ねこのせき
下村コ独
○o。.
じつにふしぎなことです。生まれたての猫がずっとないています。姿はちっとも見えないのに、この耳はちゃんとそうとらえているのです。miaoumiaouとなく声が、濡れた黒をした、ちいさなちいさな仔猫のものであると。
晩ごはんを食べている時も、テレビを見ている時も、お風呂に入っている時も、仔猫はずっとずっとないていました。miaoumiaou、miaoumiaouと同じ間隔で夜闇のなか響く声は、カリカリカリカリとわたしのかたくてやわらかいところを引っ掻きつづけるのです。たまらなくなって、わたしはお母さんに言ったのでした。
「ねこちゃんずっとないてるねえ。いったいどこにいるんだろう」
「探したくなるのもわかるけどね」
そう返されて、思わずむせてしまい、危うく飲んでいた牛乳を吐いてしまうところでした。どうしてか最近からだの調子が悪く、夜が深くなるにつれて咳がひどく出てしまうのです。
お母さんはああ言ってくれたけれど、ほんとうのところわたしはちっともやさしくありませんでした。あの仔猫を拾うどころか、探しに行くことすらしなかったのですから。
かわりに音楽を聴きました。みっつ、あるいはそれ以上重なった音は上手にmiaoumiaouからわたしを隠してくれました。
けれどそこからひとつでも音がいなくなってしまうとあっという間に下手くそになります。バンドの人が悪いということではちがいます。わたしを覆っていたヴェールが玉ねぎの皮のように、たったいち枚、はがれてしまったというだけです。
音と音のあいだにできた隙間に、miaoumiaouは十分すぎる音量で入り込んできました。いったいそのちいさなからだからどうしてそんな大きな声が、それもずっと途切れずに続くのかふしぎでふしぎで仕方がありませんでした。
コンコン、コンコン、とわたしの咳も止まりません。夜はすっかり更けていましたから。
コンコン、miaoumiaou、コンコン、miaoumiaou。わたしの咳を綺麗にすり抜けて、仔猫はなき続けていました。
部屋の灯りを消す瞬間は、とぷん、と音がするかのようです。わたしという物体が、夜闇という名の触媒へすべり落ちる瞬間の音。いち日の終わり、わたしの大好きな時間です。
しかしそれも咳で台無しになってしまいそうです。コンコン、コンコンという乾いた咳は夜闇を不必要な電気信号でチカッチカッ白く光らせているかのようでした。わたしはそれがまぶしくてわずらわしいので止めたくて仕方がなかったのですが、からだの奥底から込み上げる咳はどんなに我慢しても首を限界までふくらますまでで、結局は外へ飛び出してしまうのです。
からだをまるめて、できるだけ音がしないようにつとめていると、またmiaoumiaou、あの仔猫の声が聞こえました。音量ははじめて聞いた時とまったく変わりません。むしろ大きく、回数さえも増えているような気さえします。
miaoumiaouはカメラのフラッシュのように、チカッチカッと夜闇で光ります。その光が白いものだとわかった瞬間、わたしの頭のなかでふと閃いたのです。
「そっか」きっと、ねこちゃんも咳をしているのだ、と。
そう思ったら、ようやく気がついた頬のこわばりがとけていきました。
輪郭がうるおって、さっきまで光っていた咳もぷかぷか浮かぶ泡になっていきます。
ようやくただしい呼吸ができたと安心したら、リボンがほどけるようにするすると眠りにおちていくのを感じました。
ぷかぷか、ぷかぷか。
いまも仔猫はないています。
:ねこのせき 20170622
ねこのせき 下村コ独 @hadashi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます