第三章

3-1 少女の成長

 今日もいつも通り、メイツハーツクリニックは繁盛していた。

 受付にはウェイルが入っている。その背後、関係者用のスペースでは、リリィが好奇心に目を輝かせていた。

「ねえねえ、ウェール。この中に入ってるのは何?」

 鈴の音の様な、澄んだ声が響く。リリィの声である。

 リリィが、受付の裏側、患者からは見えない所に置かれていた棚を指差していた。

 薬局だの処方箋だのと言ったシステムはこの病院には存在しないも同然なので、簡単な薬品は会計と同時にここで渡してしまう。その為に薬品を取り置きしてある薬品棚だった。

「ああ、それは薬……って、どこから言えばいいかな」

「お薬は解るよ。ティータが教えてくれたから。初めて会った時にチクっとしたのも、お薬だよね?」

 リリィが言っているのは、廃墟で出会った時にウェイルが打った麻酔の事だ。半ば麻薬に近い物なので、薬とは言い切れない。

 やれやれ、どう説明した物か……。ウェイルは一瞬悩んだが、無言と思考の時間は避けるべきだと思い、自分の思う範囲の説明をする事にした。子供に問いかけられて即答出来ない時の大人の心情が解った気がした。

「あの時リリィに打ったのは、強力で副作用のある麻酔──、痛み止めの薬だよ。そこの棚にも入ってる」

「えー? でもカタチが全然違うよ? 前のは、えっと、針だったっけ」

「うーん……。まず、ここに置いてある薬だけど、これはカプセルとか錠剤って言って、水と一緒に飲む物なんだ。普通薬って言うとこう言うヤツの事を指すかな。それで、リリィが言ってる針のヤツってのは注射って言って、針が薬なんじゃなくて、針を通して薬を体に流し込むんだ。後でリーディーさんかティータさんに言って、実物を見せて貰うと良いよ」

「うん、解ったー」

 リリィはそう言って大きく頷くと、軽快な足取りで飛び出ていってしまう。

「ああ……、後でって言ったのに……」

 ウェイルは軽く頭を抱えた。

 今日の診療当番は、当のメイツハーツ姉妹だ。つまり二人とも今は仕事中なのだ。迷惑を掛けてしまったな、と思う。

 とはいえ、ウェイルとてリリィに構ってばかりは居られない。今日は比較的患者が少ないが、それでもゼロではないのだ。受付の仕事はちゃんとこなさなければならなかった。

「ニヤけない様に気をつけないとな……」

 そう自戒するウェイルだった。

 リリィが会話出来る様になってから、早一週間が経っていた。


 最終的にリリィが通常の会話が可能になるまでに掛かった期間は、およそ半月。

 この速度は、非常に驚異的な物だ。

 本来赤子は言語を単語と文法の二段階に分けて習得する。すなわち、数個の簡単な単語だけを発声出来る初期段階と、単語を組み合わせて文脈を作れる様になる次段階だ。

 本来、通常の赤子の発達において、この二段階には少なくない時間が掛かる。リリィはそれをそれぞれ三日と十日強でクリアしたのだ。

 赤子が喋れる様になる為には、知能とは別に声帯の発達が必要となるのに対して、リリィにはそのハードルが無かった事を加味しても、これは異常な速度だった。

 その事についてグレイは、リリィが初めて意味のある文章を口にした日、こんな事を言って笑っていた。

「僅か数日で単語を覚え、その二週間後には流暢に喋るようになるとはな。流石は〈ピリオド〉という事か。やはり阿呆鳥とは違う」

 この時カタナはそれについて黙して一切を語らなかったが、ウェイルはカタナがまともに喋れる様になるのに二年近くかけた事を知っていた。ウェイルは、人間と鳥を比べるのは酷な物があると思ったが、口にはしなかった。言えばカタナがますます不機嫌になるのは一目瞭然だった。

