第2話 彩智

「亀が背泳ぎしてたのを見てた」


 自分から旅行に行こうと誘って来たにも関わらず、用意もせずに散歩に出かけ、やっと帰って来たと思ったらくだらない言い訳をする圭司。

 密かに楽しみにしていたのに、それに水を差された気分で面白くない。


 わたしは面白くもないテレビに目を遣り、こちらに聞こえないとでも思っているのか小さなため息を吐く彼から目を逸らす。

 

 付き合いだしてもう8年になる。通っていた塾で帰り道が一緒だった事がきっかけだった、志望大学の話やお互いの高校の話などで盛り上がった。それは受験という現実が迫る重荷から抜け出れるほんの細やかな時間。家族や学校で否応なく突き付けられ疲弊する毎日の中の僅かな救いだったのは間違いない。

 その頃彩智にはクラスに好きな男がいた、肉体関係も何もないただ一緒に学校から帰ったり電話したり手を繋いだりするだけのプラトニックな交際。その彼が突然受験をしないと言い出したのは夏休みに入る直前だった、たった一言「面倒くさいし、どうしても行きたいわけじゃない」と言い訳を吐いた。彩智にとってそれは許せる事ではなかった、心を許せる男でもあり、受験という強敵に立ち向かう戦友の裏切り。そんな時に圭司に告白されたのだ、「一緒に受験を頑張ろう」という癒しの言葉と共に。特に好きだという感情があった訳ではない、裏切られた心の穴に注ぎ込まれる共闘という甘美な言葉、それに飲まれただけだった。

 荒波を乗り越える為に同じ船に乗った搭乗員、たったそれだけの関係と思っていた。だが圭司が同じ大学を志望し、共に合格した事に因って意味合いが少しづつ変わっていった。クラスでも受験から解放された者が多々出始めた頃、卒業旅行の話が持ち上がっていた。クラス内にいる好きだった、いや未だに心の多くを占める彼も行く事に声を上げていた。そんな彼がまた許せないと思えた、『逃げたくせに』そんな思いがふつふつと沸き上がったのだ。いつしかそれは『わたしと受験から逃げた卑怯者』へと変貌し恨みにも似た物へなっていった。そこでその一方的な恨みを晴らす為に圭司を利用した、「同じ大学に行く彼氏と2人で卒業旅行したいからわたしは一緒に行けない」という言葉を以って。好きな男が苦痛に顔を歪める姿を見て、ほんの少し心が痛んだ気がしたが、『わたしは彼氏に逃げられた被害者』との思いで誤魔化した。そして圭司に2人だけの卒業旅行を提案し共に出かけ、お互いぎこちない行為ではあったが、その夜初めてを失った。

 上京する際、たった一度の性経験に因って箍が外れた圭司が同棲を希望してきたが「両親が反対している、どうしてもというならば大学に行かせないと言われている」と相談もしていない親を持ち出し断った。結局それぞれにアパートを決めたのだが、結果たった2駅しか離れていない場所とわかったのが誤算だったのだが。確かに彩智にとっても初体験は大切なものだったが、何よりも荒波から解放された今、圭司にこだわる必要性を感じていなかった。ただの搭乗員仲間は港につけばそれぞれ違う家に帰るだけ、そんなつもりでいたのだ。

 だが実際に上京してみると、また状況が変わった。都会に放り出され心細い毎日、なかなか出来ない友人、その寂しさからお互いの部屋を行き来するようになった、そして当然のように身体を合わせる事となる。早熟な同級生や知り合いから色々な話は聞いていたものの、経験は一切なかった彩智にとってセックスは楽しい物ではなかった。ただ寂しさを埋めるだけ、求められる事への満足感を得る為だった。いつまで経ってもぎこちなく、やや乱暴な圭司の行為。それは犯されているかのような被害者的心情と、一途に自分だけを求めてくる圭司への情が生れた。

 ただそれもお互いの学校生活が豊かになるに連れ、身体を合わせる回数は減っていく事となった。

 残ったのは歪んだ愛情だけ。

 就職してしばらく経つと、また心細い時期が訪れた。それは圭司も同じだったようで、気が付くと彩智の部屋に圭司の荷物が増えてゆき、いつしか出社も帰宅もするようになり、いつの間にか自らの部屋を解約してきた彼と共に同棲生活を始めるようになり、現在いまに至る。


「何なんだよ」

「何か言った?」

「いや、何でもない」


 突然背後から声が聞こえ、意識を現実へと戻す。問い返えしたが返答はなかった。確かに何か言ったはずなのに誤魔化す圭司に少々苛立ちを感じる。それなのに、テレビの内容について聞いてくるなんて……

 テレビでは芸能人が結婚しただの、新しい彼氏出現など盛り上がっている、いつものものだ。

 ――――結婚か。このまま時を重ねればきっと圭司と結婚するのだろう、普通の式を挙げて。お互いの両親公認の仲であるし、帰郷した際にはいつ結婚するのかなどと、まるで決定している未来のように急かされる。圭司は相変わらず一途に思っていてくれるようだし、きっとそうした方が幸せに見えるのだろう、わたしが演じる事さえ出来たなら。正直もう愛情さえない気がしている、そもそも愛していた事があるのかさえ疑問だ。ただ流されるままに生きてきて、今に至っているんじゃないかと彩智は思い始めていた。


