第50話

 ……それは、確かに過去と呼ぶべきなのかもしれない。

ただ、「時」という概念が存在しないために「昔」と定義づけることが難しく……あえて表現するならばアストレアたちがイデアに旅立つ前の、「エリュシオンにいた」頃の出来事だった。


「……フェリシア。エリュシオンの民の、現在の状況を教えてください」

「はい。とりあえず、徐々にですが……民の動静も落ち着きを取り戻しつつあります。傷を負った者たちもほぼ全員が快方に向かって現場へ復帰し、破損した各所の建造物も補修のめどが立ちましたので、現状はご心配に及ばぬ流れに進んでいるかと存じます」

「……。『悪しきマナ』の影響は、どうですか」

「――っ……」


 その質問をアストレアから受けたフェリシアは、一瞬返答をためらって口をつぐむ。が、さりとて答えないわけにもいかず、なるべく感情を抑えるように淡々とした口調で続けていった。


「これも相変わらずです。力を制御できず、「魔」の波動によって心身に異変をきたす者は日増しに現れていると、各所から報告が上がっております。さしあたり、症状が中度以上と診断された者を確保して拘束し、コールド状態――『棺(メダル)』の中に収めたものを、この宮殿『エリュシオン・パレス』内に安置しておくようにと申し伝えました」

「……ご苦労様です。今はそれしか方法がないとはいえ、やるせないものですね」

「心中、お察し申し上げます……」


 労いながら、悄然と肩を落とすアストレアを逆に気遣う言葉をかけてから、フェリシアはふと謁見の間の壁面にしつらえた窓へと目を向け……そこに見える黒くて丸い「影」を疎ましげな思いで見つめる。

 空に浮かぶ天体のようにも見えるそれは、空間の中にぽっかりと空いた穴。かつては希望と期待に満ちた新天地への出発点であった「影」は、今や不幸と衰退をもたらす災厄の象徴として人々から忌み嫌われる存在となっていた。


「(あの穴を通じて、エリュシオンを維持するためのマナが流出し……民は徐々に力を失いつつある。しかも、マナを浄化する機能も低下して、そのせいで――)」


 先人たちの過ちと失態は、新しいものを求めた挑戦の結果によるものだ。だから、起きてしまったこの状況を恨んだり、糾弾したりすることは筋違いというもの――思考では、そう理解している。しかしフェリシアとしてはやはり、その余波を受け続けている自分たちの感情としては納得ができないのも、確かなことだった。


「それと、フェリシア。カシウスの様子は、その……」

「……だめですね。いまだに住居の奥に引きこもったまま、一歩も外に出ようとはしません」


 いまだ姿を見せない「彼」の様子を尋ねられたフェリシアは、やるせなくため息をつきながらそう答える。それを聞いたアストレアもまた、ある程度の予想ができていたのか「そうですか……」と短く返し、宮殿のバルコニーに出て下界に視線を向けた。


「身体の傷の治癒はできたとしても、心まではそうもいきませんね。……力の及ばぬわが身が口惜しいです」

「何を申されますか……! アストレアさまは、よくやっておいでです。あなた様がいなければやつは魔物の姿のままさらにエリュシオンの民を襲い続け、やがて自らの命をも焼き尽くしていたことでしょう」

「……。でも、彼の手にかかった人たちの命を戻すことはできなかった。そして今もなお、『悪しきマナ』による世界の汚染を止められない……。このようなかたちで「時」の概念がこのエリュシオンに根付くようになろうとは、思ってもみませんでした」

「…………」


 アストレアの嘆きに対して、フェリシアは慰めの言葉も見つからず口をつぐむ。そして、跪いた姿勢のままその寂しげな背中を見ていることが辛くなり、思わず視線をそらした――その時だった。


「……もはや、是非もなし。先代から続いてきた現状を打破すべき時が、やってきたのかもしれませんね」

「現状の、打破……? それはいったい、――っ!?」


 訝しげに首をかしげながらフェリシアはその真意を尋ねようとしたが、そこではっ、と「ある計画」のことが頭の中をよぎって息をのむ。

 そう。いつも穏やかなアストレアが、ここまで覚悟を決めた用意固い口調で切り出すものと言えば、もはや一つしかなかった。


「アストレアさま……やはり、イデアへの移民計画を実行されるのですか?」

「ええ。今のままこのエリュシオンにとどまり続けていれば、健常な者までが『悪しきマナ』の影響を受ける危険が高くなってしまいます。そうなると私たちは、カシウスに対して行った以上の犠牲と損害を積み重ね……やがては世界の衰退、そして滅亡を迎えることを余儀なくされるでしょう。それに――」


 そこでアストレアは言葉を切り、優雅に身をひるがえしてフェリシアを真正面から見据える。そしてかつん、かつんと手に持った杖で床を二度、三度と叩いてから、厳かな口調で続けた。


