両手に収まるくらいまでに

@11necchi3

両手に収まるくらいまでに


 ドロシーはいつも、使用人のジェイクに背中を向けている。

 「あと15センチ、細くしなさいと言われたの」

 ジェイクはなんということだ、と思った。このご時世にウエストのサイズで結婚が決まるなど、あってはならないことではないか。

 しかし、使用人としては主人の命令に背くわけにはいかない。せっせと毎日ドロシーのコルセットを締め上げる役目を果たしている。

「何で今更、コルセットなんか」

 ドロシーはため息をついている。その気持ちはジェイクにもよくわかる。とにもかくにも、彼女に縁談を持ってきた両親が悪いと思われる。

 ドロシーの家は、それなりの家柄で、若い使用人を置く程度には裕福な家庭である。父親の経営する会社は安泰で、母親は社交界の花ともてはやされたこともある人物。教育にも熱心で、女性らしさよりも勉強やスポーツばかりに興味が向くドロシーにも、好きなことをやりなさいとうなずき続ける度量があった。

 しかし、この家庭にもいくつかの弱点がある。

 まずは、父親の会社の立ち上げの際に様々な支援をしてくれた人物に頭が上がらないこと。

 そしてその人物はそのことをよく理解し、利用してくること。

 最後に、その人物は自分の影響力を強めることに余念がないこと。

 ドロシーの両親はその人物の魔の手が娘に及ぼうとした際には出来る限りの抵抗をしたのだが、「この成金が! わたしに逆らうとどうなると思うの」という一喝と、彼女の周りに連れられた政財界の面々に白旗を上げるしかなかった。

「すまない、ドロシー」

 父親が肩を落として謝ってくる。

 ドロシーの婚約は、こうして決まった。


 ジェイクは、ドロシーの成長を間近で見続けてきた。

 五つ年上のジェイクは、15のころからドロシーの家庭教師としてこの家に入り、大学を卒業した22歳からは使用人として雇用されることになった。使用人と言っても、ドロシーの父の秘書のようなことをしたり、一家所有の不動産の管理を行ったりしているものだから、その役目はほとんど執事と言ってかまわない内容だった。

 それでもジェイクは使用人と名乗って働くものだから、偏屈な男だといわれることもある。本人はそれについては全く気にしていなかった。

 ともかくも、現在24歳になるジェイクは、19歳になろうとするドロシーのウエストを細くするための業務を毎日行っている。

「代々受け継いできたドレスがはちきれてしまうなんて、失礼しちゃうわ」

 ドロシーが怒っているのは、婚約した相手の言い分だった。

 地方とはいえ広大な領地を持つ貴族の家に嫁ぐことが決まった際、結婚式までにその体系を何とかしないと、代々受け継いできたドレスがはちきれてしまう、と言われてしまったのだ。

「そもそも、どれだけ古いドレスを着させようとしてるのよ。カビとダニで式の最中に全身搔きむしることになるんじゃないかしら」

「ちゃんと虫干しはしていると思いますよ」

「ほんとに? 表だけきれいで中はボロボロとか、ありそうじゃない?」

「まぁ、見てみませんとわかりませんが」

「ほらぁ!」

 ドロシーはジェイクの脇腹に肘鉄を入れる。それほど痛くもないので、ジェイクはそれを受け流すこともなく「いてて」と受け止める。

「それにしても、なかなか縮まりませんね」

 ジェイクはコルセットを締めながら、ドロシーの腰の変化について言及する。いったいどれくらいの期間でどれくらい細くなるのか、いまいちわからない。もちろん、使用人として一般的なコルセットによる体系の変化は勉強したが、ドロシーの変化は一般的なものよりも緩やかに思われた。

