【はい】と【いいえ】の距離
その日、岡留高校三年四組の担任である
「一通り終わったけれど、採点に間違いがないかちゃんと確認しないとね」
答え合わせの済んだテスト用紙の束を、デスクにトントンと当てて整えた。
「電卓電卓……」
ぶつぶつと呟きながら、花井は自分のデスクの上や引き出しの中をあさる。しかし目当ての物は一向に見つかる気配がなかった。
「そういえば……」
花井は、自分のクラスの教卓に電卓が置いてある事を思い出した。
「ああ、そうだわ。教室に常備されていたわね」
花井は整えたテスト用紙の束を、机の上の明日の分のテスト用紙の横に置くと、職員室を後にして、三年四組の教室へ向かった。
「花井先生、ここに来る途中で葵を見ませんでしたか?」
花井が教室に入るとすぐ、一人で残っていた男子生徒――国分良太が話しかけてきた。
「あら国分良太君。栗田葵さん? 先生は見ていないけれど、何かあったの?」
今年の四月に教師になったばかりの花井は、生徒たちの名前を「ちゃんと覚えるためよ」と言ってフルネームで呼んでいた。その呼び方は、とっくにクラス全員の名前を覚えた今でも変わらなかった。
「それが……実は」
そう言いながら良太が一つの机の上を指さした。そこにはコックリさんに使用するための紙と、その上に置かれた十円玉があった。
「さっき葵と二人でやってたんです。そしたら途中で葵が指を離して、教室を飛び出してしまったんです」
「なるほど、昨日のやつね。正しい方法で終わらせないと良くない事が起こるって言うし、ちょっと心配ね」
昨日の放課後、花井は良太が一人でこの用紙を作っているところを目撃していた。もし生徒がコックリさんを実行しようとしているなんて知ったら、やめさせる教師が大半だろう。実際コックリさんが原因で集団ヒステリーを引き起こしたために、コックリさんを禁止している学校もあるという。しかし花井はそれをしなかった。なぜなら彼女は、良太と葵の二人だけが参加するオカルトサークルの顧問だったからだ。サークルといっても正式なものではなく、ただオカルト好きな教師と生徒が三人集まっただけで、オカルトサークルの存在を知る者は三人以外にいなかった。
「あなたたちなら平常心を保っていられると思ったから止めなかったのだけれど。国分良太君、あなた何か変な事質問したんじゃあないでしょうね?」
核心を突く花井の質問に、良太は何も言い返せなかった。その沈黙が肯定を意味している事を、花井はすぐに理解した。
「とにかく、今は栗田葵さんを探しましょうか」
「はい」
「先生が校内放送で呼び出してみるから、あなたは下駄箱へ行って彼女の靴が残っているか確認してきてちょうだい。それでもしも靴が残っていた場合は、一通り校舎内を探してもらえるかしら?」
「わかりました。先生、ありがとうございます」
「可愛い生徒のためだもの。それより、あなたも注意しなさいね。コックリさんを中断したのなら、あなたにも何かあるかもしれないんだから」
「気を付けます」
二人は教室を後にし、良太は下駄箱へ、花井は校内放送のマイクが設置されている職員室へと向かった。
良太が葵の下駄箱を覗くと、そこにはまだ彼女の靴が残っていて、上履きはしまわれていなかった。つまり今葵は上履きを履いて、この校舎の中のどこかにいるという事になる。良太がそう考えていると、花井の声で校内放送が流れた。
「三年四組、栗田葵さん。三年四組、栗田葵さん。お見えでしたら、職員室の花井のもとまでお越しください」
丁寧な言葉遣いで葵の名前を繰り返す放送を聞きながら、良太は「まるでコックリさんを呼び出す呪文だな」と思った。そんな事を思ったせいか、良太の脳裏に葵とコックリさんをしていた時の情景が浮かんだ。あの時、葵が十円玉から指を離した瞬間、わずかではあるが確かに十円玉が【いいえ】の方に向かって動き出したのを、良太は見ていた。良太は「答えが【はい】だったなら、君は逃げ出さなかったのだろうか」と、頭の中で呟いた。
紙の上では【はい】と【いいえ】の距離はたったの十五センチ。それでも、その二つがもたらす結果はまるで違うものだ。良太はたった十五センチの遠さを痛感していた。
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