第一話 エレヴァルド
さああああ、とベルツヴレイユの森を渡る心地の良い風が髪を揺らしていく。
ラニケルド大陸を北と南に綺麗に二分割するように広がるこの広大な森はその
ままこの大陸にある五つの国の国境としての役割を果たしている。
まず大陸の上半分である北側。
その三分の二を占めているのがおれの生まれた大国エレヴァルドであり、エレ
ヴァルドの西側、残り三分の一に小国ロシュガルトがある。
さらに大陸の下半分である南側にはその二分の一を占める大国シャダロット、
シャダロットの西側の残り二分の一にアズカドーレとルアンレーノと言う小国が二つ存在している。
その二つの大国と三つの小国はそれぞれが和平を結び合い、ここ八百年程は大きな戦は起こっていないという。
……ただ小さな小競り合いはちょくちょく起きているみたいだけど。
「……でも、それもすぐに鎮火するレベルらしいから。そう思うと平和だよね。」
四方八方に大きくうねる様に枝葉を広げた巨樹――≪エテルペレネの樹≫の幹に凭れたまま誰にともなく言えば、まるで返事を返すようにざわざわと枝葉が揺れる。
それに小さく笑うとおれは自らの空色の瞳をすっと細めた。
「…………――あれから、もう十二年かぁ。」
あの日、神様と名乗る美少年に転生させてもらい、この世界『ラニハーフェン』に生まれてから早十二年の月日が流れていた。
あの日の事は前世の記憶も含めておれの中にしっかりと残っている。
でも。
今だからこそ言えるけどあの神様は色々と説明不足過ぎると思う。
何せおぎゃあ、と産声をあげてから今日まで驚きの連続だった。
まず、『ラニハーフェン』という世界ではおれが元いた世界にあったような科学は殆ど存在せず、あっちでは絵空事だった魔法がその代わりと言うように発展している。
建築物や人々の暮らしぶりも現代ではなく、所謂中世ヨーロッパと呼ばれているものに近い感じがする。
何せ武器として主に使われるのが剣と魔法で、主な移動手段に至っては馬だし。
ただ、科学が完全にないのかと言うとそうでもなく、おれの世界にあった『科
学』とはまた違った発展の仕方をした科学――魔法を前提とした科学は存在している。
例えば、エアコンとか洗濯機とか冷蔵庫と言った家電に似たものはあるけどそ
の仕組の部分は科学じゃなく魔法によって成り立っている、みたいな感じ?
つまり、あっちの世界だったら完全にフィクションの小説や漫画、ゲームでよく使われるファンタジーの設定に科学が少し混じった世界が『ラニハーフェン』なのだ。
さらに一口に魔法と言ってもこの世界の魔法は箒に跨って空を飛ぶとか、魔法の杖を使って魔法を使うというものじゃない。
この世界に住む人々は生まれつき属性というものが決まっていて、その属性の魔法――例えばその人の属性が『火』なら、火や炎を操ったりする魔法が使えるというような、ますますファンタジーゲームや漫画の設定を髣髴とさせるものだった。
もっと言えば、おれの生まれた国であるエレヴァルドは、こういう世界観のゲームでは定番のRPGではまさに「魔国」側だ。
最初それに気が付いた時はさすがに驚いたけど、エレヴァルドに魔王という存在はいないし、空が常に赤黒い雲に覆われているわけでも、どこまでごつごつとした荒野が広がる不毛の地なわけでもない。
むしろその逆で、空にはいつも太陽が輝いているし、エレヴァルドでは農業も盛んだ。
国民もRPGで見るオークだとか首から上が豚だとか狼と言う獣人や魔物じゃなくて、人間ばかりだし。
そんなエレヴァルドを「魔国」側だとおれが判断したのには理由があって、一応『ラニハーフェン』で一般的に普及しているのは白魔術と呼ばれるものなんだろうけど、エレヴァルドでは黒魔術と呼ばれるものを使う者が一定多数いる
