第40話

 ……さっきまでの世界から弾かれた直後、私たちは暴風の渦中へと放り込まれた。


「ぐっ……うぅっ……!?」


 視界はもちろん呼吸すらも奪われた私の身体は、アインと一緒に初めて魔界へ向かった時と同じく、まるで嵐の中の小舟のように激しく翻弄される。

 荒れ狂う気流。上も下も、右も左もわからない。ただ耳障りな響きだけが泣き叫ぶように聞こえて……やがて私の意識は、闇の中へと奪われていった。

 そして――。


 × × × ×


「う……」


 次に目を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは虹色の輝きをまとった青の空間だった。

 海……空……? ううん、これは……。


「『ワールド・ライブラリ』……?」


 ぼんやりとした思考に気怠さを覚えながら、頭に浮かんだ記憶のままにその名前を呟く。

 真っ青な天井。四方の壁には小さな光の粒が無数に浮かんでいて、その幻想的な輝きの群れは曇りのない星空のようにも感じられた。


「(でも……チイチ島で見た空の方が、綺麗だったな……)」


 メアリとの死闘を繰り広げて、そして大魔王ゼルシファーの復活を阻止した後……あの小さいけれど美しい島で見た、満天の星々の光景。

 そして、私の隣には元気で明るく、誇らしげに笑うめぐるの優しい顔が……。


「……っ!?」


 自分が置かれた状況をやっと思い出し、我に返った私は慌てて飛び起きる。続いて状況を確かめようと周囲に目を向けて、すぐそばにテスラさんたちが倒れていることに気がついた。


「大丈夫ですか、テスラさん! ナインさんも……っ」

「……安心してください、気絶しているだけです」


 驚いて声を失った私を落ち着かせるように、どこからともなく柔らかい……聞きなれた天使ちゃんの声が響いてくる。確かに、言葉通り二人の手足には多少のすり傷があるものの、大きな怪我は無いようだった。


「緊急脱出をかけて、手荒に扱ってしまったことはお詫びします。でも、危なかった……もう少しで、次元の狭間に飲み込まれてしまうところでした」

「…………」


 少しだけ釈然としないものを抱えながら、私は改めてこの『ワールド・ライブラリ』の内部を見渡す。夜の海を彷彿とさせる深い青の空間には、大小のカラフルなシャボン玉のような水球たちがゆらゆらと泳ぐように浮かんでいた。


「(そうか……戻ってきたんだ……)」


 あの崩れかけたお城で、血まみれになっためぐると再会し……アストレアさまの惨状を見て激情に駆られたカシウスがあの子に斬りかかろうとしたら、長い水色の髪をした女性が襲ってきて……。

 そして、彼女とアインが会話を交わす中……私はめぐるを取り戻そうとしたけど、その寸前であの子は出現した超空間の狭間に飲み込まれて、それで――、?


「そうだ……天使ちゃん! フェリシアさんと、カシウスさんは!?」

「……。それについても、説明の必要がありますね」


 そう言って、目の前に天使ちゃんが姿を見せて舞い降りてくる。……その表情にはどこか、その名に似つかわしくない憂鬱の影が色濃く浮かんでいるようにも見えた。


「……あのお二人は今、私のパートナーが全力で探してくれています。もう少し、時間をください」

「時間、って……!」


 つまり、行方不明……いや、間違い無くそうだろう。

 1000年前の世界から弾かれた時に見えたあの暗闇の中は、私が魔界を目指して異空間に入った時と同じ……いや、むしろそれ以上の次元嵐が吹き荒れていた。無事でいてもらいたいという思いは心からの願いだったけど、……それがどんなに難しく、はかない希望であるかということくらいは私もよくわかっていた。


「(私たちが助かったのは、アインが持っていた宝石のおかげだった。でも……)」


 アインが持っていた宝石の光のように、あの二人が目印となるなにかを持っていなければ……見つけることは困難に近いだろう。とはいえ、今の私にできるものといえば彼らの無事と、天使ちゃんが「パートナー」と呼ぶ誰かがその所在を見つけ出してくれる奇跡を祈るだけだった。


