1-2 カタナ

 ヒトがヒト足りうる理由は何か?

 この一世紀ほど、この問いの答えを巡って争った時代もないだろう。

 古き時代、神々を信奉する者達は、異なる神を信奉する者達を魔物と呼んだ。ヒトである条件は同じ神々を信じている事だった。

 あるいは、とある哲学者はこの問いにこう答えた。人は考える葦である、と。

 だが、今を生きる人々は口を揃えてこう答えるだろう。


 ──〈ヒトゲノム原基〉との一致率が99%を超える遺伝子塩基配列を持つ者、と。


 〈ヒトゲノム原基〉とは、ヒト原種、通称〈オリジン〉の男女それぞれにつき一万人の塩基配列を解読し、それらの平均を以って定義された物であり、最も普遍的な人間の遺伝子配列であるとされる。

 ちなみに、一般的なヒトの遺伝子的な個人差は、男女の性差を除いて全体の0.1%前後であり、それは肌の色や出身地に左右されない。つまり、本来ならすべての人間がこの定義──〈ヒトゲノム原基〉との一致率99%以上──を満たす。

 神に挑む人類の叡智にして蛮勇──人類種人工進化計画。

 その計画の存在が、人間社会に対して、この冗長で厳密なヒトの定義を要求した。

 人々はその優れた科学技術を用いて自らの遺伝子を組み替え、より優れた人類種を作り続けた。親になる者達は皆、自らの素直な欲求──所謂「理想の子供が欲しい症候群」を満たし続け、世界を優性思想が支配した。

 だが、光が強くなれば、影もまた濃くなるのは必然だ。

 遺伝子操作には多大な費用が掛かる。人類の理想の進化等という謳い文句は金の無い者達には縁の無い話だった。金の無い大部分のヒト原種〈オリジン〉と、金のある極一部の改良種〈リワークス〉とが社会的に対立するのにそう長い時間は掛からなかった。

 そんな中、国際最高裁判所が、〈ヒトゲノム原基〉とヒトの定義を作り出した。法と正義を司る彼らは、民主主義の原則に則って大多数にとっての正義を実行したのだ。当時の一般的な〈リワークス〉達のヒトゲノム原基との相違率はゆうに1%を超えていた。

「お前達はヒトじゃない!」

 その一言の下に〈オリジン〉と極僅かな低度の改良種〈ジャンク〉は、〈リワークス〉の人権を完全に剥奪した。彼らは、ヒトからすれば、近縁種──つまりチンパンジーやボノボ──と同じ存在なのだから。

 改良種が如何に人間として優れていようとも、あくまでも人間の枠に収まる物だ。ヒトは自らより遥かに強大な生物でさえ打ち倒せる。一体の〈リワークス〉に対して五人、十人の〈オリジン〉が挑めば、結果は火を見るより明らかだった。

