序章4 皇国図書館 二



「それなら、悠雅は悪なの?」

「悪だよ」


 躊躇は無い。この身、軍人として、戦士として生きていく覚悟を決めた時から俺は悪であると受け入れている。それにそもそも、母の胎を裂いて生まれた鬼の子が、


「……私は、違うと思う」

「どう違う?」

「人間を一口で善悪に分けるのは不可能だと思う。悠雅には悪性があるのかもしれないけど、絶対に善性だってあるもの。でなければ、私は今ここに立っていない」

「…………胸に留めおくよ」


 確かに、人という種を善悪だけで分けるのは不可能だ。俺の目標としてる爺さんも、戊辰、日清、日露と沢山の人間を殺してきたと言っていたが、俺は爺さんを悪人だと思っていない。彼女が俺を肯定するのはこの部分なんだろう。


 陰陽思想という物がある。これは陰と陽が互いにある事で成り立つという思想。悪も善もあって初めて人と足り得るのだ。爺さんの事を悪であると同時に善性を感じているのも、俺が己を悪性と捉えていてアナスタシアが俺を善性と捉えているのも同じだ。両方あって、多分、自分なんだろう。


「アナスタシアの家族はどうなんだ?」


 問い返すと彼女はやや項垂れて、しじまに暮れた。

 ……これはまだ聞かないほうが良かったか。彼女は俺と違って傷が癒えていない。それどころか、その傷を抱えながら彷徨ってる。その傷を自分で癒すんじゃなくて他の何かで埋め合わせようとしている。そうでなきゃ、自分が自分でなくなってしまうから。


 酷な事を聞いてしまった、と僅かに歯噛みしてその話題を切り上げようとしたその直前。


「――私は、」


 アナスタシアは自分自身で沈黙を破った。


「……私の家族は、普通の家族だった、と思う。皇帝ツァーリの家族を普通と呼ぶのかはわからないけど」


 そう前置きした彼女は訥々とつとつと語り出す。


「お忙しいご公務の合間に趣味を兼ねて家族写真を沢山撮ってくれた、厳格ながらも優しいお父様」


 最後の皇帝ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ。ニコライ二世。


癇癪かんしゃく持ちですぐ怒るけど誰よりも優しくて、家族思いで、風邪をひいた時はラズベリージャムのロシアンティーをいれてくれたお母様」


 皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ。


「いつもお母様と喧嘩していて怖かったけど幼かった妹弟たちに勉強を教えてくれた賢いオリーチカ姉様」


 第一皇女オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ。


「姉妹の中で一番美しく、料理や洗濯といった家事にお裁縫が得意で幼い私達の面倒を見てくれ、私の憧れだったターニャ姉様」


 第二皇女タチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ。


「ターニャ姉様と並び称されて美しいと言われ、私に恋という感情を教えてくれたマリー姉様」


 第三皇女マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ、


「そして、生まれた時から病を患い、体の弱かった弟。強い男に、強い兵士に憧憬を抱き、また己もそうならんとひたむきに努力していた弟――アリョーシャ」


 最後の皇位継承者。皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフ。


 嘗て歴史の教科書で聞いた苛烈なる極北の大帝――北法露西亜帝国ほくほうろしあていこくを治めたロマノフ家。彼らの真実は教科書で習ったものとは全く違う印象で、話を聞いてる分はただの普通の家族だったとさえ思える。皇帝でさえ無ければ、きっと普通に今も幸せに生きていたのでは、なんてそんな事を考える。


 世間では皇帝であるニコライ二世のみが処刑されたことになっている。しかし、アナスタシアの話を信じるなら、彼女たちは既に殺害されているのだろう。この一家は英国や独逸ドイツの王室とつながりが深いからな。革命家たちも外に必要以上敵を作りたくなかったのだろう。


 とはいえ、やり口の薄汚さに憤りを覚える。革命とは得てしてそういう物なのかもしれないが、それにしたって卑怯に過ぎる。



「他にもね、秘書や召使い、コック。私達の生活を支えてくれてた人達もいたの。だけど、みんな殺された」


 今にも唇を食いちぎらんとする程に、彼女は打ち震えながら、


「私は、皆が処刑されてる間、ヴァチカンでぬくぬくとお茶を啜ってたの。癒しの力を持ってるからって、聖女だからって、そして……そうして、みんなが殺された事を後から知らされたの。私は、私がおぞましくてたまらない。どうして、みんなと一緒に死ぬ事ができなかったのかって――」


 彼女はそこまで言って、そして、言葉を詰まらせた。俺はそんな彼女を抱きしめることしかできなかった。革命が起きる遠因を作った国の人間が彼女を慰める事を彼女の父親や家族達は決して受け入れる事はできないだろうが、それでも俺は彼女を抱きしめた。だって、彼女がこんなにも震えているから。


 やがて彼女は袖口で乱暴に目元を拭うと俺にその顔を見せないように数十冊の分厚い百科事典のような本を抱え席に着いた。




「あ」


 ――しばらく彼女の隣で調べ物が終わるのを待っていた時だった。露西亜語入門と書かれた本をパラパラと捲っていると傍らに座る彼女が小さく呻いた。

 彼女の開いている頁には二振りの古ぼけた剣の絵の写しが描かれており、その脇には天之尾羽張あめのおはばりと書かれていた。


「これ、悠雅の剣よね? アメノオハバリ。この日本列島を作った神様の剣なのね。そんな大昔の物が現存してるなんてロマンを感じちゃうわ」

「露西亜にはないのか?」

「うーん、こういうのはあんまり残ってないかも。キリスト教圏の拡大に伴った戦争に負けちゃったスラヴ民族は殆どの聖遺物を壊されちゃったから」


 成程な、民族を支配するにはその民族の常識を破壊しなきゃいけない。復興や反逆の象徴になりかねない神器は真っ先に叩き折られた訳だ。そして、恐らく現人神達も。


 恐ろしいな。しかし、それもまた人の歴史か。


「悠雅の持ってる天之尾羽張って一本だけよね?」

「そうだけど?」

「この本にはアメノオハバリ二本あるみたいなんだけど?」

「馬鹿な」


 吐き捨てつつと本を寄せると確かに二刀一対という記述がある。天之尾羽張が二振り? 聞いたことないぞ。それにこの挿絵、天之尾羽張と並べられてるのって逢魔ヶ刻を開く為に使うあの祠の魔剣じゃないか。


「どういう事だ?」


 もちろんそれは虚空に唱えたものでは無い。明確に己の左手に眠る天之尾羽張本人に問うたものだ。


『私は認めん。あんなものと私が対だと? 絶対に私は認めない。天之尾羽張は私だけで完成しているのだ。やつの出る幕などない』


 アマ公は酷く憤慨した様子だ。この口振りだとあの魔剣について何か知っているようだがこれ以上問い詰めるとへそを曲げそうなのでこの話を振るのはここでやめておくことにする。


 こいつ一本でも過剰とも言えるくらいの戦力だし、第一困っていない。


『それでいい。お前はあれを使おうと思うな』

「お、おう……」


 いつになく感情的なアマ公に念押され、俺はしどろもどろに応じる。

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