『くそぉ……!』


 すると、少し離れた場所から……水を叩くような音と罵声が聞こえてくる。そこへ目を向けると、座り込んでいる小さな背中が見えた。


『くそっ! くそっ! くそぉっ……!』


 まるで海に巨大なガラスを張り巡らせたように、色を変え続ける床。それをアインが、握りしめた両こぶしで何度も何度も殴りつけている。

 その髪は水しぶきを浴びて顔や首にはりつき、全身の服が濡れそぼっていたけど……彼女は止めるどころか、悔しさをぶつけるように声を湿らせながらこぶしを奮い続けていた。


『あと少しで……あと少しで、エンデを止められるところだったのに! ちきしょうっ……!!』


 殴打の音を割いて、アインの叫び声が木霊する。

 今の私には、彼女の背中しか見えない。だけど、わざわざ確かめるまでもなくその悲哀の言葉はあまりにも切なくて、辛そうで……表情はあえて確かめなくても、およその想像がつくくらいに明らかだった。


「…………」


 だけど、そんな姿を見つめながら私は、足を踏み出してアインのもとへと歩み寄る。

……今の彼女は、きっと誰かに話しかけられることも、その顔を見られることも辛いだろう。でも、だからといってこのまま、ただ見ているわけにはいかなかった。

私たちにはもう、じっとしている時間なんてないのだから……!


「(……めぐる)」


 ふいに私は、自分の手を開いて見つめる。

あの時差し伸べたこの手は、めぐるに届かなかった。だったら、もう一度……いや届くまで決して諦めることなく、何度でも伸ばし続けるしかない。そしてそのための情報が、今の私には必要だった。


「……アイン」

『…………』

「あの髪の長い女性のこと……もう少し、詳しく教えてくれる?」

『……。あぁ、わかった』


 そう言ってアインは、目元を軽くこすってからこちらを振り返る。

その瞳は、少し赤くなっているようにも見えるけど……でも、それ以外は私の知る彼女だった。


『もう、わかってると思うけど……あいつは、エンデ。ボクと同じく、魔界の女王であるディスパーザ様にお仕えする従者で……友達だった』

「……だった? なら、もう友達じゃないってこと?」

『そうじゃないって、言ったのはあいつだ!』


 吐き捨てるようにエンデがそう叫び、両手を強く握りしめる。その剣幕にはぶつけようのない怒り以上に、嗚咽にも似た悲しみがはっきりと宿っていた。


『お前も聞いただろ、あいつの言葉を! エンデが去り際になんていったか、忘れたわけじゃないだろ!?』

「……。えぇ、聞いたわ」

『あいつは、何が何でもアストレアさまをエリュシオンに招き入れるつもりでいるんだ! このままだとエリュシオンが持たない、そのためにもエリューセラを連れてそいつを器に、って……!』

「っ、器……?」


 その言葉に、嫌な気配を感じる。以前にもアインが言っていたことに近いものだけど、微妙にそれは意味合いを変えているようにも聞こえた。


「じゃあ、あのエンデっていう子がめぐるをあそこに連れていくのは、あなたも予想ができたってことなの……?」

『違う! エリューセラがアストレアさまの器を務めるからこそ、ボクはめぐるを魔界にとどまらせるって思ってたんだ! だけどエンデは、アストレアさまが同行を拒んだ時のことまで考えて、あの世界に連れ出してっ……!』

「……なるほど、ね」


 おそらくエンデは、人との同化の能力を持つエリュシオンの民の特性を活かし、万一の場合はめぐるにアストレアさまを取り込ませて、強引にでも連れ戻すつもりだったのだろう。

 ただ、彼女の誤算はそれを実行に移すよりも早くアストレアさまが襲われてしまったことだ。だからやむなく、自分があのお方の身体に乗り移った……。


『しかも……しかもっ! よりにもよってエンデのやつ、アストレアさまと同化だと!? その意味が分かっててやったっていうなら、……もう、あいつはボクの知ってるエンデじゃない!』