「そうね、やっと3センチってところかしら」

「やはり、着用時間の問題でしょうか?」

「そんな風にごまかさなくてもいいわよ、ジェイク。食べ過ぎだって、言ったらいいじゃない」

「確かに少しばかりふくよかになられたようですが、私の目の前ではそれほどお食べにはなられていなかったように思っていたのですが」

「そりゃ、あなたの前で食べたら止められるでしょ」

「そんなに嫌なんですか? 婚約が」

「婚約が嫌なんじゃなくて、親に決められた相手と結婚するのが嫌だということよ」

 どうやら、ドロシーのウエストが細くならないのは確信犯のようだった。

 これだけ頑張って後ろからリボンを締めているというのに、当の本人がこれでは、使用人の思いも水の泡である。

「コルセットを締めるのをやめますか?」

 徒労や意味のない行為が好きではないジェイクは、これで彼女がうなずけばさっさとやめてやろうと思っていた。

 けれど、ドロシーは首を振った。

「ううん、コルセットは締めてちょうだい」

「どうしてですか?」

「頑張ってないって思われたら、困っちゃうでしょ」

 家宝のドレスをはちきれさせる嫁などいらないと、言われたい。

 でも親に迷惑をかけてはいけないという思いもある、ということか。

 納得すると、ジェイクはまた、リボンを引っ張った。

「なるほど、それでは私はこのコルセットを絞りきることだけに全力を尽くさせていただきましょう」

「……うん、全力を尽くしてね」

「息が詰まりますか?」

「これくらい、どうってことないわ」

 一瞬苦しそうな顔をしたものの、ドロシーは毅然と前を向く。

 ジェイクの手元のリボンが、キュっと音を立てた。



 昔の女性はそれはそれは、ウエストを細くすることに骨身を削ったらしい。

 両手で収まるくらいの細さの女性もいたのではないだろうか。

 ジェイクは自分の両手で円を作ってみる。……どう考えても、そこに骨と内臓が詰まっているとは思えない。

 自分の育ててきた奉公先のお嬢様が、こんなに健康に害が出そうなことをしなければならないなんて。

 ジェイク自身が少しばかり身の細る思いをしていた。

 筋肉を落とすことも考え、ドロシーは運動を止められた。そうすれば暇を持て余して街に遊びに出るかとも思ったけれど、

「コルセットを付けたままだと身動きが取れない」

 という話もあり、やむを得ず家の中にいるらしい。

 コルセットを締めるのはジェイクだとはいえ、お家がかかった大騒動である。そこら中からウエストの確認をされるドロシーは、確かに痩せ始めていた。

「お茶をお持ちしましたよ」

「どうせノンカロリーの物でしょう」

「一緒に角砂糖も持ってきました」

「ジェイク!」

 中庭を臨むテラスでぼんやりとしていたドロシーは、ジェイクの一言に喜色を浮かべる。

 ジェイクがテラスでお茶をするときのテーブルにトレーを置くと、ドロシーは口を開けて待っていた。

「角砂糖、とりあえずここに入れてちょうだい」

「……本気ですか?」

「当り前よ」

 常日頃であれば行儀が悪いと止めるジェイクだったが、ドロシーの最近の様子に、かなりほだされていた。

 角砂糖を一つ壺からトングで取り出すと、それを掌の上に置いてから指でつまんだ。

「それでは失礼して」

「……ん、あまい」

「そうでしょうね」

 ドロシーの口の中に転がっていった角砂糖は、唾液を吸ってほろりと崩れる。その光景を見てしまったジェイクは、少し気まずくなった。

「あとは紅茶に入れて楽しんでくださいね」

「はぁい。3つ入れてね」

「ミルクは?」

「たっぷり」

 大っぴらにはお茶菓子も出せないので、甘い紅茶だけがドロシーのおやつだ。

 湯気を立てるミルクティをゆっくりとすすって、ドロシーは首を回した。

「コルセットをつけているのに、肩がこるわ」

「力が入ってしまってるんですかね」

