3-2 〈エルピス〉

 午後の診療が始まって少しした頃、

「また……なのね……」

 怒声と共にやってきた大量の怪我人達を前にして、ティータはうんざりしていた。今頃、受付の方は重症人に遅れてやってきた普通の怪我人達で溢れ、戦場さながらの惨状になっているだろう。

 こういう時、化学療法を専門とするティータの出番は少ない。対して、リーディーは既に最初に運び込まれてきた無法者の治療の為に手術室に入っていた。

 このあたり──巻き込まれた市民のみならず、当事者達も治療の対象とする事──について、メイツハーツクリニックの面々全員が少々異なる考え方を持っていた。

 リーディーは、言わずもがなと言うべきか、治療を必要とする人間が居るのなら、迷わず治療すべし、後先考えるのは自分達の領分ではない、としていた。

 対してティータは、姉ほど懐の広い人物ではなかった。こういう時、巻き込まれた市民はともかく、実際に荒事に及んだ無法者まで治療してやる義理はないのでは、と思ってしまう。

 ただ、彼女達姉妹の考え方はどちらもグレイに言わせるとナンセンスその物だった。彼に言わせれば、法外な医療費を毟り取れる口実が増えるのだから治療しない手は無い、という事になる。

 グレイのこの悪逆非道の物言いが、本心による物か、あるいはポーズなのかは定かではない。

 しかし、少なくとも、今回の下手人を探している時のグレイは、哀れ群れからはぐれた草食動物を見つけた時の獅子の様に喜々としていた。もし、誰かがハッキングの為にPCの前に座っていたグレイが人知れず笑いを押し殺していた所を見たら、狂ったかと錯覚しかねない程だった。

 やがて夜になり、治療もひと段落ついた所で、いつも通りの作戦会議が開かれた。

 今回はリリィも居る。昼の間中、興味に逸る所を無理矢理ウェイルに押し止められていたので、大人達が隠れて何かやっていたのかと興味津々だったのだ。グレイに頼まれたお使いの帰り際に、病院に担ぎ込まれる怪我人の担架を目撃してしまったのが災いした。ふとした切っ掛けを与えてしまうと、リリィの興味は尽きることが無かった。

 隠された物ほど暴きたくなる衝動は、子供の頃ほど強い。そういう意味ではなるほど、リリィの精神年齢は未だ幼いと言えた。

「さぁて、そういう訳で今日もまた作戦会議の始まりよぉ……」

「お……お疲れ様です」

 ウェイルが社交辞令的に苦労を労う。その声は若干遠慮がちだった。

 ここに居る面々の中で、リリィを除いて唯一医療行為に関わらないウェイルは、こういった時どうにも立場が弱くなる面があった。本来労いの言葉をかけるのに抵抗を感じる謂れは無いはずだが、それすら戸惑いを覚える。

「ウェイル君こそ、この後頑張ってね」

 ティータが申し訳無さそうに言った。責任感の強い彼女からすると、治療にも大して役に立てない自分が一番仕事をしていないのでは、と言った念を感じずには居られないのだ。

「いやまぁ、その、頑張ります」

「ふぇ?」

 リリィが首を傾げる。言葉を覚えてからも、この疑問の際の口癖は残ったままだった。

「ウェール、何かするの?」

「んー……」

 どうしたものか。ウェイルが頭を抱えた。話してしまうのは簡単だが、内容上刺激が強すぎる。かと言ってこのまま口を濁した所でどうにもなりそうになかった。

 結局、ウェイルは子供にとっては非常に良くない選択肢を、すなわち、

「今日はこの後忙しくなるから、また今度教えるよ」

 後回しにする事を選んでしまった。

「むー……。ホントに後で教えてくれる?」

「ああ、嘘はつかないよ」

 ウェイルはそう言って頷いた。軽い良心の呵責と、それに続く焦りを覚える。結局は問題を後回しにしただけなのだ。どうやって説明したものか、今から考えて置かなければならないだろう。

「約束だからね、ウェール?」

 リリィは、何かを訴えるような瞳をしていた。その漆黒の瞳の奥にある感情は、不安か、あるいは信頼か。

「ああ、約束だ」

 ウェイルは、目の前で自分をじっと見つめる少女の真意を不安だと取り、安心させる様にもう一度大きく頷いて見せた。

 この時のウェイルの判断は表面上当たっていた。リリィが不安を感じていたのは確かだった。但し、それはウェイルが思うような約束を反故にされる事への不安などではなく、もっと深い部分での不安だった。

