第二章9 騒々しい昼餉 一
しばらく珈琲の香りを楽しみつつ、その苦味と格闘していると先の女給が真っ白な平皿を手にこちらに近付いてくる姿が見えた。今度が本当に給仕らしい仕事をしている様だ。
「お待たせしました」
との一言と共にテーブルに一皿が鎮座する。
先ず強烈に鼻を刺す胡椒の匂いがあった。視界には卵。温泉卵みたいに卵白だけ薄く火が通っているのみたいだ。その下には白いドロドロとした液体がある。これは何だろうか? 恐る恐るフォークで掬って、ひと舐めしてみる。薄い塩味と乳製品特有の深いコク。
美味い……、気がついたらそう呻いていた。およそ日本食には生み出せない類の味だった。更に俺はフォークで探索を続ける。
白い液体の下から顔を出したのは厚切りのパン、それも二枚。普段目にするものと違い、やや焦げ茶色をしている。麦が違うのか? それとも何か混ぜているのか? よくわからない。バターの香りがする事からパンをバターで焼いたのだろうということは推測できる。二枚のパンの間にはカリカリに焼いたこれまた厚切りの豚の
口の中が唾液で満たされつつある中、女中が一言、
「この卵はあたしからのサービスなんだけど、問題あった?」
「いや無い」
即答するしか無かった。この光景を見ろよ、絶対に卵がある方が良いに決まってる。
「さっきまでの仏頂面と違って面白い顔してますね」
そんな感想どうだって良い。俺は返事する事すら忘れて、ナイフで黄身を割る。すると黄金の湖が生まれ、流れ出す。そのままパンと燻製肉、チーズをナイフで切り取る。とろりとした黄身と白い液体、チーズがパンと燻製肉に絡み付いて。
そこからもう、思考は止まっていた。無我夢中でナイフとフォークを動かしていた。
「品が無い食べ方ですねえ」
ほっとけ。というかいつまで隣にいるつもり何だ? またチップをせびるつもりか? がめつい奴め。
「このクロックムッシュって料理、
「へぇ」
意外だった。仏蘭西料理と言えばもっと洒落てお高く気取ったものだと思っていたが、これは取っ付きやすい。
「この白い液体は何だ?」
「え? 確か……べ、べしゃめるそーす? って言ってました」
「この黒いパンは?」
「えっと……らい麦パン? だったかな? 北欧とか
ふむ、ライ麦パンか。聞いたことないパンだ。僅かに感じる酸味がチーズと燻製肉のこってりとした味を良い塩梅にしてくれているがこの酸味はそのライ麦パンなるものが起因しているのだろう。一度そのままの状態で食してみたいところだ。
「お料理好きなんですか?」
「好きというかやらなきゃいけない事だからな。作れる種類が多いに越したことは無いだろう」
「やらなきゃいけないっていう使命感に駆られてるようには見えませんけどねぇ」
「どうだって良いでしょう? 」
「どうせならお料理を仕事にすればいいのに」
呟くように意見して来るが、正直大きなお世話だ。俺にとっては軍人である事はとても大事な事なのだから。
「それよりさっきたんまりチップを渡したじゃないですか。違うテーブルに行ってくれないですかね」
「もう一回は流石に貰えなかったかー」
「欲望がダダ漏れ過ぎる。少しは慎んだ方が良いですよ。品が無いです」
ここぞとばかりに意趣返しをしてやる。他人を呪わば穴二つ、だ。
「そういえばお客さん知ってます?」
話を逸らしやがった。さてはこいつ諦めてないな? 早く離れてくれよ、なんて思いつつも「何をですか?」と返してやると女給は嬉嬉として語り出した。早くこの席から離れてくれないものだろうか? 落ち着かないんだよ。
「軍人殺しですよ軍人殺し」
「ああ? 何だそりゃ?」
「皇国軍人を次から次へと殺し回ってる集団がいるらしいんですよ」
本当に何だそりゃあ? 聞いたことないぞ。普通そんな事があったら軍部が黙っていない筈だ。隊を編成して大規模な報復に出る筈。仮に報復が無かったとしても注意勧告を出すくらいするだろう。拠って俺の結論は、
「デマですね」
「バッサリいきますね」
「聞いたこと無いし注意勧告も受けてないですしね」
うん、そんな事よりクロックムッシュ美味い。日本食の淡白な味わいとは真逆の圧倒的に濃厚な味わい。これは日本人では生み出せない味だ。開国万歳。文明開花万歳。
「まるで信じちゃいないですね。私よりクロックムッシュですか!? 花より団子ですか!?」
「せめて信憑性のある材料を揃えてから言って下さいよ」
何やら忌々しげに視線を送り続けている女給は懐から一枚の紙を差し出してきた。そこには皇都新聞・記者【
「へぇ」
なるほどな、読めてきた。詰まりこの女は給仕としてではなく記者として俺に粘着している訳か。ネタ探しに、軍人である俺に。
「私、余り大きな声で言えないけど皇都新聞で記者をやっているの」
「何でまた記者さんが喫茶店で働いてるんで?」
「そりゃもちろん情報収集の為よ」
彼女は上機嫌に鼻を伸ばしながら、
「こういう所に情報って集まるから、ここに居ても怪しまれない人間――詰まり、美人な私が潜入調査に選ばれた訳よ!!」
腰に手を当てつつ結構な声量でとんでもない事を宣っている。潜入調査と言った手前、悪目立ちするのはどうかと思う次第。
これはひょっとしたら単に厄介払いされただけではないだろうか? なんて考えが過ぎったがこれは言わないでおこう。
「――で? 信憑性のある材料は?」
「私、記者!!」
「石炭食べます?」
「喧嘩売ってますよね?」
「主語を言わない篠ノ之さんが悪いのでは?」
「キィー!!」
まるで汽笛みたいに奇声をあげて大噴火寸前の篠ノ之女史。何だやっぱり蒸気機関車じゃないかという
ああ、そんな事よりクロックムッシュがもう半分しかない。辛い。
「記者という立場が何よりの材料になりませんか?」
寝言は寝てなきゃ言えない筈なんだがなぁ。どうにもこの女は目を開いたまま寝ているらしい。
「せめて証拠になりそうな物とか、写真とか無いんですか?」
「あったけど……取られたわ」
テーブルに突っ伏して呻く。哀れだとは思うが一応軍人と記者の関係である前に客と店員っていう関係何だからシャキッとしてほしい。ほら、奥のシェフが凄い顔してこっち見てる。まぁ、俺にとっては知った事ではないので伝えるつもりは無いが。
「誰に取られたんで?」
「編集長。何か、上から、というか会社自体に圧力掛かったみたい」
「どこから?」
「皇国軍」
なんだ? 一気にきな臭くなってきたぞ。
彼女の言うことを信じるなら軍の上層部は身内から犠牲者が出ているにも関わらず事件を隠蔽しようとしているのか? 解せない。隠蔽する理由って何だ? さっぱりわからない。ただ、一つだけわかったことがある。
「その話を俺に話したって事は俺にその事を調べてくれって遠回しに言ってるってことで良いんですかね?」
「話が早くて助かるわ!!」
「無理ですね」
「そこは早くなくて良いの!!」
彼女はテーブルを叩きかねない程に憤慨しているがどうにもならないことだってあるということを学んでいただきたい所だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます