第44話
「すみれ、最後にもう一度確認します。……覚悟は、いいですね?」
天使ちゃんはまっすぐに見据えながら、決意のほどを確かめてくる。その言外には、めぐると戦うことの是非も含まれているとすぐにわかった。
もちろん、そんなことで揺らぐような思いなんて覚悟とは呼べない。だから私は視線をそらさずに無言で強く、そしてしっかりと頷き返した。
「わかりました。それでは、エリュシオンへの道を開きます。みなさん、こちらに来てください」
そう言って天使ちゃんはふわふわと浮かびながら空中を移動し、ワールド・ライブラリの中心部へと私たちを導いていく。
そしていくつかの泉を通り過ぎ、たどり着いた先にあったのは――。
『うわっ、でけぇ……!』
前を歩いていたアインがふいに立ち止まり、水辺のそばで息をのむ。そこには、今まで見た中でもひときわ大きな……もはや湖といってもいいくらいの泉が広がっていた。
水面にはさざ波が立ち、周囲に浮かんだ無数の水球や光の粒を鏡のように映しこんできらめくそのさまは、規模の違いこそあれチイチ島の水鏡を思い出させる。……そして遠くのほうには、どういう仕掛けなのか噴出した水柱の先に大きな虹の球がゆっくりとした動作で回り続けていた。
「ここは……?」
「いわば、ワールド・ライブラリの水源地のようなものです。私たちは『源泉』と呼んでいます」
「『源泉』……つまり、波動エネルギーの?」
「そうです。『源泉』はこの空間全体を維持し、多岐に渡るそれぞれの平行世界へ波動エネルギーを送り込みながら、その構造を支えています。いわば、ワールド・ライブラリの心臓部……いえ、連なる平行世界全ての中枢と称しても過言ではないでしょう」
「…………」
見渡す限りに湛えられた清らかな泉の水面に目を向けて、私は厳かな思いを抱きつつきゅっ、と胸元に手を当てる。
「(ここから、波動エネルギーが生まれているんだ……)」
天使ちゃんの説明が確かならば、波動エネルギー……聖杯の力によって飛躍的な身体能力を得ている私たちや快盗天使の先輩、そしてテスラさんとナインさんはこの泉があってこその存在ということだろう。
つまりここは、私たちが正義の味方として生きるための「源」とも呼べる場所。……そう考えると、粛然とした気持ちで身が引き締まるのを感じずにはいられなかった。
「それで……ここからどうやって、エリュシオンへ向かえばよいのですか?」
「この泉の底が、エリュシオンへつながっています。よってこの中を突き進めば、やがてたどり着けるはずです」
「ここを通れば、エリュシオンに……?」
意外な事実を告げられて、私は驚きよりも呆気にとられた思いを抱いてしまう。
全てを犠牲にする覚悟と決意で探し求めた、エリュシオンへの入口……それがまさか、こんなにも近くにあったなんて考えもしなかったからだ。
『おい、ちょっと待てよ。……エリュシオンへの入口がここにあったなら、なんでボクたちをわざわざ1000年前の世界に飛ばしたんだ? 明らかに遠回りじゃねーか』
不審そうな表情を浮かべるアインの反応は、当然のことだと私も思う。先にこの場所を教えてくれていれば、アストレアやクラウディウスたちと出会うこともなく……無用なトラブルに巻き込まれることはなかったのかもしれない。
すると天使ちゃんは、静かに首を横に振って答えた。
「急がば回れ、のたとえどおり……あの地点が、最も確実で安全な入口だったのです。平行世界の構造自体が崩壊しつつある今となっては、もう二度と同じ手段を用いることはできませんが……」
『あれが……近道だったのか?』
「えぇ。以前にもお話ししたようにあの時、あの場所に開きかけたゲートこそが、エリュシオンが魔界へと変わった始まりの地点。ですからあの扉をくぐれば、無用のリスクを冒すことなく、到達することができたと思います」
「……。でも、私はそれを選ばずにアストレアさまの救出を優先した。それは、間違っていたってことなの?」
「そうではありません。あの時点で戻ることを決めたからこそ、敵の真意を読み取ることができた……結果的には正しい判断でした。ただ、そのためにエリュシオンへ向かうには最悪の難路を選択せざるを得なくなった……それだけのことです」
「…………」
後ろめたさはやや残るものの、そう言ってもらえたことでとりあえず安堵する。
あの時の決断のおかげで、めぐるの行方を突き止めることができた。だけど、……そのせいで世界を危機に陥れていたとしたら、私の罪の重さは自分一人の生命だけではとても贖えるものではなかっただろう。
「(それにしても……)」
目を凝らしてみても、穏やかに水面が揺らいでいるだけの泉だ。ここが、あの1000年前の世界で開いたゲートよりも危険だとは、とても思えない……。
『ま……ここから行けるってんなら、それでいいけどさ。んじゃ、とっとと行こうぜ』
