序章5 皇国図書館 三

 またしばし、沈黙の時間があった。アナスタシアは一心不乱に目録を読み込んでいる。少し、離れても大丈夫だろうか? やや逡巡する。


 アナスタシアはこの国で特に何かしようとは考えていない。それはこれまでの出来事でそれは把握している。

 だが一つ気がかりなことがある。恐らくだが、この国の軍部はアナスタシアがこの国にやってきている事を把握している。大佐殿は心配ないと仰っていたが彼女の祈りの希少性と彼女の身分を考えれば上層部は喉から手が出る程欲しい筈。それこそ、外部の人間を使ってでも。


 大佐が一体どうやって軍に釘を刺しているのかは知らないが、軍属でない者にまでその手が及んでいるかはかなり疑問だ。人ならばいくらでもいる。ここは皇都、この国最大の都市だ。家や家族を持たない浮浪者、無法のヤクザ者、ゴロツキ。少し金を握らせればどんなことでもやる人間はゴロゴロといる。


 無論正面からカチコんできたら返り討ちにできる自信はある。俺は何やかんやでこの国に二百人と少ししかいない第二階梯・国津神に至った人間だ。その辺の現人神や呪術師になんか負ける気がしないし、祈りも呪術も使えない銃火器を持っただけの人間は……まぁ、論外だ。その程度には自身の力には自信がある。多少自惚れも入ってるが概ね事実と言ってもいいだろう。俺の首を取るなら同じ国津神か、あるいは天津神でも呼ばなければまず不可能だろう。とは言え、それはあくまでも戦闘に陥った時の話だ。彼女を攫うという一点を突き詰めればその辺の現人神でもできるだろう。例えば、俺が目を離している間に、とか。


 だからこうして離れる事を悩んでしまう。今のところ、殺意や悪意といったものは感じないが、どうしたものか……あんなにも真剣なアナスタシアにかわやに行きたい、と伝えるのは少々憚られるものがある。だからといって元服を済ませた大の男が小便を漏らすのはどうなのか。


「そわそわしてどうしたの?」


 つい勘づかれてしまった。ええい、このまま拘泥していても埒が明かない。


「んんぅっ……、か」

「か?」

「……厠に行きたい」

「か、わや? ……かわやってなんだっけ?」

「えーと、あれだ」


 さっき露西亜語入門で見たぞ何と言ったか……?


「と、とうあれーと……だったか?」

「とうあれーと?」

「露西亜語だ」

「え、ロシア語? とうあれーと……トウアレート……? あっ!?」

 アナスタシアは何かに気づいたようで小さく声を上げて、酷く赤面して右手で口元を覆いながら、


туалетトゥアレートゥ……? ご、御不浄……?」


 御不浄はわかるのに厠はわからないのか? そう思いつつも俺は高速で首を縦に動かす。


「なんで我慢してるのよ……」


 彼女はため息を吐きながら「ああもう、首取れちゃうからやめなさい」と言って、


「行ってきていいよ」

「そういう、訳にはいかない。俺は、お前から離れられん」

「……そういう事か。もう、貴方は時々言葉が足りないわ」


 彼女はもう一度改めて大きく、溜め息を吐いた。酷く呆れた顔をしながら本を閉じて立ち上がると俺の手を取って厠がある方に向かって行く。


「私の男がお漏らしなんて嫌よ」


 お漏らし言うなお漏らし。俺はそんな言葉が似合うほどガキじゃねえ。せめて放尿か立小便とでも言ってくれ。


「私の男という自覚があるのならいつでも最高の男であるという自覚を持って頂戴」

「いつだって強くあろうとは考えているが、最高の男……? とはどういうものなのだ?」

「大体変わらないけど……まぁ、そうね、有体に言えば超最高にかっこいい男であり続けろ、ってとこかな」

「超最高にかっこいい男、か」


 よくわからない思考だ。異国同士の人間で考え方の違いがある。それに、そもそも男と女ではかっこいいと思うものが違う。

 女が思う、かっこいいというものは姉ちゃんを見ていると見てくれに依存しているように思う。それを思うと、少し自信が無くなってくる。宗一や光喜という見栄えのいい男たちが周りにいると尚のこと余計に。