 激しく首を振りながらまくし立てるその様子は、まるでその目で見たものを拒否したがっているようだった。

 でも、ウソだなんて否定はできなかった。だってあの場には彼女だけじゃなくて私と、天使ちゃんがいて、そして……。


「器……?」

「っ!?」


 あまりにも唐突にかけられた声に、心臓が飛び跳ねる。そこには言葉を発したナインさんと、すぐ隣で訝しげに眉をひそめるテスラさんが立っていた。


「ナインさんと、テスラさん……? 起きてたんですか?」

「えぇ、つい先ほど。それより、今アインさんとのお話の中に『アストレアさまの器』と言葉が聞こえてきましたが……」

『…………』


 テスラさんの視線は、私の隣に立つアインを射貫く。そして答えを促すように、言葉を重ねていった。


「それって、あなたたちが言うところの『エリューセラ』……つまり、めぐるさんのことですか?」

『……。あぁ、そうだよ』


 観念したように、アインは肩を落としながら説明を始める。

 めぐるを連れ去った理由は、あの子が魔界の巫女――『エリューセラ』の資格を持つ力があると見込まれたから、ということ。

 エリューセラは、エリュシオンの復活と安定の起点となる役割を持つということ。

 そして、そのエリューセラが力を得るためには、アストレアさまとの同化が必要になるということ--。

それは最後以外、私に対してしてくれたものとほぼ同じだったけれど、……初めて耳にするこの二人には十分に衝撃的な事実だった。


「……事情はよくわかりました。では、あなたのパートナー……エンデさんは 、めぐるさんとアストレアさまをどうするつもりなんですか?」

『……どうするつもりだって? そんなの言わなくたってわかってるだろ! あんたたちの予想通り、生け贄だよ!』

「……っ……!」


 アインの正直すぎる返答に、私はある程度覚悟していたとはいえ……慄然とした思いで身をすくめる。

 ……これまでの彼女は、私のことをそれなりに気遣っていた。だから私が、なんとなく漠然と感じた懸念についても、なるべく言葉を濁すようにしてくれていたと思う。

 ただ、ここに至ってはもう、そんな余裕もないということなんだろうか……。


「……でも、アイン。めぐるの力をエリュシオンに持ち込むと、かえって危険なことになる。だから、女王様の命令であなたがパートナーを止めに来た、って……そう言ってなかった?」

『っ、それは……』


 私の問いに、アインは激情に駆られた表情を不意に消す。……そして、今にも泣き出しそうな顔を向けていった。


『……言ったさ。でも、重要なのはエリューセラじゃない。アストレアさまを連れ出すことだったんだ……』

「じゃあ、嘘だったということ……?」

『違う、嘘じゃない!……でも、自分が本当に正しいのかわからなくて、それで……!』


 そう前置きしてからアインは、肩を落としながらぽつり、ぽつりと切り出す。それは私も、今初めて聞く内容だった。


『……エンデは言ったんだ。エリュシオンを救うためには、イデアにいるアストレアさまを連れ戻してその力におすがりするしかない。そのためには、呼ぶための鍵となるエリューセラが必要だから……自分がイデアに行って、探してくるって……』

「……そこで、あなたは止めなかったの?」

『もちろん、止めたさ! それに、それはそもそもディスパーザさまに却下されたんだ。そこまでの無理をしてまでエリュシオンを維持しようとすれば、イデアをはじめ全ての世界に悪影響を及ぼす、って! だから、エンデがそれをイデアに向かったって聞いた時、あいつが暴走して独断で動いた、って思ったんだ……だけど……っ!』

「だけど……?」

『……あいつも、ディスパーザさまの命令で動いてるって! だから、あの時も――』


 × × × ×


 ……如月神社、って言ったよな? エリューセラが修行のためにいた場所って。ボクはあそこで、一度エンデに追いついたんだ。

 そして、言ったんだ。「ディスパーザさまの命令で、ボクはお前を止めに来た。勝手な行動は止めて、エリュシオンに戻ろう」って。

だけど――。


『……アイン。私は、ディスパーザさまのお許し……いえ、ご命令を受けてここに来ているのよ。あのお方のお名前をかたって、いい加減なことを言わないで』

『は……はぁっ、何を言ってるんだ!? ディスパーザさまはエンデが独断で動いたって言って、心配して直々にボクをよこしたんだぞ!? お前こそ、ウソをついてまで自分のわがままを通そうとするのはよせよ!』

