で慌てふためく彼女の様子に、私も応える言葉を失って目を見開く。なんと、めぐるがその手につかんでいた『天使の涙』が光に包まれながら、徐々にその輪郭と形の透明性を増して……まるで影のように薄くなっていったからだ。

そして――。


「あっ……!?」


 どうすることもできず、ただ茫然と見ているだけしかなかった私たちの目の前で、それはほどなく空気中に溶け込むように……跡形もなく消える。めぐるが慌てて手を開いてみても、そこには何も残っていなかった。


「こ、これってどういうことっ?」

「っ、まさか……クラウディウスが去り際に、何か仕掛けて……!?」


 予想外すぎる突然の事態に、私たちは血の気が引く思いでうろたえる。……だけど、そんな私たちを安心させるようにアストレアは、「……大丈夫です」と言葉を添えていった。


「ご心配には及びません。……あのマナの結晶は、戻るべき場所に戻っただけです」

「戻るべき、場所……、?」


 私はその説明を受けて、頭の中の記憶を掘り起こして過去に伝え聞いたことを思い出す。

 そういえば……『天使の涙』を巡っての戦いは先代のツインエンジェルである遥先輩・葵先輩だけではなく、そのさらに先代『天ノ遣』の時にも同様のことが起きていたらしい。

ということはつまり、……あの『天使の涙』は、その時に奪われたもの……?


「あれは本来の時間軸において、『天ノ遣』が勝利を収めて守ることができたはずのもの。でも……おそらく、彼は焦っていたのでしょう。強引に歴史に介入し、それを奪い取った……でも……」



 × × × ×


 ――※※年前、水鏡湖。


 頃合いを見て仮宿の外に出た私たちは、手に持った懐中電灯で足元を照らしながら湖畔へと続く林道を進む。そして視界が開けたところで耳をそばだてていると、来た道とは少し離れた場所からたったっ、と急ぎ足で駆る断続的な音が聞こえてきた。


「咲枝様……いえ、蒼羽様。どうやら、来られたようです」

「えぇ……間に合ったわね」


 すぐ横で付き従う「彼」に応えながら、私は肩をすくめる。

予想が当たった、と誇らしげに語るまでもないほど明白な展開。懐中電灯を向けて姿を照らし出すと、それは私の妹――神無月美佐枝だった。


「ぅわっ? って、咲枝姉さん……!?」

「……こんな夜更けに寝床を抜け出して、どこに行くつもりなの? しかも、そんな身体で……」


 薄暗がりの中で浮かび上がったその身なりを見て、私は額に手を当てながらはぁ、と嘆息する。美佐枝の腕と脚、顔にはびっしりと包帯や絆創膏が施されて、……あまつさえ無理に身体を動かしたせいで傷が開いたのか、その各所には血のにじみすら浮かんでいた。


 ――『天ノ遣』。それが、聖なる一族より異能の力を与えられた私たち姉妹の肩書きだ。妹の美佐枝は『紅羽』、私は『蒼羽』と名乗って、『聖杯のカケラ』と呼ばれる古の秘宝を探し出し、それらを守り抜く使命を担っている。

……数日前のことだ。長年にわたり闇の一族と戦いを繰り広げていた私たちは、苦心の末に彼らの本拠地である隠れ家を突き止めた。そして、そこには先代の頃に奪われた秘宝『天使の涙』の片割れが保管されていると知り、奪還を図るべく綿密な準備を進めていた。

だけど、その出立の前日――私たちの屋敷は、敵の奇襲を受けて、思わぬ被害を受けることとなった。その上、敵の陽動に乗せられた『紅羽』――美佐枝が不意討ちからの逆襲を受けたことで、そのすきに宝物庫から残りの『天使の涙』を持ち出されてしまったのだ……。


「言ったはずでしょう? 怪我を負ったその状態で再戦を挑むのは、無謀を通り越して自殺行為でしかない、と。まして、傷を押して向かったところで首尾が得られる可能性は低い……いいえ、皆無と断じてもいいくらい。あなたのやろうとしていることは正義などではなく、ただの自己満足しかないわ」

「わ……わかってるよ! で、でも……あたしはっ……!」


 握りしめたこぶしを震わせ、美佐枝は悔しそうに唇をかみしめる。眉間には深いしわが刻まれていたけれど、それは傷の痛みをこらえたためか、それとも噴き出しそうになる激情を抑え込んでのゆえんなのかは、この暗がりの中では判別することが難しかった。


「責任を感じているのね。その気持ちは、よくわかっているつもりよ……でも、何度も話したように『天使の涙』を奪われたのは、あなただけのせいではないわ。敵の力を侮り、備えを怠った私の至らなさのほうがむしろ、責ありとみなすべきなのだから……」


