序章『影二つ。轍一つ』
序章1 名
師走に入る前、ようやく両親の墓に顔を出す事が出来た。父の正確な命日はわかっていないため母の命日に合わせて毎年参っていたのだが、ここ数日のごたごたで随分過ぎてしまった。ひさしぶりに訪れた両親の墓にはしんしんと降る雪がもりもりと積もっていた。花瓶にはしおれた花が飾られており、数日前に誰かが参ったような跡がある。恐らく姉ちゃんか、それか爺さんがやってくれたのだろう。墓石も綺麗なものだし簡単に雪を退けるだけで済んだ。とは言え、せっかく新しい花を買ってきたのだし変えるとしよう。後は、母さんの好きだった大福と父さんが愛飲していた大吟醸を供える。最後に線香に火を――っと、卒塔婆を取り換え忘れる所だった。
「それ、何が書いてあるの?」
わざわざ俺を手伝うと言って着いてきてくれたアナスタシアが手に持った卒塔婆を指して問う。
「父さんと母さんの
「いみな……真名だっけ? ふぅん、なんか汚い書き方するのね? あのお坊様は」
「別に汚く書いてる訳じゃ無いんだぞ? 草書っていう昔の字の書き方なんだ。俺らの世代で書ける奴は少ないけど爺さんとかは書ける」
そう、だから時折書置きとかあっても読めないからすれ違いが起きることがままあった。“秋刀魚が食べたい”と書かれていた時に鍋を作ったら凄いヘソを曲げてくれやがったのは記憶に新しい。あの時は大戦争になったっけ、爺さんが稽古中に八つ当たり交じりに本気で殴ってきたり、俺が三時のおやつを抜きにしたり。最終的に見るに見かねた姉ちゃんが喧嘩両成敗して事なきを得たのだ。
「日本語って難しい……あ、でも裏に書いてあるのはちょっと読めるかも。悠雅の諱ね、深凪悠雅鍵時。でも、その上の字は何て読むの?」
「あー、
「…………なっっっっっがい」
随分と溜めたな。まぁ、わからんでもない。
俺も最初は覚えられなかった、なんてへらへら笑いながらあの頃の事を振り返る。爺さんに引き取られた頃、爺さんがわざわざ役所で確認してきてくれたのだが、何回教えてもらっても覚えられなくて書道用紙一杯に己の名前を書き殴り続けたのを今でも覚えている。
「私の名前の方がまだ可愛いものじゃない。アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ」
「そうだな、お前の名前は愛らしいし響きも綺麗――って痛っ、ちょっ、やめっ、ごほぁっ」
なぜか思い切り脇腹を殴られた。それも四発も。いきなり何をするんだこの女は?
「そういう事、不意打ちで言うな……バカ」
「————、」
一瞬、我を忘れて抱きしめる所だった。ああ、よく耐えたぞ、俺。外でそんな事をしたら後で素面に戻った時に絶対に死にたくなるし末代の恥になってしまう。
今更だが、本当に俺は病気になってしまったようだ。アナスタシアの一挙手一投足に一喜一憂して、寝ても覚めても彼女の事ばかりを考えてしまっている。こっぱずかしい。恥を知るべきだ。常時頭の中が春真っ盛りな男にどうして国を守る剣が務まろうか。そうだ、寮に戻ったら宗一と稽古をしよう。ひたすら無心に剣を振るい続ければ春も多少は過ぎ去ってくれるはずだ。
「それにしてもこんなに名前が長いと他の人と名前が被ることなくて良いわ。自分だけのものって感じがしてとても素敵よ」
「アナスタシアのとこは違うのか?」
「ええ」
そう彼女は肯定して、露西亜では同じ名前の人が沢山いることを教えてくれた。どうにも露西亜では新しい名前を作る文化があまり無いらしく古くからある名前をずっとそのまま使い回しているのだそうだ。かく言う彼女自身もそうで自分の名前は聖女大アナスタシアという聖女から取っていると言った。以前まで宮殿でともに暮らしていた親戚の中には同姓同名の人間までいたそうだ。
「同じ名前の人間が近くにいたら呼ぶ時困る気がするけど?」
「私の国はその分の愛称が多いから」
「愛称? あだ名みたいなものか?」
「そう、私の名前ならナスターシャとかナスーチャ、ターシャが一般的。だけど、そもそもアナスタシアって名前の人って結構多いから愛称も被ってしまうのよね」
ちょっと苦く笑って零すアナスタシア。外つ国ではたった一つだけの己の名前は余り尊ばれないのだろうか? 理由が全くわからないでもない。明治からこの国でも始まった戸籍という国による個人情報の管理は軌道に乗るまでおよそ三十年以上かかったと言われてるが、その原因の一つとして名前の多彩さが上がった事がある。ひらがな、カタカナ、漢字の音読み訓読みに氏、
だが、それは名前を本当に、ただの記号として捉えている気がして俺としてはどうにもむず痒い思いがする。
「日本人的には余り受け入れにくい?」
「そういう訳じゃないんだが……」
文化の差なんだ。国ごとに重んじるものや感じ入るものが違うだけ。それを否定する訳ではない、しかし、自分の大切な人はたった一人しかいないのだ、という思いがある。結局の所、自分本位の思い。これを彼女に押し付けるわけにはいかない。そう思っていると、
「だったらさ、悠雅が名前をつけてくれる?」
「お前は何を言っているんだ?」
親から授かった名を軽々しく変えるなんて俺にはできない。名前というものには意味が存在する。親がこうなって欲しい、こう育って欲しいと願いを込めて付けられるものだ。俺の
俺がそう思っているのを知ってか知らずか彼女はこう口にする。
「あだ名なんて親しい人同士間で付けるものでしょう?」
……なんだそういう意味か。早合点していた己を恥じ入りつつアナスタシアを見損ないかけた己を切り刻んでやりたくなる衝動にかられた。
このアナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァという女はそんな女では無いだろう。少し考えれば分かることではないか。なのに俺は――。
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