という事や、それに関連する闇属性や影属性が多いという事、そしてもう一つの大国であるシュダロットではあくまで白魔術が一般的で、光属性が多いなんて話聞けば「ああ、こっちが魔国なんだな」ってなるのは当然だと思う。
ただ、あくまで一般的と言うだけであってシュダロットで黒魔術を使う人も勿論いるとは思うけど。
別に黒魔術も禁止はされていないし。
それに……――。
そこまで考えておれはふと自らの手を見下ろした。
まだ第二次性成長期を迎えていないためだと思いたいけど、ほっそりとした指の色白の手は男の手と言うよりは完全に女性のそれだ。
ちなみにおれの容姿は、生前と全く変わっていない。
もやしでチビなのも相変わらずなら女顔なのも相変わらず。
……むしろさらに女らしい顔立ちになっているとは思いたくない。
ただ、一つだけ変わったところがあって、それが髪の色だった。
あの時まで、おれは確かに黒髪だった。
でも今のおれの髪は、毛先に行くにつれ薄紫色にグラデーションしている杏色。
これは……。
「……あの時の、神様と同じ色。」
それがどういう事なのかは分からない。
自らの髪を一房つまみ小さく息を付くと、不意に近くの茂みががさりと揺れた。
一瞬、ハッと体を強張らせたけど、現れた青年に体の力を抜く。
「……なんだ、驚かさないでよ。ディーア。」
「……『なんだ』ではありません。また従者も付けず、一人で抜け出して。探しましたよ、エオル様。」
若干の呆れを含んだ低くて落ち着いた男らしい声が今のおれの名を呼んだ。
年の頃は二十代後半。
癖のない黒髪のツーブロックの短髪に、細身だけど適度に筋肉が付いている均整の取れた男らしい体と長い手足を包んでいる襟と袖口に装飾が施された薄い青色の服はどこか軍服のようにも見える。
さらに、少しつりあがった切れ長のアイスブルーの瞳に、きりっとした男らしい眉毛、スッと鼻筋の通った高い鼻に薄い唇。
十分過ぎるほど端正な男前の顔立ちのその青年の名前はディーア・ベルンハルト。
おれが最も信頼する相手で、おれの近侍だ。
「……ごめん。だって、ディーアの姿が見えなかったから……。」
幹に凭れたまま軽く謝れば、近付いてきたディーアの眉間に皺が寄る。
「少し所用で貴方のお側を離れていた事は謝罪します。しかし、エオル様。貴方は、仮にもエレヴァルド国の第五王子。もう少しその自覚を持って頂かなければ困ります。」
相変わらず生真面目で清廉潔白な彼の説教に、再びごめんって、と謝れば深く溜息を付かれた。
そう、今のおれの名前はエオル・エレヴァルド。
このエレヴァルド国の第五王子がおれの転生先だった。
『基本の衣食住。これについては一生不自由をしない保証を付ける。』
あの時の神様の言葉とキラキラとした黄金色の蜂蜜が脳裏に蘇る。
……それは疑いようのない程ばっちりと保証されたらしい。
何せ王族だ。国が滅びるか革命が起きない限りちょっとやそっとじゃ没落はしないと思うし。
ふと目の前に立つディーアを盗み見る。
おれとディーアの出会いは、おれが五才の時。
父親であるエレヴァルド国王がおれの近侍として彼を付けてくれたのが始まりだった。
そして。
「初めまして、エオル様。私はディーア・ベルンハルトと申します、今日からお仕えさせて頂くことになりました。これからよろしくお願いします。」
たった五才の子どもに跪き告げたディーアのその女性だったら誰もがコロッと落ちそうな微笑みに、おれはいとも簡単に心を射抜かれた。
……そう、おれの初恋の相手はどこかの王女様でも、貴族のご令嬢でもなく。
このどっからどう見ても男であるディーアだった。
でもそれは出会ったばかりの頃の話。
今、おれがディーアに感じているのは家族愛だとか兄弟愛だとかに初恋の気持ちとか。
