1-1 出会い

 雨が、降っている。

 崩れ落ちた天井は屋根としての義務を果たせず、雨風は打ち崩れた壁をすり抜ける。

 そこは、廃墟だった。

 コンクリートが削げ落ちてむき出しになっている鉄筋の錆付き具合は、その廃墟が、廃墟となって久しいという事を雄弁に語っていた。

 その廃墟の中に、一つの人影があった。黒い頭髪に走る一条の蒼いラインが特徴的な少年、ウェイル・サーランドである。

「……やっぱり来るんじゃなかったかなぁ……、怖すぎるだろ、これ」

 ウェイルはそう呟くと、恐怖心から自身の体を抱きしめた。

 日中晴天ならまだしも、深夜、しかも悪天候である。野晒しの廃墟はホラースポットさながらの様相を呈していた。

「とはいえ、手ぶらで帰るのはあり得ないしなぁ……」

 仲間達に大見得切って出てきた以上、成果無しで帰るのはウェイルのプライドが許さなかった。彼らに馬鹿にされるのは我慢ならない。臆病者のレッテルを貼られる訳には行かないのだ。

 仕事柄スリルのある展開には慣れっこだったが、ホラーとなると別問題なのが悔しい。

 ウェイルは行くか、と小さく呟いて、なけなしの勇気のランプを最大限燃やしながら歩を進めた。

 ガラス片を気付かずに踏んでは、その割れる音に驚き、隙間風が薄気味の悪い音を立てる度に背筋が凍る思いがしたが、それでも勇気のランプは消えなかった。

「うーん……、やっぱり金目のモノは大体持ってかれちゃってるよなぁ」

 この建物が今の姿になる前、ここは何らかの医療系遺伝子研究所だったと言われている。

 薬品の類は相応の値段で捌けるモノだし、医療機器が残っていれば、それが生きているか否かに関わらずかなりの大金になる。

 だから当然、この廃墟には多少の危険を飲んででも金銭を求める輩が度々訪れていた。そして、ウェイルもまたそのうちの一人だった。

「これは──薬品棚っぽいけど中身はすっからかんだし、あっちも同じか……」

 恐怖を紛らわせる為に積極的に独り言を呟く。

「はあ、最悪だよチクショウ……何も無いじゃないか……。辛うじて屑鉄屋で売れそうなのはあるけど、あんなの持ってくのも一苦労だし、そもそも二束三文だし……」

 とはいえ、そんな二束三文でも、ゼロでは無いのだ。他にめぼしい物も見当たらない以上これしか手段はないな、と、ウェイルは薬品棚等の鉄板類を少々拝借する事に決めた。

 手持ちの工具でもどうにかなりそうな範囲で、目に付く薬品棚を片っ端から解体し、持ち帰りやすい形にまとめていく。

「さて、じゃ次はあっちの部屋だな、っと」

 言って、ウェイルは奥へ奥へと足を踏み入れて行く。


 ──そして、少年は「ソレ」に出会った。


 あまりの予想外さに、思考が停止する。

 ウェイルの視線の先で、一人の少女が雨に打たれていた。

 天井に開いた穴に顔を向け、僅かに口をあけている。すぐには何をしているのか解らなかったが、少しして理解した。雨水を飲んでいるのだ。

(何なんだよ、アレは?)

 ウェイルは、その少女にある種の異様さを感じ取って、無意識に息を潜める。

 異様と言えば、それは行為だけに留まらない。見た目も異様だった。

 伸びきった髪は、伸ばしている、というよりも伸びている、と言ったほうがしっくりする態で、ある種幽霊じみたものさえ感じさせる。着ている服は、服というよりも布切れ一枚──しっかりとした病院で検査の際に着せられる長い布の真ん中に頭を通す穴を開けただけの物──だし、それも清潔感とはかけ離れていた。半裸と言っても過言ではないレベルだった。

(やばい、逃げよう……)

 根拠無く怖気づいて、ウェイルはその場を離れようとした。

 ──パリン

 ガラス片を踏み砕いた音が周囲に響く。

「──ぅー?」

 少女は当然その音に気付き、ウェイルへと視線を向けた。その漆黒の瞳がウェイルを捉える。

「……むうー……」

(やばいやばいやばいやばい! 気付かれたッ!)

