第29話

 ……微睡みが残った意識の中、ひんやりと涼しい空気が流れ込んでくるのを感じる。

 まるで花のように甘くて、森のように爽やかな香りの……エアコンとは明らかに違う、自然の空気。

そこに安らぎと心地よさを覚えながらあたしは、ゆっくりと瞼を開けた。


「……んぅ……?」


 顔を横に向けると、わずかに開いた障子の隙間からあたたかな光が差し込んでくるのが見える。

外から聞こえてくるのは、鳥たちの元気なさえずり。時計はなくても、その賑やかさと日差しの長さが今は朝だと教えてくれていた。


「ふわぁ……おはよ、みる……あ」


 みるくちゃん、と言いかけて口を閉じる。

 学院寮にいた時は、同じ部屋にいたハリネズミのみるくちゃん。朝になると枕元にちょこんと立ち、その小さな手でペシペシとあたしの顔を叩いて起こしてくれる彼女は、ここにはいない。

 そう……ここは学院の寮でもなければ、以前に住んでいたチイチ島でもない。学院から半日離れた場所にある、大きな湖の中心に浮かぶ島。

 ――その中心にそびえ立つ、如月神社の修行寮だった。


「ふわぁ……」


 あくびをしながら、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばす。

 これをみるくちゃんから渡されたのは、ここに来る直前。あたしにとって「スマホ」はすっごく高価で難しいものというイメージだったから、初めて手にした時は壊したりしないか、ドキドキしちゃった。

 正直言って、機械は苦手だけど……すみれちゃんと連絡が取れる唯一の手段ということで、とりあえず一生懸命操作を覚えることにした。神社の人たちにあれこれ聞いて教えてもらったおかげもあって、今は小さいゃ、ゅ、ょが打てるくらいに上達したと思う。


「……すみれちゃん、メール見てくれたかなぁ?」


 毎日、朝と昼と夜になったらメールを送って近況を報告する……それが、すみれちゃんと交わした約束だ。本当は毎時間、ううん毎分送るねっ! と提案したんだけど、「……さすがに多い」と返されて、この回数になったんだっけ。


「昨晩は、山の中で撮影したかわいい鳥さんの写真を、すみれちゃんに送ってあげたんだよね~♪」


その返事が届いてることを期待しながら、人差し指一本でメールボックスを開く。

 ……だけど、新しいメールは届いていなかった。


「……。あれー?」


 如月神社に来たばかりの時は、短い文章でも毎回メールを返してくれてたけど……ここ数日はなぜか、どんなメールを送っても返事が戻ってこない。だから、受信トレイ? に入っているすみれちゃんの最後のメールは、ずっと古い日付のままだった。


「この携帯、壊れちゃったのかな……? それとも、あたしの操作が間違ってるのかなぁ……?」


 ひょっとして、また身体の具合が悪くなったんだろうか……。もしくは、以前に戦ったフクロウみたいなやつよりも、さらに強い敵が出てきたとか……?


「……っ……」


不安がこみ上げて、一瞬気持ちが暗く沈みかけたけど……首をぶんぶんと振って、その嫌な予感のようなものを打ち消す。

 大丈夫……きっと大丈夫だ。出発する直前あたしは、最近の体調はいいとすみれちゃん本人に、そして(内緒だけど)お兄さんにも確かめた。万が一急変した時は、絶対に連絡してほしいとみるくちゃんにお願いしてある。

それに、どんな強敵が出てきても今は遥先輩と葵先輩がいる。だから、気にせず修行に集中するように――そう言って励ましてくれたすみれちゃんの笑顔を思い出し、あたしはこぶしを握って気持ちを奮い立たせようと力強く頷いた。


「よーし! 頑張って、早くすみれちゃんのところに戻るぞー!……はぅっ」


 そう叫んであたしは、掛け布団を跳ね飛ばす勢いで起き上がる。……ただ寝起きで頭に血が巡っていないせいか、少しくらっ、と目が回ってしまった。


「が、頑張るぞ……!」


 × × × ×


 その後、ようやく力がみなぎってきたあたしは寝間着を脱ぎ、無地の白衣と紺色の袴に着替える。

すみれちゃんが部活で着るのとよく似た、如月神社の巫女装束だ。初めの頃は着付けがよくわからなくて、職員さんにも手伝ってもらってたけど……今ではなんとか、一人でも着ることができる……と思う。