 ただ、そう言葉にはしてみたものの……ならば万全の備えがあれば防ぐことができたのか、と自問してみて、……やはり無理だったのでは、と苦い敗北感を覚えて胸元をきゅっ、とつかむ。

 背信者、クラウディウス・ヌッラ。……古い伝承でしかその名前と存在は聞いたことがなかったけれども、その秘めたる力は先代の『天ノ遣』が全く対抗できなかったのも道理だと感じられるほどに脅威的で、圧倒的なものだった。

美佐枝よりはまだ軽傷とはいえ、私も出血と頭を打ったせいか……正直に言うと今でもこうして立っていることが、かなり辛い。

 いや……それでも私と美佐枝は命に別条がなかった分、さしたる問題でもないだろう。「彼」と比べれば、私たちなんて――。


「……美佐枝さま。咲枝さまも、あまりご自身を追い詰めてはいけません」


 そう言って、私の背後に二歩ほど下がってつき従っていた青年――神無月平之丞がずい、と前に進み出て私たちをとりなす。

 彼は苗字こそ同じ「神無月」だが、親戚筋なので私たち姉妹と直接の血縁があるわけではない。だけど、幼い頃から何かと気をかけてくれたり、体術や武芸の相手を務めてくれたりして……成長した今も私たちは、実の弟のように慕っていた。


「平ちゃん、っ……」


 呼びかけられて美佐枝は、反射的に顔を上げたけれど……その視線に触れた途端、今にも泣きそうな表情になって目を背ける。

 普段から凛として、鋭い刃のような精悍さを備えたその面立ち。……でも、涼やかな目の片方には痛々しく包帯が覆われて、……その視力の回復は絶望的だという診断が数日前に医師より下されていた。

 にもかかわらず彼は、残った片方に少しも揺るぎのない輝きを宿らせながら……美佐枝の勇み足をたしなめるように続けた。


「状況としては、確かに決して良いものとは言えないでしょう。むしろ最悪と言ってしまったほうが、事実に近いかもしれない。ですが……いえ、だからこそここはむやみに動いて徒労を重ねず、敵の意図と動きを正確に見定めるべきだと思います」

「で、でもっ……! あたしのせいで、平ちゃんをそんな目に遭わせてっ……!」


 ……なるほど、と改めて理解する。普段からやや後先を考えずに動く傾向の強い子だけど、あえて私たちの決定に背き、さらには単身で行動しようと考えたのは、もうこれ以上自分のために誰かが傷つくのを見たくなかったからだろう。


「(相変わらず、優しい子ね。でも……)」


 私たちは、『天ノ遣』――天より聖なる力を与えられて、人々の暮らしと時間を守り抜くことが存在意義であり、使命だ。

『天使の涙』の両方を奪われたことで、世界にどのような悪影響がもたらされるのかはまだわかっていない。……だからこそ、ここは焦りを抑えて耐える時だろう。


「……いずれにしても『天使の涙』を2つとも揃えられた以上、敵が近いうちに大攻勢をかけてくることは必定。神無月財閥の全力を挙げて全国各地には厳戒態勢を呼び掛けて、キャピタル・ノアのアスタディール一族にも緊急事態の報告を行った。何があっても私たちは、一般の人々の保護を最優先に動きましょう」


 ……後手に回ってしまうことは避けられない。ただ、今となっては最悪の事態を少しでも軽減することくらいしか考え立てられるものがなかった。


「(……皮肉なものね。先代の時に奪われた『天使の涙』を取り戻し、新生の『天ノ遣』としての役目を果たすべく動いてきた私たちが、肝心の世界の危機に対して何もできないなんて……)」


 私はそう内心で呟きながら、美佐枝たちには見られないよう注意深く目をそらして、暗雲が広がっていく西の空に目を向ける。

 まるで世界の終わりを告げるように、その先には星一つ見えず……山の端から見下ろす地上にも灯りらしきものは存在しない。おそらくそこに住まう人々は魔の気配を感じることなく、明日が無条件に訪れることを安穏と信じているのだろう。

 ……私たちの力不足のせいで、無用の災いをもたらしてしまった人々に対してはもはや謝る言葉も見つからない。私はこみ上がってくる慚愧の念をかみしめながら、胸が締め付けられる思いにじっと耐えるしかなかった。