 そのまま俺は厠に向かう。流石は国立図書館というだけあって内装が豪奢だ。それに便器も神経質なくらい磨かれており、汚れ一つついていない。どうやって汚れを落としているのだろうか? ちょっと教えてもらいたい。めちゃくちゃ頑固なんだよ、あの黄色い染み。


 厠を済ませ、ちゃっちゃか手を洗って厠を出る。廊下の前には腕を組んだアナスタシアが仁王立ちをして待っていた。なんでそんな力強い目つきで待っているんだこの女は。そんな調子でそんな場所に突っ立っていたら他の利用者が使えないだろう。


「ひぃっ――」


 初老くらいの老紳士が間抜けな声を上げて行ってしまった。かわいそうに。


「余り離れる訳にはいかないが、そんな顔で仁王立ちしていたら大の男も厠に入れないぞ」

「こんな可憐な美少女を前に足踏みする方がおかしいの」


 普通自分で言うか? それ。まぁ概ね同意するが。


「それと、私も行くから」

「どこにだ?」

「……ふぅんっ!!」


 ごりっ、と決して人体が鳴らしてはいけない音が弁慶の泣き所から鳴り響いた。最早声も出せず、悶絶しているとアナスタシアが花を咲かせたみたいに、それでいて背筋が凍り付く様な笑顔で、


「そ こ で ま っ て な さ い」


 そう言い残して女子便所に入っていった。ああ、なるほど。これは俺の落ち度だ。うん。皇女殿下が自分の男に花を摘みに行く、なんて言えるわけないな。


 とは言え、脛にひび入れる程強く蹴り飛ばす事もないだろうに。このくらいならしばらくすれば治るがもう少し加減してほしい所だ。


「ひぃっ――」


 うずくまっていると小さな悲鳴が聞こえてくる。見上げるとやけに青白い顔をしたご婦人が何やら酷く怯え切った様子で膝を振わせていた。俺の後ろに何かいるのかと振り返るがそこにはのっぺりとした大理石の壁のみ。ご婦人は一体何を見て震えていたのか問おうと思ったが彼女は逃げる様に走り去っていってしまった。


「——そんな顔で御不浄の前にいたら入れるものも入れないと思うけど?」


 小首を傾げていると厠から戻ってきたアナスタシアがどこか勝ち誇った様子で俺を見下ろしてきた。成る程、そういう事か、全く。酷い意趣返しもあったもんだ。


「加減しろ、馬鹿」

「私の男はそんなものものともしない程度には強いと思ったのだけど?」


 ……言うじゃないか、アナスタシア。この皇女様おひめさまは、男をその気にさせるのが本当に巧い。ちょっと、顔がニヤけそうになったぞ。本当に、ズルい女め。


 ずきずきと痛むむこうずねを庇いつつ席に戻る。その合間に新たに二、三冊本を拝借する。主に剣の流派についての書籍。露西亜語入門もいい加減読み飽きたのだ。いや、露西亜語のいろはの“い”すらまともに把握してはいないが。


 借りてきたのは薬丸自顕流とタイ捨流の指南書。

 爺さんの剣術に流派は存在しない。ただの我流であると言っていた。その為、あそこの道場に通っていた門下生達は己にあった、流派の存在しない剣の型を教え込まれる。とは言え、その剣の型は爺さんが一から作ったものはほぼなく、ほとんどは原型が存在する。爺さん曰く、俺に教え込んだ剣の型は薬丸自顕流とタイ捨流の良いとこ取りだそうだ。


 何が何でも己が一刀で切り捨てる自顕、相手に勝つためなら目潰しと関節技と何でもありのタイ捨。俺の剣の理念そのものとも言える二つの流派。

 今回その二つの流派について書かれた書籍を手にしたのはそういう事もあっての事だ。“技量第一、体は基本”とは爺さんの言葉であるが知識としてきちんと抑えておくのも大切だ。

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