ヒロインになる方法

マニアックパンダ

第1話 圭司

「亀が背泳ぎしてたのを見てた」


 散歩から帰ってくるのが遅いと責められた圭司けいじは、腕を大きく回しながら説明をする。それを「ああそう、よかったわね」の一言で済ませ、振り返ろうともしない彩智さち


「本当なんだって、俺もビックリして写メ撮ろうと思ったんだけど慌てすぎてあたふたしている間に潜っちゃってさ」

「ふーん、それで用意は出来てるんだよね?」

「いや、まだ」

「はあ?1か月前からわかってたよね?なんで用意してないの?」

「いや、ちゃちゃっと出来るからちょっと待っててよ」

「じゃあ、早くしてよ」


 ヒステリックに叫ぶ彩智を横目にボストンバックを押し入れから出す。

 イライラした様子でテレビを見る彩智の背中を見つつ、旅行の用意をバックにどんどんと詰めていく。気付かれないように小さくため息を吐き、付き合いだした頃を圭司は思い出す。


 2人は高校3年生から付き合いだし、すでに8年が経過していた。

 きっかけはなんだったか、確か同級生の紹介、いや通っていた塾が一緒だったのか。話してみたら気が合ったとかそんな理由だったはずだ。

 同じ大学を志望し、受験し上京した。大学生活が始まると共に同棲するという話も出たが、お互いの親の承諾を得る事など出来ずに2駅離れた場所にアパートを借りて生活をする事となった。親の監視から逃れた若い男女がする事と言ったら一つだ、毎日どちらかの部屋で夜を過ごし狂ったように肉欲に溺れた。もちろん学業やサークル、他の友人を作り遊ぶ事もあったがそれはまるで、情事と情事の間を埋めるだけのように思えるほどだった。

 それが今や週に1度あればいい方である。

 圭司が枯れた訳でも、彩智の身体に異変が起きた訳でもない。

 何においても濃密であれば濃密であるほど、過ぎる時間と共にだんだんと薄れてゆくものだ。それは2人にも当てはまり、入学から2年交際しだして4年が過ぎる頃には熟年の夫婦のように肌を合わせる回数も減っていったのだ。

 就職してしばらくしてから、社会での疲れなのかそれとも寂しさからなのか、圭司の部屋に彩智が日々入り浸るようになり半同棲状態に、その後流されるままに同棲し出して現在いまに至る。

 今や当初のような新鮮さはもちろんだが、笑顔さえほぼ見かける事はない。いつ見ても何が不満なのか眉間に皺を寄せ、睨むような目付きで圭司を見てくるのだ。そのような視線を浴びる謂れはないはずだ、8年の間に浮気した事もないどころか、他の女性と2人きりで出かけた事すらないのだから。もちろん何度も「何か悪いことした?」「何を怒っているの?」と尋ねた。だが返答はいつも「別に」「怒ってないし」と素っ気ない態度なのだ。 


「何なんだよ」

「何か言った?」

「いや、何でもない」


 いつの間にか言葉として発していたようだ、相変わらずテレビから視線を動かさないままの彩智に聞き返されたので、慌てて否定する。見ているのはワイドショーのようだ、芸能人が別れたとか付き合い出したなど聞こえてくる。


「何か面白い事あったの?」

「別にないけど?それよりも用意できたの?」

「いや……今やってるよ」

「早くしてよ、んっとにもういつもいつも」


 いつもだと?いつも待たせるのはお前じゃないか。やれ化粧がどうだ、やれコーディネートがどうのだと言っていつも俺を待たせて来たんじゃないか。それを言えば「圭司は女心がわかっていない、だからダメなんだ」といつものように責めたてられる事は明白なので口を噤むが、憤懣やる方ない。


 圭司は彩智の背中を見つつ、最近職場に新卒で入社した片桐さとみの事に思いを馳せる。小さな顔に大きな瞳、すっと通った鼻筋に厚い唇で全体的にくっきりとした顔立ちの美人だ。彼女の性格をを一言で表現するならばだ。小さな体躯からは想像できない程にいつもよく笑い、元気な様子を1日中見せている。仕事が良く出来る訳でもなく、何か突飛なアイディアを持つ訳でもないのだが、今や圭司の所属する営業部には欠かせない存在となっている。上司のくだらないオヤジギャグや、ツマラナイ冗談にも笑顔を絶やさない。圭司たち若手のどこにでも落ちているような愚痴にさえ返事をくれる。

 そんな彼女が「彼女さんが羨ましいな~わたしも先輩が彼氏だったら色々頑張れる気がする」と営業先から2人で帰社する際に言われたのだ。それがお世辞だとは圭司自身理解していた、中肉中背、どこにでもいる顔立ちで特に営業成績が良いわけじゃない男に惚れる女などいないと。それでも心が躍った。「またまたそんな事言って、何も出ないよ?」と胸が高鳴るのを隠し言うと、「冗談じゃないんだけどな~、もし彼女さんと別れたら教えてくださいね?立候補するんで」と真剣な表情で圭司を見上げながら囁いたのだ。情けない事に「はははっ」と笑い誤魔化したが、胸は激しく動悸していた。