議論している時間が惜しいと判断したのか、アインはため息をついてから不敵に笑みを浮かべる。だけど、その楽観に注意を促すように天使ちゃんは「待ってください」とさらに説明を重ねていった。
「ただ水の中を通るだけではありません。この泉は、直接のつながりを持つゆえに魔界……エリュシオンから流入する高濃度の波動エネルギーを中和して、希釈した上で無害なものへと変換する役割を担っているのです」
「つまり、魔界との境界に設けられた、結界かバリア的なもの……?」
「はい。ですから、もし備えのないままこの『結界』を通過しようとすれば、一瞬で中毒症状を起こして意識と正気を奪われ……最悪の場合、生命を落とすこともあるでしょう。それはアイン、エリュシオンの民であるあなたも例外ではありません」
『……っ……!?』
その説明を聞いて、さしものアインも怖気を感じたのか矛を収めて押し黙る。……私も穏やかな水面に隠された脅威に不気味さを覚え、息をのんでその場に固まった。
「て、天使ちゃん……そんな泉の中に入って大丈夫なんですか?」
「通常時であれば、絶対にあなた方をここから行かせはしません。……ただ、イデアとエリュシオンが交わりかけている今だからこそ、最後のチャンス……ここを使うことが可能になったのです」
「どういうこと……?」
「現在、空間相転移によって二つの世界が入れ替わろうとしています。その影響で両者をつなぐ地点に集中していた波動エネルギーが拡散し、一時的に大きな穴が開いていることを確認しました。そこを通過すれば、先ほどすみれに渡した砂時計の『加護』の力で結界の影響をかなり中和できると思います」
「……なるほど」
私はもう一度、砂時計を手に取って見つめる。
つまりこれは、タイムリミットを知らせる時計であり、元の世界に引き戻す強制送還装置――それに加えて、私たちのお守りでもあるということだろう。
『けど、この砂時計があっても絶対安全ってわけじゃねーんだろ?』
「もちろんです。それに、この結界の範囲は限られています。多少離れても大丈夫だと思いますが、万が一を考えてなるべく別行動になるのは控えてください。……アインは、特に」
『ちっ……しつこいな。ボクばかり釘さしてんじゃねーよ』
さっきに続いてやり玉に挙げられたことが不本意なのか、アインはそう言ってぷい、と横を向いて鼻を鳴らす。
……とはいえ、天使ちゃんの言う通りアインは勝手知ったる場所ということで油断し、先走る可能性がある。これくらいの念押しは必要だろう。
「到着前に、溺れない?」
「大丈夫です。この泉の中は形状こそ水中のような様相をしていますが、ただの水ではないので……空気中と同じように息をすることができます」
「…………」
昔、溺れたこと……そして、メアリに捕まった時に水責めにされたことを思い出して、 背筋にぞくりと寒気が走る。
いくら大丈夫と言われても、少し怖い。……けど、この向こうでめぐるが待っている。それを思うと、立ち止まってる暇なんてなかった。
「……じゃあ、行くわ」
「泉に入ったら、真っ直ぐ下に向かって潜り続けてください。……成功することを、心から祈っています」
「ありがとう。それじゃ……」
そう笑顔で返してから、私は泉の中へと足を踏み入れる。そしてざぶざぶ、と水を蹴る音を立てながら先へ進むと、ほどなく頭を出しても足がつくぎりぎりのところへと至り――。
「……っ……!」
2,3度息を整えて意を決した私は、潜水の要領で頭ごと底に目がけて沈み込んでいった。
「――、あっ……!?」
目を開け、おそるおそる口から泉の水を取り込む。続いて呼吸に切り替えた途端、気泡が口元からあふれ出して……。
「っ……!?」
おぼれるような感覚に一瞬パニックになりかけたけれど、確かに天使ちゃんの言う通り、息苦しさはあっという間に消え去った。
「(ほんとに息が、できてる……?)」
ほっと胸をなでおろしてから振り返ると、同じように水中を進むテスラさんたちの姿が見える。
長い髪を流れにたなびかせながら、その口元が少し動いているようだ。……とはいえ、この中では言葉を伝えることができないようで、彼女はそれを悟ると底に向かって指を差し示した。
「…………」
おそらく、先に進めということだろう。私は頷き、体勢を元に戻しながら泳ぐ格好になって先へ進む。水上から届けられる光は少しずつ弱くなり、水中は鮮やかな青から群青、そして闇色へと変わっていった。
……と、その時だった。
「(……、えっ……?)」
ふいに、耳元に何か、……声らしき響きが聞こえてくる。
それも一つ、二つじゃない。もっと大勢で、それに――。
「(……泣き声……? 子供、ううん……大人の声も交じって……)」
私の空耳かと思ったけど、そうじゃない証拠にテスラさんやナインさん、アインも泳ぎながら周囲に目を向けて怪訝そうな表情をしている。
ただ、……なんだろう? 大勢の人の声のようにも聞こえるけど、異国の言語なのか何を話しているのか全然わからない……。
「……?」
やがて、そんな騒がしさも徐々に後ろへ遠ざかって聞こえなくなり……それに伴って、私の視界も彩りが宿り始める。そして――。
「あ……っ!?」
身体を包んでいた水の感触がふいに消え、抵抗がなくなったことで手足の動きが急に解き放たれたように軽やかに変わる。若干の浮遊感は残しつつも大気の流れを頬に覚え、ここが泉の中ではなく、どこかの空間であることを実感した。
「通路、抜けたの……?」
『みたいだな。……すみれの声も聞こえるってことは、やっとエリュシオンに戻ってきたというわけ――、!?』
そう言って、私を追い抜くように前へ進み出たアインが前方を指し示した格好のまま……声を失ったように息をのんでその場に固まる。
心なしか……その肩が震えている。明らかに異様な反応に、私は思わず彼女に並んでその表情をのぞき込んでいった。
「どうしたの、アイン?」
『っ、……うそだ……こんな、こんなはずは……!?』
「……? 何かあったの?」
「どうしました? ここは、エリュシオンなんですよね?」
遅れて追いついたテスラさんとナインさんも、こちらへと近寄って尋ねてくる。……だけどアインは、目を大きく見開いたまま口元をわななかせ、私たちに意識を向ける余裕もない様子だ。
それを受けて、仕方なく私たちもエリュシオンの全貌を確かめるべく首を左右へと巡らせて――。
「……、えっ……?」
それに気付いた瞬間。アインと同様に、声を失った。
「なに……ここ……!?」
「何もありません……! 建造物どころか、空も、地面も……!?」
テスラさんたちが思わず漏らした言葉は、まさに私が同時に感じたことだった。
眼前に広がっているのは、ただ無秩序に吹き荒れる気流の中で渦巻く、漆黒の闇。何かが見えるどころか、私たちが視線を向ける先には何も存在して「なかった」……!
「これは、どういう……」
「アイン……あなたの住んでいたエリュシオンって、こんなところなの?」
『ちっ……違う! 確かにずっと崩壊は続いていたけど、小規模に点在しただけで……ここまで酷い状態じゃなかった!』
「……でも、本当に何もないです。あそこの、浮いている島のようなところ以外は……」
怪訝そうにテスラさんが指さした先には、確かに島のようなものが空中に浮かんでいて……その上にはお城のような建造物が見える。
でも、それだけだ。それ以外には何の存在もなく、気配も感じられなかった。
『嘘だろ……? ディスパーザさまは、まだ大丈夫だって……! それにマナの流出を止めれば、自浄作用で世界は復旧することも可能だって! それなのに、ここまで進行が早まるなんて……っ!』
「――おそらく、今回の黒幕の計画が最終段階に入ったためでしょう」
「天使ちゃん……?」
するとその時、砂時計から天使ちゃんの声が聞こえてくる。ただその声は小さくて、時折ノイズのような雑音が混じっていた。
「申し訳ありません。今回ばかりは、『波動端末』をあなた方に同行させるだけの余裕がありませんので……思念だけを送らせていただきます」
「こっちの状況は見えているのですか?」
「ある程度は見えています。ですが、いつ通信が途切れるのかわかりません。砂時計の残りは常にチェックしていてください」
「わ、わかった……、なっ!?」
天使ちゃんの言葉に応えて、なにげなく砂時計を取り上げてみた私は……反射的に声をあげてしまう。
ここに来るまでの体感時間は……多めに見積もってもせいぜい30分もなかったはず。なのに、砂時計はすでに1/4ほどが流れ落ちてしまっていた。
「ど、どうして……? こんなに時間がかかったはずがないのに!」
「……エリュシオンがイデアとの接続、そして次元の相転移を始めたことで、時間の流れに異変が生じているようです。崩壊の進行が急激に早まったのも、それが原因でしょう……!」
『っ、ちきしょう……!』
「急いでください! このままではディスパーザたちの野望を阻止するどころか、めぐるを助け出す時間すらも確保できなくなります!」
「そんな……っ!」
焦りと苛立ちで弾けそうになる思考をなんとか鎮めながら、私は胸の内からせめぎたててくる恐怖と不安をうち払う。
とにかく今は、めぐるのいる場所へと一刻も早く向かうことだ。そのためには――!
「アイン。あの城が、あなたの言ってたディスパーザさまがいる場所なの!?」
『っ? あ、あぁ……若干崩れてるけど、間違いなくボクたちが仕えていた城……『エリュシオン・パレス』だ』
「なら、内部構造はわかってるわよね。中を案内して!」
『わ、わかった……こっちだ、ついてこい!』
そう言ってアインはなんとか我を取り戻し、私たちを促して先に浮かぶ城に向かって飛翔する。私とテスラさん、ナインさんもその後に続いた。
「待ってて、めぐる……今、行くからっ!」
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