第13話
先ほど偶然すれ違った担任の先生に具合が悪いので自習室に行くことを伝え、王子さまは階段を降りて自習室へと向かっていた。伝えたというか、王子さまの顔色を見た担任の先生が、「自習室ですね?」と確認してくれたので、それに頷くだけだったが。正直声を出すのも辛かった王子さまにはありがたかった。
ぺたぺたと力なく廊下に上履きの音を響かせながら、下だけ見てゆっくり歩いて行く。もう前を向くほどの気力もなかった。ふらふらとした足取りで歩く王子さまは、前の曲がり角からきゅっきゅっきゅっと元気のいい足音でやってくる小柄な人影に気付かなかった。
(どーしよ治小、学校つれてきちゃったよ…)
胸ポケットが微妙に膨らんでいることに気付いたまさきがそっと覗くと、中で治小が眠っていた。どうやって行ったかもわからないあの飴細工の部屋にどうやって治小を返そうか悩んでいたまさきもまた、進行方向にある曲がり角から近づいてくる足音に気付くことはなく。
結果。
「え」
「わっ」
まさきをふっ飛ばす形でぶつかった。しかし王子さまはまさきが飛ばされそうになるのを思わずぱしりと腕を掴んで止めた。しかし勢いは殺せず、王子さまの胸に飛び込むようにまさきは抱きしめられ、王子さまはお尻から倒れこむ。固い床にまさきの体重分も加わって結構な力加減で倒れ込んだ王子さまは、そっとその美麗な眉をしかめた。
「痛…」
「え? …あっ、あの。ありがとう、大丈夫?」
「いや、気にしなくていい。前を向いていなくて悪かっ、た…?」
「いや、こちらこそ。ごめんな…え?」
あわてて身を起こそうとしたまさきだったが、動けない。
それもそのはず、抱きとめた格好のまま王子さまが腕を離していなかったからだ。しかも謝罪にしても中途半端だった。
そこで顔を上げて初めて王子さまの顔を見たまさきは、息を呑んだ。
きらきらと高級な銀糸のように細く輝く髪、大きく見開かれた目を縁どるまつげも同色で優雅に影を落としている。輪郭を飾る産毛も銀色で、目は夜空に浮かんだ星のようにきらめきの入った青い瞳。見るからに外国の血が混ざっている、御伽話に出てくる王子さまのような少年だった。ぶつかったことにも驚いたが、その美貌にもびっくりだ。
「あ、あのー」
「息が、できる?」
「え?」
そろそろ離してくれないかと声をかけたまさきは、呆然としたように呟いた王子さまにぱちくりと目を瞬かせる。いままで息してなかったんですか? そう聞きたい気持ちをぐっとこらえる。
一方の王子さまも驚いていた。呼吸が楽にできるのである。穢れはじわじわと真綿で首を締めるようにゆっくりと王子さまから酸素を奪っていく。それが、この生徒に会った途端すぅっと息を吸い込めば吸い込んだ分だけ酸素が身体に入ってくるのを感じる。
しかもそれはまるで森の中にいるみたいな若々しい新緑と、どこかすっきりとした甘い香りを伴っていて、ひどく心地いい。いままでの苦しさを取り戻すように、何回も深呼吸を繰り返す王子さまにまさきはびくっと怯えた。
(に、匂い嗅がれてる!?)
抱きしめられたまま、髪に王子さまの高い鼻が近くにある状態である。そう思ってもおかしくない。飴細工師は清潔が基本だ。試験を受けるため、工房に入るなら清潔でなくてはいけないと一応夜行列車の中にあるシャワー室を借りて浴びてきたけれども。
怯えながらも困ってしまったまさきはついほにゃりと顔を崩す。それは困った時の癖なのだが、知らない者から見たらただ笑っているようにしか見えないわけで。
王子さまは震えてから耳の垂れた猫のようなへにゃりとした幼い笑みを見せた生徒に、きゅんと胸がうずくのを感じた。そう、愛玩動物を前にした時のような。人はそれを庇護欲というのだが、王子さまはまだ知らない。
「あ、あの」
「…なんだ?」
「離してくれると、嬉しいななんて」
「! ああ、すまない」
おずおずと申し出たまさきに、ぱっと離される腕。
なんか匂いをかがれたのはよくわからないけど、とりあえず吹っ飛びそうなのを助けてくれた相手だしと先に立ち上がったまさきは王子さまに手を差し伸べた。
「えと、助けてくれてありがとう。立てる?」
「…いや、気にしないでくれ。手を借りる、すまない」
まさきから離れた途端、またじわじわと苦しくなってくる呼吸に両眉をひそめ浅く呼吸をする王子さまに。まさきは首を傾げる。
確かに息苦しそうだ。息ができると言っていたのが何なのかはわからないが、とりあえずいまは立たせることを優先させなければならない。いつまでも廊下に座り込んでいたら身体が冷えてしまう。
差し出された小さな手にそっと自分の白い手を重ねる王子さま。それと同時にふわっと緑の匂いがして、やさしい甘い匂いがする。
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