「そうかも。動きづらくて、何をやるにもぎくしゃくしてしまうから。

 ちょっと、首のあたりをさすってくれないかしら」

 ふつうは男の使用人に頼まないようなことも、ドロシーはジェイクに頼む。

「あったかい」

 ドロシーの首から肩にかけては、ずいぶんと冷えていた。

 活発な性分なのに運動を止められてしまったドロシーは、それまでは毎日行っていた読書も止まってしまったようだ。

「何にも手につかないわ」

 そう言って、コルセットの淵のあたりを無意識に掻きむしっている。

 やんわりとそれを止めながら、ジェイクはドロシーの肩回りをマッサージする。

「どこかに出かけますか?」

「身動き取れないのよ」

「私が車を出しますよ」

「車から出られない外出なんて、何にも楽しくないわ」

「じゃあ、動かなくてもいいものでも」

「なにそれ」

「観劇とか」

「観劇!? ずいぶん古臭いのね」

「そんなことはありませんよ。でもそうおっしゃるならやめましょうか」

「待って待って、行くわ、行く」

 ジェイクの趣味がオペラやバレエなどの観劇だということを知っているドロシーは、慌ててジェイクの袖をつかんだ。

「古臭いんでしょう?」

 わざとすねたような顔つきをしたジェイクが尋ねる。

「古いことも、いいことだわ」

 適当に返すと、ドロシーは立ち上がり、ジェイクの服装を見る。

「一緒に来てくれるなら、見るわ。あなたが休日の恰好になってくれるなら、楽しみ」

「かしこまりました」

 ドロシーは外で従者付きと思われるのを嫌がる。

 ジェイクは今日の興行スケジュールを思い浮かべながら、着替えのためにドロシーを室内に連れて行った。


 いくらコルセットを締める相手とはいえ、基本的に着替えはドロシー自身で行っている。

「おまたせ」

 ジェイクがドロシーの部屋の外で待っていると、外行きの格好になったドロシーが顔を出す。

 スポーティなパンツルックが多かったドロシーだが、今日は花柄のワンピースだった。Aラインのスカート部分に、ずいぶん細くなった腰が繋がり華奢に見える。

 歩きづらそうなポインテッドのハイヒールを履き、自然とジェイクの腕に手を伸ばした。

「荷物をお持ちします」

 ジェイクは小さなハンドバックを受け取ると、淑女が歩きやすくするために腕を貸す。

 いつもの通り後部座席のドアを開けると、ドロシーは助手席がいいといい始める。

「しかし」

「たまにはいいじゃない、気晴らしに広い景色が見たいのよ」

「……かしこまりました」

 ジェイクは後部座席のドアを閉じ助手席を開けた。

 ドロシーは楚々と乗り込んで、助手席からあふれるスカートを手で拾い上げる。

 しっかりと彼女が乗り込んだことを確認して、ジェイクは扉を閉めた。

「どこに行くつもりなの?」

「ちょうど昼の興行のチケットが入ったので」

「オペラ?」

「まぁ、そうですね」

 お互いにドレスコードに引っかからない程度の恰好はしている。

 静かに車を発進させる。ドロシーは助手席におとなしく座っているが、どことなく憂鬱そうだった。

「オペラではだめでしたか?」

「え? どうして?」

「浮かない顔のままなので」

「あぁ、本当に息がしづらいだけなの。気にしないでちょうだい」

 あなたと出かけるのは楽しみなのよ。

 そう言ってドロシーは目を閉じる。

 ジェイクには、コルセットのリボンを締め付ける力加減はわかっても、ずっとそれに拘束されている苦しさはわからない。

 まるでドロシーの思考を奪うような器具だ。明らかに集中力は落ちているようだし、何をやるにも億劫そうだ。

 ジェイクはこのドロシーの結婚話について、疑問が晴れない。大切な娘のこのような様子を両親は知っているのだろうか。……もしかしたら知らないのかもしれない。ドロシーは活発ながらも親思いだ。ジェイク以外の前ではいつものドロシーを演じているのかもしれない。