 とはいえ、それをウェイルに解れというのも中々に無理のある注文だっただろう。当の本人、リリィ自身も、自分の感情を把握出来ずに持て余していたからだ。

 子供が自分の感情をありのままに受け止めてしまい、そこに折り合いを付けられないのは当然の事だった。あるいは、それは子供にしか出来ない特権なのかも知れない。

「むー……。解った」

 自身の漠然とした不安が解消されず、自然とリリィの表情も渋々といった物になった。

「心配するなって」

 ウェイルはそう言って笑いかけたが、そういう事ではないのだ。リリィの表情は晴れなかった。

「さて、そろそろいいか?」

 ウェイルとリリィの話が一通り終わったのを受けて、グレイが口を開いた。

「今回の下手人の話だ。それ自体は極簡単な物で、組織末端の使い走り……、要するに街のちょっとした不良集団どもの衝突だ。怪我せず逃げ切れた連中の情報は一通りここにメモしておいたから、カタナと一緒に順々に巡ってくれ」

 言って、ウェイルにメモを手渡す。

 ウェイルは受け取ったメモに一通り目を通してほっと一度胸を撫で下ろしたが、その後すぐ、コインを裏返したかの様に暗い表情になった。

 街に暮らす孤児グループ達や、あるいはそれに近い生活を強いられる少年少女達のグループは、時に違法勢力──所謂マフィアや極道──と接点を持ち、その末端として使い走りにされる事も多い。そう言った面々と繋がりのあるウェイルとしては、心配せざるを得ない物があった。

 メモを見てほっとしたのは、そこに知り合いの名前が無かったからだ。対して、暗い表情になったのは、知り合いじゃなければいいのか? という疑問に駆られたからだった。ウェイルにとって同情に値する相手なのは間違いなかった。

 そんなウェイルの心情を知ってか知らずか、グレイがつまらなそうに続ける。

「まあ、どうせこいつらは良い様に使われただけだろう。請求額だの何だのと言った話は姉妹でやってくれ」

「解りました」とティータが頷いた。リーディーもそれに続く。

「それで、だ。せっかくだからここ最近騒がしい理由も調べておこうと思って、役所のデータベースをいつも以上に閲覧させて貰った。中々面倒な事になっていたぞ」

「面倒な事……?」

 グレイ以外の四人を代表してウェイルが疑問符を打った。

「ああ、どうも素性の掴めん連中が最近やんちゃをしているらしい」

「どういう事です? 素性が掴めないってのは、俺達にも解らないって事ですか?」

「──いや、単に実際に行動している人間が確定できていない、というだけだ。組織自体については大体の見当がついている。ロクでもない連中だよ」

 言って、グレイは忌々しげに首を振った。

「もったいぶらないで教えなさいよぉ」リーディーが先を促す。

「エルピス。そう、パンドラの箱の底に残った最後の希望。それが連中の名前だ。聞いた事は無いか?」

 グレイの問いに、一同は顔を見合わせる事で答えた。知ってる? とお互いに目線で尋ねあう。

「ふむ……。面倒だが説明しておくべき、だな」

 グレイは懐の煙草へと手を伸ばした。ウェイルがそれを見咎める。

「あの……、リリィも居るんで煙草はちょっと……」

「む。仕方ない」グレイはそう言って渋々煙草に掛かった手を引いた。

「ふぇ?」

 しかし、そんな不満そうなグレイを他所に、当のリリィは何の話をしているのか皆目検討も付かない様子で、しきりに首を傾げていた。

 グレイは何か釈然としない物を感じたが、今更また吸おうとするのもなんだと思い、諦めた。

「……まあ……いいさ。確かに煙草は体に毒だからな。話を戻そう。エルピスというのは、おそらく、現存する唯一の、一定以上の行動力と影響力を持つ、〈リワークス〉達の組織だよ。同胞達の解放と社会的地位の確保を目的とする、と言えば聞こえもいいが、その実態は逆差別集団にすぎん。悪質な反動勢力、暴走集団だな」