「(これで、世界は終わってしまうかもしれない。でも……)」


 ちらっ、と横目で美佐枝、平之丞の顔を盗み見てから、私はもはやいるかどうかも知れない神に、一縷の望みを託して願いを捧げる。

 私は、多くの人々を不幸に追いやった最低の偽善者……その責任と罪は自分のものとして、罰というのならばどんなものでも甘んじて受ける覚悟だ。

 だけど、……それならせめて、今際の慈悲として私の大切に思うこの二人だけでも、終末の運命から逃れられる道を――。


「って……姉さんっ? な……なにあれ!?」

「えっ……?」


 突然、美佐枝が裏返った声をあげながら愕然と指さしたその先を見て、……私も思わず絶句して、固まってしまう。

 光というものがことごとく失われた、漆黒の暗闇の世界。……にもかかわらず、私たちの目の前にきらきらとまばゆい光の粒が降り注がれて……そして――。


「こ……これはっ……!?」


 なぜか届くかもしれないと感じて、とっさに差し出した右の手のひらの中に……何やら固くて、冷たい感触が伝わって広がる。

 おそるおそる引き戻して、開いてみると……それは見覚えのある、涙型をしたペンダントだった。


「『天使の涙』っ……!?」

「ど、どういうことっ? だ、だってこれはクラウディウスに奪われて……なのにっ……!」


 美佐枝のひどく動転した様子に、私は何も返すことができない。今や頭の中はぐるぐると眩暈を感じるほどにこんがらがり、まだ夢の中にいるような錯覚……というよりも、今のこの状況が現実であるということに、まったく自信が持てなくなってしまっていた。


「いったい……何が起きたというの……?」


 それだけを喉から絞り出すのが、精一杯ですらあった。


 × × × ×


「……天使の涙は今頃、本来あった場所へと戻っていることでしょう。あれは元々、一対であっても実際には「一対ではない」代物でした」

「一対であっても、一対ではない……?」


 アストレアの説明がよく理解できず、私は首をかしげる。隣にいためぐるも、何度も目をしばたかせながらきょとん、としていた。

 ……と、その時。テスラさんが何かに気づいたのか、「ひょっとして……」と前置きをしてから口を開いていった。


「あれは、確かに両方とも同じ『天使の涙』。ただ、平行世界の同じ時間軸で一対になったもの同士ではない……そういうことですか?」

「はい。『天使の涙』……あるいはそれと同様の意味を持つものは平行世界の各所に存在しますが、その一対は同一の時間軸によってのみ成立し、力を無限大に発揮します。ですから、異なる平行世界で手に入れた片方ずつを組み合わせたとしても、その機能には矛盾が生じ……やがては反発し合う運命にありました」


……つまり形は同じでも、中身の仕様と規格が違うわけか。一対であっても一対でない、という言葉はそういう意味だったのかと、その説明でようやく合点した。


「ど……どういうこと?」

「世界Aには、『天使の涙A1・A2』。世界Bには、『天使の涙B1・B2』……というふうに、その世界ごとに二つで一組の『天使の涙』が存在するという考え方です。ですから、『天使の涙B1』を世界Aに持ち込み、『天使の涙A2』と組み合わせたとしても、本来の力を発揮できない……その意味は、分かりますか?」

「な、なんとか……」


 一人首を傾げるめぐるに、テスラさんが補足の説明をしてくれる。それを聞いて、少し自信なさげな表情を浮かべながらも彼女は頷き返していった。


「えっと、つまり……使えないわけじゃないけど、上手く使えないってこと?」

「はい。おおむねその認識で問題ありません。……また、アカシック・レコーダーの能力を持たない者が『天使の涙』を別の平行世界に持ち出しても、その手元を離れてしまえば本来の場所に帰巣する仕組みになっています。……おそらくは今頃、改変された未来も元通りになっていることでしょう」

「…………」


 エンデとアインの協力があったとはいえ、私たちが怪物化したクラウディウスに対抗できたのはそういう事情のおかげだったのかと、私は胸のうちで安堵と、ほんの少しの戦慄を覚えて息をつく。

もしも、あの『天使の涙』の組み合わせが同一の平行世界のものであったとしたら……ここに立っていたのはひょっとすると、私たちではなかった可能性もありえたのだ。


「でも……ありがとうございます、イデアの皆さま。危うくのところで、このエリュシオンが本当の意味で『魔界』に変わる運命から逃れられました。これもすべて、あなた方が力を貸してくれたおかげです」

「アストレアさまっ……!」


 エンデは我に返ったように息をのむと、アストレアの下へと駆け寄る。そして、その足元に膝を折って平伏し、その長い髪を床に垂らしながら謝罪の言葉を吐き出していった。


「申し訳ありません……申し訳ありません、アストレアさま! このエリュシオンを救うには他に手がなかったとはいえ、私は……とんでもないことを……!」

「いいんですよ、エンデ。これは当初より、ある程度予測していたことです。それに――」


 アストレアはそう言ってから、自らの下腹部をそっとなでさする。その動作の意図は、よくわからなかったけど……彼女は私たちに身体ごと向き直ると、神妙な面持ちで告げていった。


「私も、あなた方に謝らなくてはなりません。予知によって最悪の事態を避けるために、私は他の誰かに真実を伝えることができていなかったのですから」

「えっ……?」

「アストレア・フィン・アースガルズはもはや、この世界の人間ではありません。ですから、私の正体は……実は――」

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