 静かなドロシーを右側に感じながら、ジェイクは安全運転を続けた。それほど郊外に立っているわけでもない邸宅からは、簡単に都心部の劇場に訪れることができる。

 都市と住宅街を分ける河に差し掛かった時、ジェイクは一度、車を停めた。

「どうしたの?」

 眠っていたのか起きていたのかはわからないドロシーが目を開ける。ジェイクは肩をすくめて答えた。

「検問です」

「あら、最近物騒だものね」

「そうですね」

 車を停めたところで、やましいところは一つもない。

 おざなりな警官の身分証確認と車内点検があったのち、もう一度車は走り始める。

「あ、飴の……」

 通り過ぎる景色を見ていたドロシーが声を上げて、途中でやめた。

「あとから行きますか?」

 ジェイクは何げなく聞いた。

「やめておくわ」

 ドロシーはまた目を閉じる。

 窓の向こうには、ドロシーが小さなころから通い続けているキャンディショップがある。

 ジェイクは通り過ぎる街並みのそこかしこで、元気に走り回っていた少女を思い出すことができる。

 どうして今日は、こんなに感傷的になっているのだろう。

 自分自身に首をかしげながら、ジェイクは車を走らせた。


 古い街並みの中でも、その劇場はすぐに見つかる。

 巨大な箱のような建物にはそこかしこに装飾が施され、夜になればライトアップされる。

 昼間でもその壁面に吊られた幕は鮮やかで、興行中のプログラムがあることを遠くまで伝えている。

 昼の演目は、夜の物に比べて時間も短く、2時間程度で終わる。

 劇場のエントランスにたどり着いた二人は喉を潤しておこうと、脇にあるコーヒースタンドに近寄った。

「やあ、ジェイク」

 そこで、ジェイクに声がかかった。

「マイク、ひさしぶりだな」

「あぁ、ほんとに久しぶりだ。今日は彼女連れかい?」

 ジェイクの友人らしい親しさで、マイクはドロシーを見やった。

「いや、こちらは私の勤めている先のお嬢様だよ」

「なるほど、今日はお嬢さんのお供という訳だな。初めまして、お嬢さん」

「……はじめまして」

 ぶしつけな男だとドロシーは思った。それが顔に出たまま、挨拶をした。ジェイクはそのドロシーの様子には気付いているようだった。

 マイクはドロシーににこりと作り笑顔を見せると、ジェイクの肩に手をかけた。

「ジェイク、うちの女優がジェイクと話がしたいと言っていたんだが、どこかで時間を取れないか?」

「え?」

 使用人としてドロシーの横に立っていたはずのジェイクの顔が崩れた。どちらの振り子に振れるのか、わからない表情だ。

 ドロシーはジェイクのその様子に、ジェイクの袖を引いた。

「ジェイク、中に入るわよ」

「はい、お嬢様」

「ちょっと待って、俺がまだ話をしているんだけど」

「ジェイクは仕事中よ」

「わがままなお嬢様だな」

「正当な権利だわ」

「雇い主としての度量を見せてくれてもいいと思うんだけれど」

「子供のような意見ね」

「年齢的には、そちらの方が十分子供と言えるでしょ」

「やめろ、マイク」

 ドロシーとマイクの掛け合いに割って入ると、ジェイクはドロシーの手を取った。

「中に入りましょう」

 ドロシーはジェイクの腕に手を絡め、入口の方に足を向ける。

「恋人ごっこかな!?」

 二人の背中にマイクのヤジが飛ぶ。

 ドロシーは空いている手のひらを握りしめた。


 座席についたところで、ドロシーは額に手を当てた。

「いかがなさいましたか?」

 ドロシーの隣に腰かけようとしていたジェイクが、ドロシーの様子に声をかける。本当なら使用人らしく演目が終わるまで外に控えておくことが良いのだが、ドロシーは一人がさみしく、よくジェイクを横に座らせた。