「まるっきり初耳なんですけど……」

 ウェイルが戸惑いがちに呟いた。ウェイルは、グレイに拾われてからこっち、もう七年も日陰者として生きてきたが、そんな組織の噂すら聞いた事が無かった。

「それはそうだろう。お前の耳には入らない様、一応は気を使ったからな」

「……はい?」

「今はともかく、昔のお前が連中の事を知ったらどうしただろうな?」

 言われ、出会った頃の事を思い出す。

 ウェイルは、「多分、おそらく、きっと」と、不確定を示す枕詞を並べ立てた上で、苦笑しつつ言った。

「暴走してどうにか接触しようとしたでしょうね……」

「敢えて言うが、間違いなく、だ」

「うぐ……」

 ウェイルには返す言葉も無かった。今でさえ、先日街中で人形商人を見かけた時に我を見失いかけているのだ。

「まあ、少なくとも、それは私にとって損にはなれど得にはなり得そうも無かったのでな。お前の耳には入らない様に、ある程度は気を使ったのさ」

「ふぅ~ん」

 リーディーが、ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべていた。

「まあ、グレイのおじさまが素直じゃないのは今に始まったことじゃないからどうでもいいんだけどねぇ」

「何の事だ……。いや、話が脱線しているな」グレイは咳払いして一旦間を置いた。「それで、エルピスの事だが、連中、過去の秘密結社に習ったのか、基本的に活動する時は白装束に白の三角頭巾を被って行動する。見かけたら決して近づくな。何の得にもならん」

「あ……」

 そういえば、ついこの間友人が三角頭巾を被った怪しい連中を見かけたと言っていなかったか。

「どうやら心当たりがあるようだな。で、だ。ここの所騒がしかったのは、連中が大はしゃぎしていたからだろう。こそこそと影で裏家業の人間達を襲っているんだろうな。適当に他所の勢力の仕業に見せかけてしまえば、勢力同士の潰しあいに発展させて漁夫の利も狙える、という訳だ」

「あー、やだやだ。それじゃそのエルピスってのが大人しくしてくれるか、マフィアだの何だのが事態に気付いて事を片付けるまでは忙しいままって事ぉ?」

 最悪じゃないのぉ、とリーディーが口を尖らせた。

「おそらく前者になるだろう。連中は引き際が巧い。尻尾を捕まれる頃には別の街に移っているだろうよ。それに、珍妙な三角頭巾も中々どうして意味があるらしいからな」

 前時代の、エルピスの模倣元である秘密結社では、集会や活動中に三角頭巾を被る事で、第三者のみならず、自分達でも互いに身元を特定させない様にする事で、その秘密性を高く保っていたと言われている。

「ただ、気になるのは、何故この街で活動するか、だ。連中はあくまで反体制組織だからな、こんな治安の悪い無法者の巣窟よりも、もっとオフィシャルな場所を狙うのが順当なはずだ。それに、この街は治安が悪い故に〈リワークス〉の潜伏防止の為に人の出入りが厳しく監視されている。連中がそう大した人数を送り込んでくるとは思えん」

「考えたってしょうがないでしょう。それにホラ、この街は……その、奴隷商が多いですからね、そういうのも見過ごせないって事じゃないですかね? そこを攻撃すれば〈リワークス〉を解放してあわよくば同士に出来ると考えれば、そこまで不自然でもないと思いますよ」

 ウェイルの言葉は、そうであって欲しいという希望に近い物があったが、一応筋道の通った理論でもある。エルピスという組織に、単なる一反動勢力ではなく、〈リワークス〉を救おうとする正義の側面を持っていて欲しかった。そういう組織が存在していて欲しかったのだ。

「まあ、なんにせよだ。連中、〈リワークス〉に辛く当たる連中には手厳しいが、それ以外は後回しになりやすい。目的が測りかねるのは多少不気味だが、こちらから仕掛けない限り、私達と事を構える事にはならないだろう。触らぬ神になんとやら、だな」

「あ、それ知ってるよ!」

 先程まで一切会話に入り込めなかったリリィが、ここぞとばかりに声を張り上げた。

「触らぬ神に祟りなし、だよね」

 リリィは得意げに胸を張っている。こうして自身の知識を披露したいという願望は、子供のそれその物だ。可愛いものだった。硬くなっていた空気がぐっと柔らかくなる。

 パチン。グレイは感心を示すように指を一度鳴らした。

「ご名答、だ」

「それも知ってるよー」リリィはグレイの真似をして指を鳴らして見せた。「こういうのをキザったらしいって言うんだよね?」

「…………、そんな言葉を教えたのはどこのどいつだ……」

「えーっと……、動物界脊索動物門脊椎動物亜門鳥綱タカ目タカ科オオタカ改良種KE3038? のカタナが教えてくれたよー」

 リリィはカタナの、皇翼の正式名称を正確に諳んじて見せた。

「あの阿呆鳥め……」

 ウェイルとグレイは二人して頭を抱えた。

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