「イデアへと流出した『悪しきマナ』の残置物も、放置しておくわけにはいきません。エリュシオンの世界を維持するためだったとはいえ、かの世界に「魔」の存在と力の根源を生み出してしまったのは、他ならぬ私たちの咎なのですから」

「……アストレアさまは、本当に責任感のお強い人です。そんなあなた様だから、『悪しきマナ』によって浸食が行われている今もなお、エリュシオンの民はあなた様を慕い……その命令に忠実に従っております」


 しかし……いやだからこそ、とフェリシアは苦い顔をする。そこまで民から慕われるアストレアがこの世界から「いなくなる」という事実を、補佐役である評議会の重鎮たちが肯定的に、あるいは妥協して受け入れるとはとても思えない。

最悪の場合、せっかく回避したはずの衝突状態が再び起こって……アストレアの身柄を奪い合うという事態が引き起こされることすら、考えられることだった。


「……評議会のお偉方を、どう説得されるおつもりですか? アストレアさまのお考えをあの方々が理解してくださるのであれば上々ですが、さすがに……」

「不満、そして反対は覚悟の上です。いずれにしても、もはや『悪しきマナ』の蓄積は看過できないところにまで達しています。……その淀みを軽減させるためならば、あえて無謀のそしりを受けることも覚悟せねばならないでしょう」

「確かに……仰る通りでございます」


 そして、同時にフェリシアは悟っていた。おそらくアストレアのこの決断を促したのは、「彼」の存在が大きく影響を及ぼしているのだと――。


「……あの人にも、このことを伝えていただけますか?」

「かしこまりました。……もっとも、その答えは今さら聞くまでもないことだと思いますが」



 × × × ×


「イデアに、行くだと!? それは正気で言ってるのか、フェリシアっ!」

「言葉を選べ、カシウス。その言はつまり、決定を下されたアストレアさまのお気が触れておられるという意味にも聞こえるぞ」

「詭弁を弄すな! そういう意味じゃない!」


 そう言ってカシウスは、目の前の卓をだんっ、と叩いて身を乗り出す。

 思ったとおり、効果はてきめんだった。無理やり面会を求めて、部屋から引きずり出した時は抜け殻のように無表情だった彼は、今やその目に鋭いほどの輝きをたたえ、青白かった顔には赤みがさして――いや、紅潮しきっている。

 おかげでフェリシアは、内心吹き出したくなるのを抑えるため、ことさら仏頂面をつくる努力をしなければいけなかった。


「(一人の男のために、全ての価値観と常識を覆す道を選ぶ、か。……しかし、それもあのお方らしい選択だな)」


 もっとも、それはただ想いを寄せる相手のことを慮って、盲目的に動いた結果ではない。ただ、自分が大切だと考える相手に対して、全力を尽くす――アストレア・フィン・アースガルズとは、そういう気高くて優しい女性だった。


「聞いてるのか、フェリシア!!」

「あぁ、もちろん。……で、お前はどうするつもりだ?」

「それは、……っ……」


 さっきまでの威勢を引っ込め、カシウスはうなだれて言葉を失う。ほんの少し前までの彼であれば、聞くまでもなく即座に同行を申し出ていたことだろう。

……だが、今のカシウスは未知に対する不安以上に、エリュシオンの民全てに負い目と罪悪感を抱いている。無自覚な衝動によるものとはいえ、多くの同胞を襲い……もはや再生もかなわぬほどに「食らった」。

その事実が厳然として消えぬ以上、己の意思をおいそれと述べてよい立場ではないことを、彼自身が何よりも理解していた。


「(だからこそ、……私が遣わされたわけか)」


 アストレアの意図を慮って、フェリシアは肩をすくめる。そして部屋の出口の扉にちら、っと目を向けてから、言葉を続けていった。


「……アストレアさまはおそらく、お前に来てもらいたいと思っているだろうな」

「っ、し……しかしっ……!」

「それを、「逃げる」と捉える者も確かにいるだろう。エリュシオンでの所業に対する咎を受けず、新天地にてやり直す、という見方もできるからな。だが――」

「だが、……なんだ?」

「お前は誰のことを気にしている? 我々が善悪の判断を仰ぐべきものは、民の評価か? 評議会の意向なのか? それとも――」

「……っ……」


 その指摘を受けて、カシウスは弱まりかけていた意気地に火が付くのを感じる。

 善悪の判断……それはもちろん、己の意思と価値観に従ってのことだ。そして、あえて誰かに是非を問うのだとしたら、それはもちろん――。


「……フェリシア。俺がまた、『悪しきマナ』に惑わされて『魔物』と化すことがあれば、……お前は、どうするつもりだ?」

「もちろん、斬るさ。今度こそ、後れを取るつもりはない」


 あっさりとそう返して、フェリシアは腰に差した剣を金打してみせる。きんっ、と小気味よく打ち鳴らされたその音は、静まり返った空気の中でことさら甲高く響いて聞こえた。


「つまり、お前の同行は確定というわけか……」

「当然だ。このエリュシオンに生と存在を得て以来、私はアストレアさまにお仕えしてきた。たとえどんな状況になろうとも、あのお方のもとを離れるつもりは毛頭ない。……それは、お前と同じだ」

