第一章5 キザイア・メイスン
「え――」
一瞬、自分が発したと思えないくらい間抜け声が出た。
白い髪と、白く蓄えられた髭、そして翻る白い
「爺さん……?」
押し入れの奥にしまい込んであった菊の紋が編み込まれた陣羽織を羽織り、大太刀を佩いて、光を映さないはずなのに酷く鋭い眼光で、占い師の女を見つめている様に見える。その殺気に思わず強張る。別に、俺に向けられているわけでもないというのに。
それになぜ大太刀を佩いているのか? 一つだけわかるのは、それは爺さんが刀を抜かなければならない事態であるという事だけ。あの大太刀はそれの証左だ。
その威容に固唾を飲んでいると爺さんは藤ノ宮に拳銃を納めさせながら占い師の女にもう一度問う。「何をしている?」と。
「これはこれは
「そんな事を問うてるのではない。私は、貴様が今この場で何をしているのかと問うているのだ災厄の魔女――【キザイア・メイスン】」
「キザイア・メイスン……⁉」
これに声を上げたのは藤ノ宮だった。そのほかは誰一人としてその名の意味を理解してる者はおらず、ひたすらにその光景に息を呑んでいた。
「かの大英雄が大事にしている物を見学しに来ただけだよ、ミスター」
「見学だと? 馬鹿を言うなよ女狐。これは――
瞬間、卓が吹き飛び粗大ごみと化す。それを脅威と感じたのか影法師の男が爺さんに飛びかかるが爺さんは男の顎を打ち据えた上で首を鷲掴んだ。
「喧しいぞ鼠風情が。このまま
指が肉に食い込む程に強く締め上げられる男はギチギチと声ならぬ断末魔をあげて、泡を吹いていた。
「おいおいやめてくれよ英雄殿。それでも大切な使い魔なのだから簡単に殺さないでくれたまえ」
女が薄く笑みを浮かべながら「帰っておいで、ブラウン」と呼ぶと男は真っ黒な水の様に姿を変えて女の影の中に潜んでしまった。影法師のような男だと思ったがよもや本当に影法師になるとは。
「まったく、武人というのはどこの国に行っても血の気が多すぎていけないな」
「子らに二度と近づくな、魔女。次、手を出せば――」
「はいはい、わかったよ。貴方を怒らせると私の身が危ない」
「ならば早々にアーカムへ去れ。私はお前の滞在を許した覚えはない」
「人に物を訪ねておいてこれだよ。やれやれまったく、本当に勝手な御仁だ。所で――」
——あれは君の探し人ではないのかな?
女の指さした先にはまた異国の男がいた。白人だ。灰色の髭を蓄え、細剣の鞘を杖代わりに突いた白人の老爺だ。キザイア・メイスンと呼ばれた女はケタケタと笑いながら霧か何かみたいに音もなく失せ、二人の老人が対峙する。
「――ミーチャ……?」
酷く、喉が渇く。あの露西亜の水の魔術師と立ち会った時みたいに。だけど、あの時みたいに不自然に乾くものじゃない。これは緊張から来るものだ。ああ、そうだ。俺は今、天之尾羽張を手にしながらも動けなくなっていた。あれには勝てない、本能が訴えているのだ。
「――御陵幸史。貴様、殿下の御前で何をしている?」
「それはこちらの
一瞬、意識に空隙が生まれた。おい、今爺さんは何と言ってこの男を呼んだ? ドミトリー・ニコラツェフだと? ふざけるなよ。なんで露西亜の守護者がこの国に入り込んでるんだ⁉
かつてない焦りが天之尾羽張をさらに強く握らせる。
「あまり寝ぼけた事を言ってくれるなよ、ミササギ。殺すぞ」
「どうせお前の事だ。そこな第四皇女を連れ戻しに来たのだろう? だったら好きにするがいい」
「……何?」
「好きにしろと言うておる。三度目は無いぞ」
ドミトリーは少し困惑した様子で俺の背後のアナスタシアに視線を移した。
「帰りますぞ。殿下。斯様な場所、御身には似合いませぬ」
「……嫌」
アナスタシアが俺の服の裾を掴んだ。震えているが彼女から悪感情は感じ取れない。どちらか言えば悪い事をしている最中に親に見つかった、みたいな。微かに罪悪感を帯びている様に思える。だが、こいつが震えている以上、俺はこいつの前から退くわけにはいかない。
「貴様は誰だ?」
ドミトリーが目を細めて、視線を叩き付けてきた。たったそれだけの行為で百度は死んだ、そう思わされた。口が強張って上手く動かない。恐怖、畏怖を感じて、声も出ない。だが、ここで名乗り返さないでいたら負けを認めてしまうみたいで癪だ。
「……っ」
生唾を思い切り飲み込み、剣を握り込んで、
「
「……貴様が殿下を拐かしているのか」
次の瞬間、視界一杯に剣の刃先が広がって、そこで止まる。爺さんが大太刀の切っ先をドミトリーの喉元に突きつけていたからだ。
「何のつもりだミササギ?」
「私が許したのはアナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァを連れていく事だけだ」
何一つとして気取る事ができなかった。ドミトリーの動きも、爺さんの動きも。
俺は何処か奢っていたのかもしれない。第二階梯に、国津神になる事ができたからと自惚れていたのだ。俺はまるで彼らの域に達していない。少し近付いただけで、全く追い付けていない。その背中が、余りにも遠すぎる。
「貴様の不始末であろうが。殿下を拐かす不届き者を殺して何が悪い」
「この子を殺すか。よくもそんな大言を私の前で吐けたものだなニコラツェフ。私がさせると思うか? それに不始末は貴様のであろうがよ。国を守れず、民を守れず、
直後、殺気が交差し、二人の英雄の剣がぶつかり合った。
多分だが、それなりに俺達に配慮した激突だったのだろう。呪力も、祈りも篭らぬ純粋な暴力。だが、単なる圧だけで街路樹は吹き飛び街路灯がへし折れた。
――行かなければ。
我ながらトチ狂った事を考えていると他人事みたいに思った。だが、俺は挑まねばならない。ドミトリー・ニコラツェフの剣は爺さんにではなく俺に突き付けられたものだから。
『待て』
踏み込もうとすると天之尾羽張がそれを制した。
『お前が行ってどうにかなるのか?』
そんな事は知らない。自分のケツは自分で拭くべきだ。少なくとも爺さんに甘えるだけではダメだ。
『ならば言い方を変えよう。行ってお前に何が出来る?
「……、」
そんなことは無い。そう開き直れるほど俺は自惚れていなかった。現人神と国津神に明確な格の違いが存在する様に国津神と天津神との間にも格の違いが存在する。
――曰く、天津神は天津神にしか倒せない。
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