「別に、……少しくらっとしただけ」

「先ほどのせいですか、申し訳ありません」

「酸欠だわ、大丈夫」

 ドロシーにも、自分の不調がマイクのせいなのかはたまたコルセットのせいなのかわからない。

 大丈夫と言いながらも様子がおかしいドロシーに、ジェイクは尋ねた。

「コルセットをはずしましょうか?」

「ここで?」

「小部屋を借ります」

「さっきの男性から? 嫌だわ」

「その様子をずっと見ているのもつらいです」

 ジェイクは今朝のコルセットを締めた自分を思い出した。いつも通りの締め具合だと思っていたのだが、きつすぎたのか。

 心配そうなジェイクの顔に、ドロシーは降参した。

 背もたれに後頭部をのせるようにして、ジェイクを見上げる。

「わかったから、公演が始まる前に終わらせてちょうだい。お互いリラックスして見たいでしょう」

「ありがとうございます。……部屋を借りてすぐに戻ってきます」

 ジェイクはドロシーの青白い顔に頭を下げると、立ち上がってホールから外に出た。

 ロビーで周囲を見回す。ホール内は完全に携帯電話が使えない上、ロビーでもできる限りの通話を控えるような慣習がここにはある。できれば電話など使わずに相手を見つけたかった。

「ジェイクじゃない、久しぶり」

 きょろきょろとあたりを見ていると、ジェイクの背後から名を呼ばれる。知っている声に、ジェイクは振り向いた。

「エリー」

「どうしたの? 人探し?」

 フォーマルな装いの知人に、ジェイクは焦りを見せた。

「マイクを探しているんだ」

「マイクならさっき楽屋に顔を出しにいったわよ」

「ああ、最悪だ」

「どうして彼を探しているの?」

「少しばかり込み入った事情でね」

 とりあえずメールを入れるか、と端末をジェイクが出したところで、エリーがその動きを止めた。

「まぁ、ちょっとくらいなら協力できるかもしれないわよ。事情を教えて?」

 ジェイクは楽し気なエリーに少しばかりいらだちを感じながら、説明した。

「あら、お嬢さんが大変なのね。私は今日ボックス席を用意しているから、何だったらこちらの席を使う?」

「あぁ、ボックス席か……」

「もちろん、もう満席だけどね」

 自分たちでボックス席を取るか考えるジェイクを、先制してエリーが抑える。

 ジェイクは、目を細めてエリーをにらんだ。

「楽しそうだな」

「そりゃあ、あなたのそんな様子初めてだもの。それに、噂のお嬢さんも見てみたいしね」

「……席はどこだ?」

「3階のA2室よ。待ってるわ」

「すぐに行く」

「そうね、開演までそんなに時間はないわ」

 ボックス席の中でも、Aの部屋はダイニングや控室まで付属した特等席だ。

 相当な恩を着せられることを覚悟しなければ。

 二人が席を確認しあい、ジェイクがホールにドロシーを迎えに行こうとしたとき、「ドン」と大きな音がした。

「え、なに」

 建物全体を揺らすような大音量に、エリーが思わず天井を見上げる。

 「ドン」

  「ドン」

   「ドン」

 立て続けに先ほどよりは小さな音が続き、それが爆発音だとその場にいた人々が気付いたころには、建物全体に警報が鳴り響いていた。

「な、なに」

「エリー、物陰に隠れながら外に出ろ」

「え?」

「俺は中に行く」

「ちょっと、ジェイク!」

 音は明らかにホールの中から聞こえていた。

 ジェイクとエリーの会話の間にも、慌てて逃げ惑う人々がロビーを駆け抜けていく。

 開演前ということもあり、ホールの全席が埋まっていたわけではない。それでも目視で100人以上の人間がホールから飛び出してきているように見えた。

「ドロシー!」

 ジェイクは人ごみの中にドロシーを探すが、見知ったワンピースを着た女性は見当たらない。