そう言う色々なものがごちゃ混ぜになって色々昇華された……何だろう、主従愛?みたいなものだと思う。
…………多分。
「……ディーアにも言わず城を抜け出して、ごめんなさい。反省してます。」
いい加減眉間に皺を寄せ黙り込んだままおれを見下ろす視線に耐え切れず、彼の袖口を軽く摘み改めて謝罪する。
「……その言葉が、この場を切り抜けるためだけのものではない事を願っていますよ。」
「……あはは。」
再び息を付く彼に誤魔化すように笑うと袖口を握るおれの手を包み込むようにしてディーアの手が重ねられ、その慣れた何よりも安心する体温に体に入っていた力が抜けかける。
「……ディーア?」
ただ、おれとディーアは周りからはスキンシップ過剰だの距離感がおかしいだの散々言われるけど、そう頻繁に何の意味もなく手を繋いだりしない。
だからこそ、その意図を図りかねてディーアを見ると仏頂面でいる事が多い彼のアイスブルーの瞳が冷たい光を帯びたのをみてビクリと体を強張らせる。
「………………え?」
「失礼致します、エオル様。」
「えっ……?! うわっ!!? ディ、ディーア!?」
その表情の意味を理解するより早く、握られた手をぐいっと引かれ体勢を崩しかけたおれをディーアが横抱きで抱き上げた。
「ディ、ディーア!!? な、何で!!?」
「探していた、と伝えたはずです。戻りますよ、エオル様。」
「ま、待って!! 俺歩ける!! 自分で歩けるから!」
相手の胸元の服を掴み、足をばたつかせ抗議すればディーアがすぅっと目を眇める。
……あ、ヤバい。これかなり怒ってる。
「……ディ……ディーア?」
「……歩ける、ですか。……エテルペレネの幹に体を預けてようやく立っていられるほど、左足を酷く捻挫しているのにどの口がいうんだ。」
「…………っ」
こういう時ばかり彼本来の口調になるディーアを怨めしく思いながら、おれを抱えたまま歩き出した彼に先程よりも強く彼の胸元の服を握りしめる。
「……いつから、気付いて……」
「初めからだ。むしろ貴方の近衛である俺が気付かないとでも思ったのか? 貴方には回復魔法も治癒魔法も意味がない。自然治癒力と薬草に頼るしかない分、他の人間より回復が遅い事を自覚してくれ」
「……っ、そ、それはそうだけど……。」
気まずさで瞳を逸らし答えればディーノの手に力が篭る。
「――頼むから。一人で城を抜け出すなんて事もうしないでくれ。じゃないと、俺が貴方のお側にいる意味がないだろ?」
「…………ごめんなさい。こんな心配かけるつもりじゃなかったけど、おれが悪かったです。本当にごめん、ディーア。」
さらりと言われた言葉に止めを刺され、降参とばかりにディーアの首へ手を回ししがみつく。
するとようやく表情をふっと緩めたディーアがおれの背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「……と言うお説教は後でするとして。少し急ぎますよ、リヤン様とユオ様がお呼びです。」
「……うーー……。て、兄様達が?」
自分が悪いとはいえ何か納得がいかなくてディーアの首にしがみついたまま唸っていれば一番目と二番目の兄の名を出され、瞳を瞬かせる。
「ええ、私も詳しくは聞いておりませんが、火急の用件だという事です。それと、ラノ・イェーリス様もお見えです。」
「……ラノも? って事は、結構厄介な話かな。……分かった。戻ろう、ディーア」
「――はい」
おれの言葉に頷くとディーアのスピードが少し早くなる。
――ラノ・イェーリス……。
その名とその姿を思い浮かべ、おれはディーアに気が付かれないように小さく息を付いた。
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