「はぁ……。今日も、いい天気だなぁ~」


 客間を出たあたしは、心地よく晴れた空を見あげながら廊下を歩く。

 初日はこういう場所に慣れてなかったので、うっかり騒がしく歩いて怒られちゃったっけ。そんなことを思い出しながら足音に気を配って移動してると、この神社に住み込みで働いている人たちの姿がちらほらと見えてきた。


「おはようございまーす!」

「あぁ、おはようさん。……朝から修行かい? 頑張れよー」

「ありがとうございます! あっ、おはようございまーす!」

「おはようさん。めぐるちゃんは元気やなぁ……でも、頑張りすぎて怪我せんようにな」

「はいっ!」


 廊下ですれ違う人は、老若男女……っていうんだろうか。男の人もいれば女の人もいて、年代も幅広い。本当に、色んな人がこの神社で暮らしてて……そしてとっても仲がよくて、来て間もないあたしにもすごく優しくしてくれる。

だから、この如月神社の生活はすごく楽しくて……初めて来た時の緊張と不安がまるで嘘のようだった。

……ただ、もちろん大事なことは忘れていない。少しでも早く元気になって力を取り戻して、すみれちゃんと一緒にツインエンジェルBREAKとして悪いやつらと戦う。――それが、あたしがここに来た目的だ。

そのためにも、あたしは頑張らないとねっ!


「……よいしょっと」


 玄関で草履を履き、三和土を踏みしめながら引き戸を開けて外に出る。……周りに誰も居ないことを確かめてから、心置きなく全力でダッシュ。

 別に急ぐほど、遅刻してるわけじゃないけど……やっぱりあたしは、自然の中をこうやって走るのが好きだった。


「はっ、はっ、はっ……!」


 チイチ島の潮風とは違う水の匂いを含んだ、少し冷たい風。それを頬で受けながら森の奥へと進んでいくと、微かに聞こえていた水の音が少しずつ大きくなる。

 そして、雑草が踏みならされた道に沿って木々の間をしばらく駆けていった先で、パッと視界の開けた場所があり……そこには校舎と同じくらいの高さの、大きな滝があった。


「おはようございます、めぐるさん」


 勢いよく水が流れ込む滝壺の前には、長い髪をゆるく三つ編み状にした袴姿の女の人が立っている。その人はあたしが近づくと、まっすぐに姿勢を正したままゆっくりと振り返った。


「お……おはようございます、雫さん! すみません、お待たせしましたか!?」

「いいえ、私も来たばかりですよ」


 穏やかに落ち着いた振る舞いでそう答えてくれたのは、お世話役の霜月雫さん。あたしがこの島に来てから、ほとんどつきっきりで面倒を見てくれている方だ。

 すごくできる人で、あたしが困っているとすぐに手助けしてくれるんだけど……あまり笑った所を見たことがない。なんというか、クールな大人の女性! って感じかな。

 すみれちゃんが大人になったら、こんな感じかもしれない……なんて。


「体調はいかがですか?」

「大丈夫です! 今日も元気いっぱいですっ」

「それはなによりです。……では、始めましょうか」

「はいっ。よろしくおねがいしますっ!」


  × × × ×


 雫さんの指導による修行内容は、日によって色々なものがあった。

 たとえば、一日中森の中を走り続けたり、ひたすら座禅を組んだり……。その他には、箱に入っている物の中身を当てたり、雫さんと武道の稽古をしたり……。

苦い薬を飲んで、静かなお堂の中で一日中眠る……なんて修行っぽくないこともあったかな。とにかく色々ありすぎて、どんな効果があるのかよくわかっていなかったけど……確かに体調は、来る前よりもずっといい感じになっていた。