 圭司に用意を急かしつつ、先日1人帰郷し同窓会に出席した事を思い出す。クラスで机に座りわいわいと話したいた夢通りの職に就く者、怠惰な生活故に未だ学生の者、すでに結婚して腹を大きく膨らませている者や、愛おしそうに子と手を繋いでいる写真を見せる者、まだ20代半ばだというのに大きく髪を後退させている者など、久々に会った友人たちは彩智には皆一様に輝いて見えた。お互いの近況を話しつつ会話に華を咲かせる。わたしの現況を話すと皆が驚き囃し立てた、ラブラブだとか、一途だとか。圭司は少々時間にルーズなところがあるぐらいで、他に大きな問題を起こさない、定時に出社し毎日同じ時間に帰宅、浮気やギャンブルもしないし、至って真面目で一途なのだ。周りから見ればそれは好条件なのだろう、口を揃ええて「羨ましい彼氏」だと繰り返される。友人たちに話を振れば、「浮気性の彼氏」「ギャンブル好き」「借金癖」「定職に就かない」など色々な悩みを抱えていた。彼女たちにとってそれは大きな問題なのだろう、だが彩智には羨ましいという気持ちが渦巻いた。それはで居れる――悲劇のヒロインになりえる条件のように思えてならないのだ。「刺激的で羨ましいよ」と声を掛けると、「毎日が満ち足りているからそんな風に思えるんだよ」と反論され、小さく「そうかな」と返すに留めたが羨望の想いは消えなかった。

 会も終盤になる頃、当時付き合っていた、と目が合った。小さく挨拶をし互いにあれからの出来事を話す。彼はあの言葉通りに地元で就職したそうだ、そして現在は独立し小さな飲食店を数件経営しているらしい。毎日会社に行って指示される通りに勤める彩智にとってそれはすごい事と思えた。周りに居た独身の元クラスメイトはなぜか盛り上がっていたが、彩智はまったく羨ましさや魅力は感じなかった。そんな時彼の友人から「こいつすでにバツ2なんだぜ、しかも全部こいつの浮気で」と笑うような声があがった。――ああ、やはり彼はであったのだ――を覚えた、どこかでわたしが一方的に捨てたである気がしていたのだ。経営者である事に目の色を変えていた者達は、事故物件だと知ると蜘蛛の子を散らすように去り、それを彼は少々恥ずかしそうに笑いながら頭を掻いていた。

 しばらくすると主催者より終了の挨拶があった、周りはこのまま帰宅する者、更に飲みに行く者、お茶をする者など思い思いに集まって話していた。彩智はどうしようかと仲のよい友人たちを探していると、隣に居た彼から声が掛かった「飲みに行かないか」と。まだ予定がなかった為に了承を返し、2人で近くのバーに寄り飲み直す事となった。そこでの会話は大して面白い物ではなかった、ほぼ全般に渡って会社を経営する俺自慢だった、きっとこれは彼なりの口説く文句なのだろう。彩智が飽きと物足りなさを感じた頃、店を出る事となった。話しの中で携帯に映る若くて可愛い彼女の写真を自慢そうに見せていたくせに、彼はまるで当然のようにホテルへ行く事を提案してきた。それは同じ立場だとでも言いたかったのだろう。だが彩智は「彼氏がいるから、わたしは裏切りたくないから」と断った、自ら加害者にはなりたくないとの思いから。すると彼はすぐに引き下がり、彩智にタクシー代と称して少々の金を渡すと足早にその場から去って行った。――――強引に――――無理矢理に連れ込まれたら、きっとわたしは付いていったのに、そんな想いを抱きつつ彼の背を眺めていた。


 ようやく用意が出来た圭司と共に自家用車に乗り込み、山間の温泉旅館に向かう事となった。G.Wを喧騒とした都会から離れて過ごす為というのが今回の名目だ。彩智から提案し今日に至る。横目で運転を見つつ、お気に入りのポップソングを流す。いつもなら「好きじゃない」「運転したくなくなる」など文句を言う圭司だが、今日は意外にも黙っている。きっと用意が出来た事への詫びでもあるのだろう。

 これまで幾度となく話した内容に話を、また話しかけてくる圭司に適当に相槌を打ちながら、彩智はに目に映す、で。


 一言で表せば――《疲れた》になるのだろう。

 このまま流されるままに結婚し、子供を産み、老後を迎える。それを考えた時、身震いがした。いつもであるでいたいのだ。

 ただ圭司はきっと素直になど別れてくれはしないだろう。きっとこれまでと同じようにずっとわたしの傍にいようとするだろう。お互いに特に容姿が良いわけでも、何か特技を持っているわけでもない――――それに新しい恋人を見つけ過ごすのはかなり労力がいる。


 この旅先を決めたのは2人で。珍しく並んでパソコンのレビューサイトを検索して決めた。わたしが今回泊まる旅館で気に入ったのは、山間にあり人が少ない事、近くには人が入りくい鬱蒼とした森が確認できた事、山に展望台がある事だ。


 それが何を指すか


 ――――きっとそこで滑落事故が起きても不思議じゃない。

 ――――将来を約束した恋人が事故に遭い、悲しみにくれる女性が居ても不思議じゃない。


 そして・・・・・・・


 ――――世間で噂されるほどの、が誕生する。



 もう何度も高速道路を自ら運転し、山間にある展望台へと下見へと行っている。

 なぜか最近圭司も夜に車でどこかへ出かける事が多く、わたしが車を使用できる日と交互になってしまっていたが、怪しまれる事なく確認とシュミレーションは出来た。

 展望台の柵は15センチほどの木で出来ており、雨風に曝されひどく脆くなっていた。そして何よりも誰かの悪戯だろうか、切込みが入った場所が何カ所か確認できた。確実なものにする為に、偶然積んであったノコギリをいれておいた、少し触れれば脆く壊れるように、念入りに。




 途中、S.Aに寄りトイレを済ませる。

 圭司に声を掛けると、いつものようにぼーっとしている。こんなところで事故で心中なんてまっぴらごめんなの。


「初めての道で混んでいるんだからしっかり運転してよ」


 そう、あなたは初めてなんだから……

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