『っ、……わがまま? 私は、エリュシオンの未来を考えて動いてるのよ! その覚悟は、何人たりとも邪魔させない! たとえ、あなたでも……っ!』

『なっ……? ちょ、ちょっと待てエンデ! 話を聞けっ――うわぁぁぁっっ!?』


 …………。

 まさか、あの時はエンデが攻撃してくるなんて思ってもみなかったから……不覚をとっちまった。

 それでボクは、すみれに救われて……今に至るってわけさ。


 × × × ×


「……わけがわからないわ。あなたたちの言うディスパーザって、いったいどうしたいの?」

『それはまんま、ボクの台詞だよ! ボクは確かに、ディスパーザさまにエンデを止めろって命令された……でも! あいつが女王様の命令だって嘘をついてまで動くとも思えない! だから、意味わかんなくて……っ!』

「では……めぐるさんは、アストレアさまの依り代としてあの人たちに連れ去られた……そういうことですね?」

『エンデの計画は、そうだった……だけど、無理なんだよ! たとえエリューセラを器にしたところで、並外れた力を持ったアストレアさまと同化なんてできっこない! 最悪、共倒れになっておしまいだ!』

「っ……!?」


 共倒れになって、おしまい……?

 それはつまり、アストレアさまの力を収納できなかっためぐるが、疲弊ないしは中毒を起こして、命さえも危険になるってこと……!?


『そもそも、ひとつの力で世界層やら空間構造やらが崩壊寸前の世界を安定させるなんて、不可能だ! こんな状況で支柱なんか作って無理やり世界に干渉したりしたら、今までの時間軸がまるで別ものに入れ替わって、ボクの世界の未来もお前たちの世界の未来も全部変わっちまう! それなのに、あいつはっ……』

「――それが、エリュシオン……魔界の本当の狙いなんです」


 と、その時。静かな声で、そう断言したのは――私のそばで話を聞いていた天使ちゃんだった。


「て、天使ちゃん……?」

『……どういうことだ、ちっこいの』

「言葉通りの意味です。魔王ディスパーザは、魔界……エリュシオンが危機に瀕している状況を逆手に取ったのです。このままだと自分たちの世界は永くもたない、ならば健全な状態で続いている世界と自分たちのいる領域と入れ替えてしまおう、と」

「領域……? それは、どういうことですか?」

「……。例え話をしましょう」


 そう言って天使ちゃんは、両手を中に差し出す。すると、吸い寄せられるように二つの小さな光球が彼女の手元へ舞い降りてきた。


「この二つの球体を、パソコンだと思ってください。片方は魔界――エリュシオン。片方はイデア――人間界。細やかな違いはありますが、スペックはほぼ互角。違うのは世界の成り立ち……データだけです」


 天使ちゃんの掌の上で、光球が揺れる。大きさはほとんど同じだが、色だけが違う。

 すると、しばらくして……その光球が音もなく、左右で入れ替わった。


「そして、エリュシオンのメモリは何らかの原因によって著しく劣化し、危険な状況に。そこでディスパーザは、メモリが修理不能なまでに破損する前に、イデアのデータとエリュシオンのデータを入れ替えることにしたのです」

「……ま、待ってください! それって、魔界の滅びを人間界に押しつけるということですか!」

「そうです。今、私とパートナーが平行世界の修復に手を取られて、その企みに対処できないのを好機として――」

『あ……あり得ない!』


 そんな天使ちゃんの声を、アインが遮る。そして彼女はいきり立った表情で迫りながら、食って掛かるように言った


『そんな恐ろしいこと、実際にできるわけがない! だって、そんなことをしたら二つの世界は……!』

「……光と闇、正と邪。それぞれが入れ替われば、人間たちが住む現在の世界と歴史は消滅します。おそらく、今のエリュシオン側のメモリではデータの入れ替えが終わった直後にイデアは滅びます」