「……もう一度おさらいです、めぐるさん、あなたが今、必要なことはなんですか?」

「はいっ! チャクラを治して基礎体力をつけ、集中力を磨くこと……です!」

「その通りです。それでは、今日は昨日に続いて集中力の鍛錬を行います。……こちらにどうぞ」


 そう言って雫さんは、目の前で轟音を立てる滝を指さす。あたしはそれに従い、滝壺を挟んで向き直り、ゆっくりと深呼吸しながら構えをとっていった。


「…………」


 滝壺に落ちた水滴が勢いよく飛び跳ねて、霧吹きみたいに小さな水の粒が顔を、髪を、そして装束を濡らしていく。

 日差しのあたたかさとは対照的な、氷のような冷たさ……だけどそれが、意識の集中を高めるべくあたしに喝を送ってくれているようだった。


「……昨日、教えたことを思い出してください。目の前にある滝の流れだけを見据えて、集中し……丹田にたまった気を解き放つのです」

「……。はい……」


 頷いてからふーっ、と息を吐き出し……両手を前に突き出す。


「(大丈夫……!)」


そう、自分に言い聞かせながらあたしは、雫さんが手本として見せてくれた昨日の姿を頭の中でイメージする。

 この滝の水は、普通のものとは違って人が発する気を受けると、変化する……らしい。つまり、あたしの体が治っているならこの流れに何かが起こるということだ。

 ……だけど昨日は、それがうまくできなかった。焦りが出すぎて、気の送り方が不完全になってる――それが、雫さんの見立てだった。

 だから今日は、……焦らない。すみれちゃんたちを信じて、あたしは今に集中する……そう決めて、ここに来たんだ。


「……っ……!」


あたしのなりたいもの……正義の味方……そして、ツインエンジェルBREAKとして、これからもすみれちゃんにふさわしいパートナーでい続けるために――っ!


「――やぁぁっっ!!」


 気合いを入れて両手に渾身の力を込め、お腹からの叫びを滝に向かって放つ。

 ……だけど、滝はさっきと同じようにただ、水が流れていくだけだった。


「……。あぁ……」


 失敗……?

 そう思って落胆しかけた次の瞬間、大きな水音が響きわたった。


「……えっ?」


 目を向けると、勢いよく滝壺に流れ込んでいた滝が、ゆっくりと……でも、確実に二つに分かれていく。

 ううん、それだけじゃない。さっきまで上から下に流れていた水流が、停止ボタンを押したかのようにぴたりと止まると、下から上に水が逆流し……まるで水のベールのように空を覆ったと思った瞬間、雨のように降り注いできた……!


「…………」


 目の前で起こったことなのに……なんだか現実感が沸かなくて、ふわふわした気持ちで空を見上げる。

 ただ、よく晴れた青空にかかった大きな虹がとっても綺麗で……あたしはぼんやりと、その場に立ち尽くしていた。


「……めぐるさん」

「っ! は、はいっ!」


 名前を呼ばれて背筋をピンと伸ばしながら振り返ると、そこには前髪から水をしたたらせた雫さんがいた。

 ……よく見ると、髪だけじゃなくて全身ずぶ濡れになっている。でも、きっとあたしも似たようなことになっているんだろうな……なんて他人事みたいに思っていると、彼女は小首を傾げながらにっこりと微笑んでいった。


「……。合格ですよ、めぐるさん」

「ほ……本当ですか!?」

「えぇ。昨日の教えを、しっかり活かしてくれましたね」


 そう言って雫さんは、そっとあたしの肩に手を触れてくれる。

 とてもあたたかくて、柔らかい……人柄の優しさが伝わるようなその感触に、あたしは達成感と喜びが胸の奥から込み上がってくるのを感じていた。


「初日と比べると、まるで別人のように見違えるほどの成長ぶりです。……厳しいことも言いましたが、よく頑張りましたね」

「あ……ありがとうございます!」


 慌てて両手を揃えて、ぺこりと頭を下げる。……笑顔もそうだけど、ここに来て初めて雫さんに褒められたかもしれない。

 ということは、もしかして……もしかして?


「あの、あたしの修行って……」

「ええ。神社へ戻り、報告を行ないましょう。それが終われば、修行は終わりです」

「やったぁー!」


 ここの生活は、苦しいことばかりじゃなかった。みんな優しくて親切で、あたしのことを大切にしてくれた。

 でも心の底では、この修行がいつ終わるのかわからなくて……正直言って、不安だった。もしかしたら、一生帰れないんじゃないかって思った時もあった。

……でも、もう大丈夫! すみれちゃんと一緒に、正義の味方を続けられるんだ!