 そもそも体調が悪かった彼女が、この状況で動けているのだろうか。

 ジェイクは慌てる人々の隙間を縫いながら、ホールの中に入った。

 爆発音が起こったものの、それほど大きな規模ではなかったらしい。

 ジェイクが座席に隠れながら見渡すと、火薬のにおいと煙が充満しているものの、ホールの左前30席程度が崩れたり煤がついているだけだった。

 自分たちが予約していた席よりもかなり離れた場所だったことにほっとしつつも、その周囲でうめいている人々の姿を見て、ジェイクは歯を食いしばる。

 逃げ惑う人と、負傷して動けない人、そしてその人々を助けようとする人。

 ジェイクはその最後の集団に、ドロシーがいるのを見つけた。

 血の気の引いた顔をした彼女は、足を負傷して逃げ遅れていた女性を支えて会場から出ようとしている。

 ジェイクはドロシー達に駆け寄った。

「ドロシー!」

「ジェイク」

「お怪我は?」

「私は大丈夫」

「かわります」

「だめ、ほかにも手が必要な人がいるの」

 ドロシーは女性を支えて歩きながら、目線で後ろを振り返る。

 爆発が起きたあたりでは、うずくまるようにして顔を抑える男性や、意識のない妻を負傷した夫が呼んでいる姿が見える。

 ドロシーのようにけが人の救護にあたる者もいる。ホール内から逃げる人々はほぼいなくなったらしく、爆発のあった場所だけに人が集まっている状況だった。

「わかりました」

 ジェイクはうなずくと、自分から動いて似てようとしている負傷者に近づき、手を貸した。

 ドロシーの姿を目で追いながら、自分に体重を預けてくる負傷者の体を支える。

 遠くから、緊急車両のサイレンが鳴っているのが聞こえる。

 ホールの扉を抜けながら、ジェイクは先を行くドロシーの姿を見つめる。

 高いヒールの靴を脱ぎ裸足になったドロシーは、足の裏から血を流しているようだった。

 ジェイクは四方に目を配った。もしもこれが爆破事件であれば、どこに犯人がいてもおかしくはないし、爆発が先ほどで終わりとも限らない。

 何とか劇場を脱出し、自分が抱えていたけが人を救護スペースに届けると、全身から力が抜けた。

 それはドロシーも同じだったらしく、救護スペースに助けた女性が腰を下ろした途端、彼女自身が膝から崩れ落ちるように座り込んだ。

「ドロシー!」

 ジェイクが焦って叫ぶが、頭から地面に突っ込む前に救急隊員が彼女の体を支えた。

 名前を呼んだジェイクを手招きする救急隊員に、ジェイクは駆け寄った。

「ご家族の方ですか?」

「そうです」

「爆発の近くの席に座っていましたか?」

「爆発は前方で、私たちは後方の席を取っていました」

「意識がないので、このまま救急車両で運びます」

「お願いします。私もついていきます」

「あなたはケガや気分が悪いなどの症状はありませんか?」

「私は爆発時にホールにいなかったので何も問題ありません」

「わかりました」

 救急隊員はうなずくと無線で何かを確認し、ジェイクに身振りで示した。

「ストレッチャーが来ますので、それを使ってください」

「感謝します」

 救急隊員は負傷者の手当てに移り、ジェイクはやってきたストレッチャーにドロシーをそっと乗せた。

「行きます」

「お願いします」

 ストレッチャーに手を置きながら、ジェイクも救急車両に向かう。

 救急車両内に入ると、ジェイクはドロシーにかけた毛布の中でコルセットの締め付けを解いた。

 よほど苦しかったのか、コルセットを緩めると無意識にドロシーの表情が緩む。

 ジェイクは頭を抱えた。

 これほどまでに締め付けてしまっていた自分、こんな劇場に連れてきてしまった自分。

 会場に残っているかもしれない友人たちへの心配よりも、ドロシーへの罪悪感が勝っていた。

「大丈夫ですか」

 突然頭を抱えてうなり始めるジェイクに、付き添いの救急隊員が声をかける。

「私は何も……、なぜこんなことに」

「あなたは何も悪くありませんよ、気持ちを落ち着かせて」

 救急車両は市街地のにぎやかな通りを抜けて、病院にたどり着く。

 ストレッチャーから診察台に動かされたドロシーにはまだ意識はなかったが、触診などで問題はなく、精神的なショックで気を失ったのだろう、と診断された。

 このあわただしい状況の中でこれ以上の診察は望めないと悟ったジェイクは、ドロシーの家のかかりつけ医に診察させようと考え、電話を取り出す。

 そうして初めて、ドロシーの両親に連絡するという重要なことを思い出した。



 結論からいうと、ドロシーの両親はドロシーの婚約を破棄した。

 普通であれば大きなリスクが伴うことだったが、さすが一代で財を成した男ともいうべき父親の手によって、彼らの事業にもドロシーの未来にも影を落とすことはなかった。

「お待たせ、ジェイク」

 古い街並みに近代的な店が並ぶ繁華街で待ち合わせをしていたジェイクは、相手が近寄ってくるのに合わせて腕を出した。

 腕に絡まる細い手は、もちろんドロシーのものだ。

「今日は何をしていたの?」

「仕事ですよ」

「あら、そう」

 つまらなそうに唇を尖らせながら、ドロシーはジェイクの腕に抱き着いた。

 ジェイクはあの事件からドロシーが回復したところで、ドロシーの家の使用人という仕事を辞めた。

 引き留める面々に頭を下げ、「ドロシーを危険な目に合わせたことに違いはない」と住み込みだった家を出ていく。

 その時のジェイクの目に映るドロシーの泣きそうな顔は、いまだに忘れられない。

 しばらくは貯蓄と少しばかりの投資収入で生きていくかと思っていたジェイクのもとに、すぐにドロシーは駆け付けた。

 そのあとは、この通りだ。

「とりあえずは、いつものキャンディを買って」

「この間の分はもう食べたんですか」

「とっくに」

「大丈夫ですか、この辺が」

 ジェイクはドロシーの腰回りをさらりと撫でた。コルセットを付けなくなったドロシーは、以前の体形に順調に戻ってきているようだった。

「いいの、15センチルールはもうなくなったんだから」

「そうですか」

「それとも、ジェイクは私が15センチ細くならないと結婚したくないの?」

 ドロシーが冗談めかして訪ねてくるものだから、ジェイクはその額に唇を落とした。

「そんなことはありませんよ」

「じゃあ問題ないわね」

 ドロシーお気に入りの宝石のような飴玉を買って散歩する速度で歩くと、しばらくして見えてくるのがあの時の劇場だ。

 ドロシーもジェイクも、大きなトラウマを抱くことはなく、落ち着いて劇場を見上げることができる。

 伝統的なこの劇場が一時期は封鎖されたものの、捜査が進むにつれて愛憎の絡んだいたずらのような事件であり、無差別な攻撃ではないとの見解が発表されてからは通常通りの興行を始めていた。

 以前に比べて少しばかりセキュリティの高くなった入口をくぐり、ロビーへ。

 ジェイクに相変わらず話しかけてくるものはいるけれど、ドロシーとの距離の近さに気付かない者はいない。

 チケット通りの席に座った二人は、いつもと変わらない荘厳なホールで繰り広げられる演目に興じる。

 王妃役の女性が舞台に登場したところで、コルセットに押しつぶされた体を見てドロシーが小さくため息をついた。

「結婚式のドレスは、コルセットがいらないものにしたいわね」

 ジェイクはくすりと笑ってうなずいた。

「そうですね」


 



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