「……つまりは、ジョーカーの押しつけ合いということですか」

「残念ですが、テスラさんの仰るとおりです。エリュシオン側のメモリが修復出来ない以上、二つの世界のどちらかしか生き残れない……」

「……っ……」


 その時が来るまで、ジョーカーを所有し続けていた世界が滅ぶ。……なんて醜悪なカードゲームだろう。


「その手段を選ばざるを得ないほど、魔王は追いこまれていたのか……あるいは、彼女によこしまな入れ知恵をした何者かが……いえ、これは推論に過ぎませんね」


 天使ちゃんは首を左右に振ると、苦々しい声で呟く。そして顔をあげると、言葉をつないでいった。


「とにかく、現状の『ワールド・ライブラリ』では世界の崩壊を防ぎきれません。そもそも、異なる可能性世界同士であるエリュシオンとイデアが接触を持つこと自体、イレギュラーなのです。経緯も構成も異なる2つの世界が結びつくことなど、普通ではとても考えられないこと。ですが……」

『な……なんだよ?』

「……ここまで進行してしまった以上、この先に待ち受けているのは互いの存続を賭けた人間と魔族の全面戦争でしょう。……最悪の場合、聖杯戦争以上の惨状が繰り広げられることになるかもしれません」

「そんな……」

『う、うそだ……! いくらエリュシオンを救うためだといっても、あのディスパーザさまがそんな非人道的な手段を選ぶはずがない……!』


 呆然と口元をわななかせながら、それでもアインは必死に抗弁を続ける。だけど、その言動には力もなく、痛々しくて……聞いている私のほうが胸を締め付けられるような思いを感じていた。


『それに……それにっ! エンデを送り出した後、事態を混乱させないようにってボクを派遣したのは、ディスパーザさまなんだぞ! エンデを止めるために! それはどう説明するっていうんだ!?』

「真実は、私にもわかりません。……ですが、これが現実であり、事実です。受け止めてください」

『っ……!』


 突き放すような天使ちゃんの言葉に、アインは声を失って唇を噛みしめる。

 返す言葉が思いつかない……そんな表情の彼女を気遣うような視線を送りながら、ナインさんが口を開いていった。


「これから、どうする……?」

「フェリシアとカシウスの捜索は、私のパートナーに任せます。私たちはまず、魔界への入口を開きましょう」

「できるのですか?」

「えぇ。変異点が分かったことで、ゲートは見つかりました。だから、今度は直接――」

「……待って」


 天使ちゃんに声をかける。これからの予定が決まる前に、どうしても聞いておかなくてはいけないことがあった。


「教えて、天使ちゃん。あなた、クラウディウスと対峙した時に『ここが変異点だ』って言ったわよね。……それに、あの世界に行く前にも同じ事を口にしていた。『魔界が生まれた時間軸は、1000年前のここだ』って」


 あの時はめぐるのことで頭がいっぱいで、その真意を聞く暇すらなかった。

だけど、今なら……いや、尋ねるなら今が最後のチャンスだと思う。


「イデアとエリュシオンは、可能性によって生まれた世界同士なのよね。だったら、イデアから分かれて生まれたエリュシオンが、『魔界』に変わったのは1000年前のあの時だった……あなたは、そう言いたかったんじゃないの?」


 イデアとエリュシオン――どちらが本流でどちらが支流なのか、それともどちらも本流なのか……今まで、はっきりと理解することができなかった。

 だけど、天使ちゃんが世界をPCに例えたおかげで、私はようやく察しをつけることができた。


「もしも、エリュシオンが可能性世界の一つなら……イデアなんて全く違う世界とデータを入れ替えるなんてせずに、『ワールド・ライブラリ』からエリュシオンと類似の可能性世界を持ってきて、その世界とメモリを入れ替えればいい。だってその方が絶対に安全だもの」


 データ入れ替えの目的が、スペックの向上ではなくて自分の世界を存続させることなら……イデアなんて違うPCではなく、エリュシオンから直接繋がる可能性世界という同型機のPCとデータを入れ替える方が確実だ。