 また、グレイはこんな事も言っていた。

「誰の言葉だったかは知らんが、言語は文明の扉とも言う。言葉が解る様になってはじめて、文明に触れる事が出来る様になるという訳だ」

 それは、リリィにとってこれまで意味不明だった数多くの物が、興味の対象に変わる事を意味した。

 そうして今では、

「気をつけろよ、ウェイル。ここから先は物知りな大人でないと勤まらんぞ。……まあ、余り心配はしていないが、な」

 とのグレイの予言通り、ウェイルが質問責めに会うのは日常茶飯事の光景になっていた。

 ただ残念な事に、ウェイルは「余り心配はしていない」というグレイの信頼には応えきれなかった。……と自分では思っていた。

 リリィが喋れる様になってからこっち、ウェイルが満足に答えられなかった質問の数はすでに全身の指の本数を超えている。

 ウェイルは、リリィの問いに答えられない度に、自分の無知さ加減を痛感していた。

 案外、知っているつもり、解っているつもりになっている物事は多いのだ。

 ただ、答えられないのは、単に無知による物だけではなかった。

 それは、時に大人達が見ないフリをしている物事の本質を鋭く指摘する物であったり、社会の歪みが大人という歯車達に強要する矛盾を大きく抉り出す物であったり、あるいは、単に答えにくい質問だったりした。

 子供の純真さ、無知さは時に大人を恐怖のどん底に陥れるのだ。

「どうしてルールを守らないといけないの?」

「神様って何?」

「男の人って何か付いてるってホント?」

 これらは全て実際にリリィが口にした質問だ。その時ウェイルが内心穏やかでなかったのは言うまでもない。

 ウェイルの様な、ある意味社会の輪からはじき出されている者達にとっては、一般的な社会通念や暗黙の了解と言った物への解答はまだ楽な方だった。自分自身がそれに縛られておらず、外から観察している側だからだ。

 だから、ウェイルにとって一番答えにくい質問は、つまる所先程の例の最後の質問の様な、コウノトリやキャベツ畑のお話だった。

 特に問題なのは、リリィにはその手の御伽噺が通用しない事だ。

 頭も良く、体も成長しているリリィにその種の嘘は通じず、かと言って、そのなんとも言えない珍妙な空気を感じ取ってそれ以上の追求を止めてくれる程大人でもなかった。

 答えなければ嘘吐き呼ばわり、答えれば一切の弁明の余地無きセクシャルハラスメント。ウェイルはそんな最悪の二律背反に何度も襲われた。

 かといって誰かに助けを求めようにも、グレイは笑って受け流し、カタナは知らぬ存ぜぬの一点張り、ティータは非常に気まずそうに顔を赤らめ、リーディーはここぞとばかりにからかって来る。完全な四面楚歌である。

 しかし、そんなある意味微笑ましい問題以上に、もっと重大な一つの問題があった。

「親って何?」

 リリィのこの質問は、ウェイルの心臓を完膚なきまでに凍てつかせるに十分な物だった。

 リリィの出生がそもそも異常なのだ。父親母親と言った概念はリリィには存在しなかった。

 普通の子供が、当たり前の様に甘受し、当たり前の様に実感として理解する概念が、欠けているのだ。

 そして、どうにかしてリリィに説明しようにも、ウェイル自身が一般的な両親という存在を知らない。

 ウェイルにとって、父親とは無関係、無関心の象徴であり、街中の公園に立つちょっとした偉人の銅像と同レベルの無価値な存在だった。酸性雨でメッキが剥げて錆付こうが、悪戯小僧や不良たちによって落書きされようが関係が無い。

 対して母親とは、決して手に入らない愛情と安息の象徴だった。いくら恋焦がれても手の届かない美しい星空と似た様な物だ。それは理想であると同時に、夢想だった。

 そのどちらも、身近には無い存在という意味では共通している。

 そこに思い至る度に、ウェイルの内側をひどく冷たい寂寥感が襲うのだった。



 昼休み、午後一時過ぎのメイツハーツクリニックのリビングでは、いつもの面々が勢揃いしていた。ウェイルにリリィ、グレイにメイツハート姉妹だ。

 リリィは、この休みの間中、本人の意思とは一切関係なく話題の中心にされ続けていた。この面々が揃うと、比喩的な意味で最も声の大きいリーディーに話題が左右されやすく、その彼女がリリィを集中砲火したためだ。

 いつもならグレイかティータが止めに入る所だったが、今回は、グレイは関心の無さ故に我関せずの態度を貫き、ティータは珍しく姉に追従した為、歯止めが利かなかったというのもある。

 リリィが相当気疲れしている様子を見て、ウェイルが口を開いた。

「言いにくいんですけど、時間の方がそろそろまずいんじゃ……」

 昼休みその物はまだもう少しあるが、そろそろ診療の準備を始めないと間に合わない時間だった。実際、一階では既に午後の受付を担当するパートタイマーが準備をはじめていた。