 それが嬉しくて嬉しくて、思わずその場で飛び跳ねて。


「あれ? あわ、わわわわわ……」


 着地の瞬間、濡れた石に足がつるん、と滑ってしまったあたしは、滝壺に落下した。


「………!」


 バシャン、と大きな音とともに景色が一変する。

 水の中は透き通っていて、ほんのりあたたかい。水面から差し込んだ朝日に照らされた水中は、海の中より少し暗いけれど……とても綺麗で、思わず一瞬見とれてしまう。


「めぐるさん!?」


 その時、揺らぐ雫さんの顔が目に入ったことで我に返り、慌てて水面へと浮かび上がる。足が着かないほどの深さではなかったので、すぐに顔を出すことができた。


「ぷはーっ!」

「……大丈夫ですか?」

「は、はい……ごめんなさい。ちょっと、浮かれちゃって」


 そして水辺を踏み渡りながら歩いていき、岸辺へと近づく。その直前で雫さんがすっと手を差し伸べてくれた。


「どうぞ、捕まってください」

「ありがとうございます……っ、よいしょっ!」


 雫さんの手につかまって、水辺から抜け出す。……また滑って落ちたりしないよう、石ではなく土の地面に立ってからようやくほっ、と息をついた。


「大丈夫ですか?」

「は、はい……あの、すみません。服、濡らしちゃって」

「これくらいは平気ですよ。……ひとまず、境内に戻って着替えましょう」

「はいっ!」


  × × × ×


 雫さんと一緒に、あたしは来た道をゆっくり歩いて戻っていく。

 水を吸った装束が重い上にぴったりと体に張り付いて、歩くのも大変だ。雫さんも少し濡れて、動きがほんの少しぎこちない感じだった。


「このままでは風邪を引くかもしれませんね。戻ったらお風呂にしましょうか」

「は、はい……。あ、でもあんまりあの滝の水、あんまり冷たくなかったから大丈夫だと思いますよ」


 滝の水しぶきは結構冷たかったけど……あの滝壺の中は、少し温かったように感じた。水の中に落ちたというよりも、お風呂に入ったような気分。

 ……そんなことを思っていると、雫さんは困ったように苦笑いを浮かべた。


「あの滝壺は、地熱の影響を受けて温まっていますからね。とはいえ、そのままでは冷えてしまいますよ」

「ちね……つ?」


 科学の時間で聞いたことがあるような、そうじゃないような……そんな言葉が出てきて思わず聞き返してしまう。

 すると雫さんは、地面を見つめながら話を続けていった。


「この地面の下には、地熱によって超高温の温水が貯まっているんです。そしてこの島の電力は、それをくみ上げることで発生させる地熱発電によってまかなわれています」

「地熱……発電……?」

「えぇ。森の向こうにある、大きな建物のことはご存じですか?」

「はいっ。あの、おっきなツボみたいな建物ですよね?」

「あれは、既存の地熱発電の技術を進化させた……神無月グループの最新技術による超小型発電施設です。試験的な開発のため、普及はまだ先とのですが……少なくともあの施設があれば、地方都市の人口の電力がまかなえる程度の電力を作ることが可能だそうですよ」

「え、ええっと……」


 うぅ、なんだか難しい単語をずらずら並べられて頭がパンクしそう。

 えーっと、つまり……。


「す、すごい場所なんですね!」


 そんな言葉を返すのがやっとだった。ごめんなさい雫さん、帰ったらちゃんと調べます……。


「えぇ。とても画期的なエネルギーです……でも」


 そう頷いてから雫さんは、少し顔を上げて遠い目をしながら……それまでとは違う厳しい表情を浮かべていった。


「地熱発電用の水は、摂氏200℃を越えます。使い方を違えれば、私たちに対しても容易に牙を剥くでしょう。だから……」

「……?」

「あなたの力と、とてもよく似ていますね」

「あたしの……ですか?」

「えぇ」


 彼女は大きく頷くと立ち止まり、思わずあたしも足を止める。

 朝の森にたたずむ雫さんは、まるで先生のようにとても優しく……だけど、諭すように強い口調で言った。


「あなたには、とても素晴らしい力が眠っています。それが正となるか、負となるかはあなた次第ですが……あなたが意思と目的を誤らなければ、それはきっと誰かを救う光となるでしょう」

「…………」


 誰かを救う、光――。

 今までのあたしだったら助けられなかった人を、助けられる力……。

 だからもし、あたしがその力を正しく使えるようになったら……ヴェイルちゃんとヌイ君の時のようなことは、二度と起こらない……ううん、起こさせない。

 そう思った瞬間、それまでとは違う感情が自分の中にわき上がってきた。


「やります、あたし……! きっと、力の使い方を身につけてみせます!」

「期待していますよ。……このことは、学院に戻った後も忘れないでくださいね」

「は、はい……!」


 強くなりたい。助けられなかった、大事な友達のためにも。

 それに、あたしがいない間みんなを守ってくれているすみれちゃんのためにも……。


「あたし、がんばります! がんばって、強くなります!」

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