 そもそも、エリュシオンでは魔法、イデアは科学と成長した文化が違う。それら単なるデータを安易に混在させてしまったら、PC……世界の構造すらも変えかねない要素ではないだろうか。


「『ワールド・ライブラリ』には、イデアが持っている沢山の可能性世界と繋がっているんでしょう? だったら、エリュシオンとつながっている可能性世界にも行けるはずじゃない!」


 この世界を立つ前、テスラさんはこう言った。

 ――「誰かと出会った未来と、出会わなかった未来。あるいは生き残った可能性と、そうでない可能性……それらにつながっている場所が、この『ワールド・ライブラリ』というわけです」、と


「なのに、それをしないってことは……そもそも、エリュシオンという世界に直接繋がる可能性世界への分岐が、あの地点以外は存在しないってことじゃないの?」

「…………」



 そう叫んだ私の声は、少し震えていたかもしれない。……天使ちゃんは、しばらく何もいわなかった。

 ただ黙って、私の顔を見つめ……やがて、穏やかに微笑む。そして、言葉を切り出していった。


「本当に、聡明ですね……すみれ。あなたの機転と洞察力には、出会った時から何度も感心させられます。彼女が施した教育のたまものでしょうか?」

「彼女?」

「お三方のよく知る方ですよ……それより」


 そう言って天使ちゃんは、大きく息をつくと私たちに向き直る。……その大粒の瞳には、今までにない厳かさと畏まった思いが色濃く浮かんでいた。


「……お話の前に、まずはあなたたちにエリュシオンとはどういう世界なのかを説明しておきます。『エリュシオン』――この名前に、何か聞き覚えはありませんか?」

「ギリシャ神話に出てくる、死後の楽園のことですね。初めにその名前を聞いた時は、不吉で嫌なものを感じていましたが……」

『……おい。まさかボクたちが幽霊か何かだというつもりじゃないだろうな?』


 それを聞いたアインはぎろっ、と不快そうに顔をしかめてみせる。確かに、自分のことを死人か存在しない何かと扱われて、いい気分でいられる人はいないだろう。


「……エリュシオンにも、生死の概念があるのね?」

『あるに決まってんだろ。ボクたちはあの世界で生きてるんだからさ』

「そう。アイン、あなたは確かに生きています……でも、死後の楽園というのは、実のところ半分正解なのです」

『はぁ!? だったらボクはなんなんだよ!』

「あなたは生きています。ですが、あなたの世界……エリュシオンは、死んでいるのです」

『な、なんだよそれ……! どういうことか、説明しろよっ!』


 そう怒鳴って、アインは噛みつく。……だけど、その威勢には強がりと不安、そして恐怖が入り混じっているのを感じる。

 ただ、無理もなかった。自分たちがこうだ、と教えられてきた世界の成り立ちを、根本から崩すようなことを言われようとしているのだから。

 でも、その思いは私やテスラさんたちも同じ。……だから一言も聞き漏らすまいと、私は固唾をのんで身構えた。


「可能性世界……平行世界は、無限に存在します。いわば一つの大樹から無制限に伸びた枝葉。枝の先から新たな枝が生まれ、底から更に枝が生まれる……ですが。どの枝も無限に伸び続けるということではありません。時に、自重に耐えきれず自ら折れてしまったり、何らかの原因で病気になって腐り落ちてしまったりする枝も存在します」

「……天使ちゃん」


 つい、反射的に口にした声が掠れる。

 彼女が何を言わんとしているのか、既に察しはついていた。

 ……だけど、聞かなくちゃいけない。


「その落ちた枝は……どこに、行くの?」


 枝から落ちてしまった時点で消滅するなら、まだいい。

 だけど、有から無を作り出すことができないように……そこに在った物を、跡形も無く消してしまうことなど出来はしない。ということは――。


「……エリュシオンです」

「――――」


 冷たい宣言が、世界を満たす。

 あぁやっぱりという納得と、どうしてという絶望と共に……。


「エリュシオンは、崩壊や消滅などが原因で『未来』を失った世界……木から落下した枝葉が辿り着く『終着点』なのです」

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