「もっとリリィちゃんとおしゃべりしたいのにぃ~」

 リーディーが不満たらたらと言った風で言った。

「姉さんじゃないけど、私ももうちょっとおしゃべりしたいなあ……」

 普段は真面目なティータも、今日は珍しく姉に追従した。言葉尻は穏やかだが、リーディー以上に負のオーラを放っている。

「う……うぐ……」

 たじろぐウェイル。

 半ば母代わり、姉代わりに近いこの姉妹には強く出られないウェイルだった。

 とはいえ、リリィが喋れる様になった事は、メイツハーツクリニックの中では大きなイベントではあっても、ニューデイズ全体にとっては何の関係も無い要素だ。

 だから当然、二人の言葉は、

「仕事は仕事だ。患者は、ひいては出血や病気の進行は待ってくれないぞ」

 というグレイの淡白な言葉で打ち消される事になった。

 とはいえ、メイツハート姉妹が不平不満をこぼすのもある意味当然と言える面もある。

 先のEMCと黎明会の衝突以後、ニューデイズ全体がにわかに浮き足立っているのだ。組織同士の本格的な衝突こそ起きていないが、一集団レベルでの衝突は頻発していた。それに比例してメイツハーツクリニック全体の忙しさも増していた。

 何かと理由をつけて少しでも長くこの精神的休養の時間を取りたいと思うメイツハート姉妹の感情は非難出来るものではないだろう。

 まるで、ウェイル達がこの街に来た頃に戻った様だった。

 ニューデイズは、今でこそ『治安が悪い』程度の形容で済む街だが、以前はそんな言葉では済まない程に酷い状態だったのだ。

 過去ニューデイズが冠していた不名誉な称号は多岐に渡る。「今、天国に一番近い街」「犯罪者が過労死する街」「悪魔も裸足で逃げ出す魔境」etc……。とにかく、酷い有様だったのだ。

 それは、当時まだ組織間の勢力図がハッキリしておらず、無秩序に各組織が暴れまわっていたが故の物だ。今、この街の治安がそれなりに安定しているのは、単に組織間抗争が、より計画的、組織的で秩序立った物に変質してきたからに過ぎないのだ。

 やがてメイツハーツ姉妹は渋々と言った様子で下へと降りていった。その様子を見送っていたグレイは、煙草を取り出そうと胸ポケットに手を入れ、はっと気付いた。

「……、これでラストか。後で買ってこないとな」

「それなら俺達が行ってきましょうか?」

 ウェイルが、気を利かせてそう提案した。隣に座るリリィを見やって、ちょっとした動機を説明する。

「リリィにも、色々教えてあげないといけませんし」

「ん? どこか行くの?」

 リリィが期待半分、不安半分と言った表情をした。

「そ。ちょっとした買い物ってヤツさ。リリィはまだ、買い物した事は無かったっけ」

「うん。知ってるけど、したことは無いよ。外に出るのは……ちょっと怖いな」

 リリィが怯える様に軽く眉尻を下げた。雛が初めて巣から一歩を踏み出すには、親鳥が思っている以上に勇気が必要になる物だ。

「大丈夫だよ。俺がついてってあげるからさ」

 ウェイルはそう言ってリリィに笑いかけた。釣られるようにリリィの表情も緩む。

 グレイはそんな二人のやり取りを見守って「まるで歳の離れた兄妹の様だな」と、なんともアンバランスな感想を口にした。確かに言動はその通りなのだが、見てくれはむしろ歳の近い兄妹と言った方が近い。

「そんなモンなんですかね……?」

「さあな、私には兄弟は無かったし、お前も然り。実際の所どうなのかは私も解らんよ。せいぜい、ちゃんと見守ってやる事だ」

「言われなくとも」

 ウェイルは快く頷いて見せた。

 この調子なら外に出るのを止める理由もないだろう。グレイはそう結論して、ウェイル達を送り出した。

 リリィは最後まで、ウェイルの空いた手にちらちらと視線を送っていた。ウェイルがそれに気付いて手を繋いでやるまでどれだけ掛かるだろうか、とグレイは軽く想像してみたが、すぐに止めた。気付くか否かに一切関係なく、どうせ外に出たらはぐれない様に手を繋ぐに決まっていた。

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