 そして今度は、ヒトの暗い欲望を満たす為に故意的にヒトの定義を外れた人間が多く作られた。

 何しろ法的に人権を持たない事が保障されているのだ、需要はいくらでもあった。労働力として、鑑賞品として、あるいは歪んだ欲望を満たす為の人形として。

 事ここに至って社会のモラルは完全に崩壊した。ヒトの心の歪みは蓄積し続け、〈オリジン〉と〈リワークス〉の対立とは無関係に、社会全体が急激に安定を欠いていった。

 そして、いつしか戦争が起きた。

 表向き〈オリジン〉と〈リワークス〉の対立がその原因であるが、その背景にはそれ以外の複雑な要因が絡み合っていたと言われる。

 戦争は十五年の長きに渡った。

 そして、戦争の勝敗は軍事力の質ではなく量に強く左右される、という近代戦争の方程式が正しく機能し、〈リワークス〉達の敗北という結果をもたらした。

 〈リワークス〉達は抹殺淘汰されたが、その一方で〈オリジン〉や〈ジャンク〉の間にも巨大な傷跡が残った。

 反省として、世界は表向き人類種の遺伝子操作をすべて禁止した。それでもなお、ヒトの定義が変更される事は無かったのは、勝者の権利か、あるいはエゴなのだろう。

 それから十五年。癒えぬ傷跡があり、癒えた傷跡があった。失われたものがあり、蘇ったものがあった。

 ウェイル・サーランドは、そんな時代を生きる十七歳の少年だった。



「で、なんなのだ、その娘は?」

 少女の手を引いて廃墟から出てきたウェイルに、やけに高く不自然な声が投げかけられた。

 ウェイルは、背後に居る先ほどの少女に視線を送る。半ば無理矢理に連れてきたが、それほど嫌がる様子は無かった。

「カタナか。何なんだろうな、俺にも解らない。とりあえず降りて来なよ」

 ウェイルが声の主に返答を返す。ウェイルの視線は背後、出てきた廃墟の屋根に向けられている。そこにいたのは、人間ではなく、一羽の鳥だった。

 カタナ、と呼ばれたその鳥は、左右あわせて三メートルに届くかという大翼をただ一度羽ばたかせるだけで、ウェイルの傍まで一気に空を駆けた。

「相変わらず壮観だなー」

 その優雅な様を見て、ウェイルがそう口にした。

「ふん。当然だ。我は皇翼だからな」

 皇翼、とは前時代に遺伝子操作生物の研究と販売で名を馳せたキサラギインダストリーという会社が製作・販売したある改造生物種の事である。猛禽類をベースに、都市部に住む頭脳の異常発達したカラスや、古くから人語を喋り親しまれてきた九官鳥やインコの遺伝子を組み合わせて作られた人工進化種だ。全体的に強化された鳥類としての飛翔力や視力に、ヒトと比べても見劣りしない頭脳、そして人語を発声できる気管等を併せ持つ高級商品として売り出されていた生物だった。

「皇翼って……、それ商品名だよな?」

「うむ。だが我はその響きを気に入っておるからな。獅子が己が種族を誇りに思うのと同じ事よ」

 ちなみに、皇翼の正確な呼称は「動物界脊索動物門脊椎動物亜門鳥綱タカ目タカ科オオタカ改良種KE3038」であり、カタナはこれを早口言葉さながらに暗唱する事が出来るが、ウェイルの前で一度披露して以来、二度とそれを口にした事は無い。

「ところで、先刻も上から見ていたが、何なのだ、その娘は。えらく懐かれている様に見えるが」

 カタナが視線をウェイルの背後へと向けた。少女が、ウェイルの背にピッタリと隠れるようにして様子を伺っている。

「訂正しよう。……まるで、何かに怯えている様に見えるのだが?」

「そりゃ十中八九お前にだよ!」

 首を傾げるカタナにウェイルのツッコミが飛んだ。

「何だと! 何を異な事を! この我の何処に少女を怯えさせる要因があると!」

 カタナはそう言って声を荒げるが、根本的にその光景その物が知らぬ者にとっては圧倒的な未知と恐怖の塊である。人類の遺伝子には、鳥は流暢に喋る動物である、という情報は書き込まれていないのだ。

「はあ……、まあいいよ。見てたんなら話は早い。まじめな所さ、カタナはどう思う?」

「どう、とは?」

「さし当たって、俺は今どうすればいいと思う?」

 ウェイルとカタナの間には、そろそろ十年来の付き合いに届こうかという程度には長い付き合いと、それに伴う信頼があった。

 カタナは一瞬首を傾げ、ウェイルの背後に隠れる少女に視線を向けた。

「第一に、そのまま連れて行くのは困難だ。格好が酷すぎる。真夜中とは言えあまり目立ちたくはあるまい? 第二に、あの者達ならば信用に値する。第三に、ここでの電波発信行為は避けるべきだ、立ち入り禁止区域であるし、おそらくは通信の監視もされていよう。自前の無線機を持って来ているべきだったな」

 カタナは、確認の為に今解っている端的な事実を言葉として並び立てた。

「うーん、俺もそこまでは解ってるんだけど……」

「ならば結論は一つしかあるまい? つまり、我が伝書鳩さながらに連絡役を引き受けるより他に無いという事だ」

「この子を無視して帰る、って選択肢もあるんだけど?」

「これはまた異な事を言う。そのような心算、毛頭あるまい?」

「うん、ないね。……俺はむしろカタナが、その様な娘放っておけばよかろう、とか言い出すかなと思ってたんだけど」

「それこそ異な事を言う物であるな。貴様が言っても聞かぬ男である事は重々承知している。そして、貴様が何を考えているかも大抵想像が付く。どうせその娘を放っておくわけにはいかぬと思っておるのだろう? となれば引率者としては精々、貴様が下手を打たぬ様助力するまでだ」

 カタナの配慮が、ウェイルにはありがたかった。今は、教科書どおりの説得よりも、自分の背中を押してくれる事こそが欲しかったのだ。もっとも、言うべき事もある訳だが。

「誰が引率者だ、誰が」

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