 その日からずっと気になって仕方がなく、仕事中はもちろんだが家に居ても色々考えてしまうのだ。彼女の事をもっと知りたくなり、仕事にかこつけて私用携帯電話の番号やSNSを聞き出して時折遣り取りしている。


 用意が出来た事を彩智に知らせ、「遅い」などの文句を背に受けながら家を出て車に乗り込む。行く先は予約している山間の一軒宿だ。G.Wを喧騒とした都市から離れ、静かさだけが売りの温泉宿で過ごす為に。

 車の運転はいつも通り圭司が行う。スピーカーから流れ聴こえてくるのは、彩智が最近好んでいる流行りのポップソングだ。いつもなら、これまでなら運転手が不愉快になる音楽は止めてくれと頼むところだが、今日は何も言わず黙って聞いていた、もちろん急にそれらの歌が好きになった訳でも気になり始めた訳でもない。

 せっかくの2人での旅行なのだ、わざわざ相手の機嫌を損ねる必要もないと彩智に色々話しかけてみたが、答えは聞いているのか聞いていないのかわからないような「へ―」「ふーん」といった単調な相槌のみだった。ストックしてあるネタを一通り話しても態度が変わらない事を知った圭司は思考をまた自身が気になっている事へと移してゆく。


 片桐さとみはこのG.Wは独り自宅で過ごすと聞いた。「寂しいね」と尋ねると「じゃあ寂しさを埋めてください」と返され、返事に窮したのが思い出される。あれだけいい女なのだから彼氏はいるのだろうと踏んでいるが、いつ聞いても「いない、片思いなのは先輩が一番わかっていますよね?伝わっていないんですか?」と問い返され、毎回誤魔化している。一度だけ「そんなわけがない。俺になんて」と自虐的に返答した事がある、その時は「本当は部屋かホテルにでも無理矢理先輩を連れ込んで、舌で身体でそのすべてを奪いたいけど、そんな事したら嫌われそうだからしていないんです」と生々しい事を言われ思わず生唾を飲み込みながら、真智の唇や身体を思い出し想像してしまった。枯れた訳でもなく精力盛んな圭司にとっては甘い誘惑だった、だがさとみが言う通りに長年交際している彩智がいる、それを裏切る訳事は出来ない。その夜ベッドで横に眠る彩智を誘ったがにべもなく断られた。翌日高まった思いを諫める事を生業とする女性を求めて夜の繁華街に繰り出した。

 圭司には浮気に激しい忌避感がある。それは今はもうないようだが、彼自身が幼い頃に浮気を繰り返し母を泣かせる父親の姿を何度も目にしてきたからである。その為に風俗に足を運んだ事を悔いていた、いくらそれが相手はプロでそこに感情がないとわかっていても心に刺さった棘が抜けなかった。今回の温泉旅行はその罪滅ぼしの意味を込め誘ったのだ。

 ただそれでも、片桐さとみの甘い言葉や思わせぶりな態度は圭司の心を激しく揺らす。これまで出会った事のないタイプで新鮮であるし、彩智の態度に疲れているのも事実だ。だが今更別れられない、8年も付き合いお互いの両親にも公認の仲であるし、最近は結婚の時期を伺うような連絡が目立つようになってきているのだ。

 きっと今別れるなんて言い出したら――――俺は酷い人間――非難を浴びとなるだろう。きっといつものように甲高い声を出して、ヒステリックの喚き散らすだろう。考えただけでうんざりする。浮気の一つでもしてくれたなら、大手を振って別れる事が出来る。俺は8年も一途に交際してきたのにも関わらず、浮気をされた情けないとして振舞えるだろう。だが、彩智は一向にそんな気配は見受けられない。先日同窓会に行った際には期待したが、どれほど様子を伺い見ても過ちを犯した気配はない。


「――え、――ねえ聞いてるの?」

「えっ?」

「ちょっとぼーっとしながら運転しないでよ、トイレに行きたい」

「わかった」


 彩智の言葉に因って思考の海から戻り、ハンドルを切るとS.Aに車を停め助手席から出ていく姿を見送った。


「初めての道で混んでいるんだからしっかり運転してよ」

「ああ、ごめん」


 戻ってきて早々に愚痴を浴びせかけられ、短く一言で謝罪する。


 山間の温泉旅館近くにある、見晴らしのいい場所に建てられた簡素な展望台を思い出す。


  (


 心でそう呟きながら、気を取り直して座席に座り直した。




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