「…………」


 カシウスは顔をあげて、深くため息をついてから先ほどまで座っていた椅子に腰を戻す。そして、長い沈黙が続いた後……ぼそり、と呟くような小さな声で切り出した。


「イデアは「時」の概念によって支配された世界だ。それゆえ、可能性という因果によって分化し、細分化されて……まるで樹形図のような世界構造になっているといわれている」

「あぁ。我らの生きるエリュシオンとは、まるで逆だな。数多くの「鼓動の止まった世界」からのマナの流入を受け、その帰結点であるがゆえに我らは「時」の概念を失い……永遠とも悠久とも呼べる存在だ。対してイデアは「時」によって縛られ、その終焉がいつ訪れるのか、誰にもわからない……アストレアさまですら、な」

「ということは、つまり俺たちの存在をイデアの理に従わせ……順応させるということだ。お前は、それでいいのか? 死というものに魂と記憶を奪われ、有限の「時」を過ごすはかない存在になるということだぞ……!?」

「……それを選ばれたのも、アストレアさまだ。有限こそ、エリュシオンが長らくの存在で失ってしまった……世界を維持する本当の力ではないか、と言ってな」


 フェリシアは肩をすくめながら、静かに言葉を返す。そして椅子から立ち上がると、近くの本棚に立てかけてあった書物の一つを取り上げて続けた。


「かつて、「先代」のアストレアさまがイデアへの道を開かれて、不自由で非合理な「時」の概念をこのエリュシオンに持ち込もうとした思い……今なら、わかる気がするのだ。「時」という制限があるからこそ、人はその生に価値を作り出そうとする。我らのように有と無のみで存在を表すだけでは、滅びがない代わりに変化もない。そして、進化や成長も……それは果たして、本当に生きているといえるのだろうか?」

「…………」

「……まぁこれは、お前が「時」の研究をアストレアさまの前で語った時の受け売りだな。そしてお前は、その研究記録をいまだにこうして、手元に置き続けている。ということは、お前も「時」の概念を持つイデアに、憧れを抱いているということではないのか?」

「……今さらだ。この世界に害をもたらした私に、望みを抱く資格などない」

「ならば、それを償うしかあるまい。先代たちがイデアに残してしまった、負の遺産を駆逐することでな。……こんなところで引きこもっているより、よほど建設的だと思うぞ」

「フェリシア……」


 その諭すような言葉を受けて、カシウスは目を見開きながらはっ、と息をのむ。そうしてしばらく考え込んだ後、彼は「……そうだな」と呟いて、顔をあげるとフェリシアを見つめ返した。


「ならば、アストレアさまのご期待とお優しさに応えるためにも、俺はあのお方とともに旅立とう。そして、アストレアさまに身命を捧げる覚悟で事に当たってみせる……!」

「……そうか。まぁ、当然といえば当然の返答に落ち着いたな。やはり、アストレアさまの仰ったとおりになったわけだ」

「っ? まさか……アストレアさまは、『予知』をお使いになったのか?」


 そのような手段を使わずとも、すぐにわかるだろうに。……そう内心で呟き、フェリシアは呆れたようにため息をつく。そして、首を巡らせながら扉のある先に向けていった。


「というわけです、アストレアさま。……多少面倒でしたが、納得したようですよ」

「……ありがとう、フェリシア。ご苦労を掛けましたね」

「なっ……!?」


 唖然とするカシウスの目の前で、閉じられた部屋の扉がゆっくりと開かれる。その向こうに立っていたのは、……アストレアだった。


「なっ……? フェリシア、お前っ……!?」

「本当に、気づいてなかったのか?……困ったものだ。イデアに向かう前に、もう少し実戦の勘を取り戻しておけよ」

「……っ……」


 カシウスは怒りをぶつけようと口を開きかけたが、自分の落ち度を悟って気まずそうに顔をそらす。……そんな彼の手に、アストレアはそっと触れて優しく微笑みながら言った。


「っ……アストレアさま……!」

「……ようやくまた、私の顔を真正面から見てくれるようになりましたね、カシウス」

「お、俺……いえ、私はっ……」

「いいのです。あなたの罪……私が、その一部を背負いましょう。ですから、私の責任もまた、一部を背負っていただけるとありがたいです」

「……っ、勿体ないお言葉……!」


 カシウスは言葉を詰まらせながら、アストレアの手を握ったままその場に膝を折る。そして万感の思いを込め、あたたかな笑みを浮かべる彼女の顔を見上げていった。


「このカシウス・アロンダイト……あなた様にすべてを捧げます……! この身体も、命も、そして魂もすべて……!!」

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