 何がやばいのか良く解らないが、とにかくやばい。ウェイルの心の中はそんな根拠不明の危機感で一杯に満たされていた。ウェイルにとって、少女の純粋な動物的好奇心に満たされた瞳は、底の知れない地獄の穴も同じだった。

「くぅー?」

 少女は、怖気づくウェイルを見て、不思議そうに首をかしげている。

(くぅー? って何だよくぅー、って! こいつ、喋れないのかよ!?)

「あー?」

「な……、なんだよ、お前!」

 恐怖心を誤魔化すために声を荒げる。

「ひゃぅっ!」途端、少女は極端に怯え竦み始めた。

 本来なら、ウェイルはその隙にその場を立ち去る事も出来たはずだが、そうはしなかった。少女の姿が、叱り付けられた子犬さながらに庇護欲を誘ったのかも知れない。

「ぁ……、ご、ごめん」

 と言って、少年は少女へと歩み寄ろうとする。そして、少年が進んだ分だけ、少女も後退する。少女は、威嚇するようにずっと唸っている。

 そして、少女の後がそろそろ無くなるか、という時、

「ッあぁん!」と、やけに艶っぽい悲鳴を上げた。急に座り込んで左足を庇う仕草を見せる。

 すぐに、ガラス片を踏みつけてしまったのだと解る。

「あ、おい! 大丈夫か?」

 ウェイルは少女へと駆け寄った。こんな不衛生な環境で、裸足でもろにガラス片を踏んでロクな事になる訳がない。手当てと消毒が必要なのは火を見るよりも明らかだった。

「おい、傷を見せてみろ……って言ってもわからないか。はあ……仕方ない」

 言って、少年は半ば強引に少女の傷を見ようとするが、当然少女は抵抗した。その動作には一切の遠慮が無かった。ウェイルの顔に、胸に、あるいは腕に足に、至る所に攻撃がくわえられる。

「うわッ、痛ぁ! 馬鹿! 止めろ!」

「あぁあ! あー! むっー!」

「わっかんないよ馬鹿! ちゃんとした言葉を喋ってくれよ!」

 ウェイルが語気を荒げると、少女は抵抗を諦めたのか少し大人しくなる。おそらく怯えているんだろうな、とは思ったが、今はとにかく大人しくしてくれている方がありがたい。ガラス片が刺さっているだけならなんとかなるが、中に食い込んでしまってはここでは手の施しようが無いのだ。暴れられては困る。

「よーしよしよし。大人しくしてるんだぞー……」

 まるで、怪我を負って気が立った動物の治療でもしている様な気分だった。あちらが警戒している以上に、実はこちらの方が恐怖に耐えている、そんな状態だ。

 そうしてウェイルは、暴れる少女を宥めすかしながら何とか治療を施していく。

 傷は思った程深くなく、治療自体は簡単な物で済んだ。が、途中、刺さったガラス片を抜く際や、消毒液を塗る際に相当に暴れられたお陰で、ウェイルの顔にはいくつものアザが出来上がっていた。

(我ながら何やってるんだかなあ……)

 少女の足にしっかりと巻かれている包帯を見て、内心でぼやく。完全な慈善事業だ。包帯も消毒液もタダではないのである。挙句、暴れ続ける少女を見かねて、即効性の痛み止め──半ば麻薬に近い危険なモノ──まで与えている。正直、かなりの大赤字であった。ただ逆を言えば、以前からの習慣で常々救急用品一式を携帯していたのが幸いした形でもある。

(まあ、ちょっとした善行って所かなあ……。ほっとく訳にはいかないし)

「……、にしても、何なのキミは」

 少し離れた所で警戒心を撒き散らしている少女の方へと声を掛ける。とはいえ、答えはまず返ってこない。

(──中々可愛い顔してるなあ)

 おそらくは栄養失調、栄養不足のせいだろう、少女はそれなりにやせ細っていたが、それでも艶やかさを失っては居なかった。

 治療を施す、というある種の崇高な行為の最中には義務感が表に出ていたのだが、それがなくなったせいか、ウェイルの中に邪な、そしてある意味では非常に健全な思考が芽生え始めた。そもそも、少女の格好は半裸に等しいのだ。年頃の少年であるウェイルには刺激が強すぎた。

(何考えてるんだよ俺は……。盛りの付いた猿じゃないんだから……)

 想像力の獣がご大層な翼を広げてウェイルの中で羽ばたきだす前に、頭をよぎった考えを、首を振って追い払う。

 見れば、少女が少年を顔をじっと見つめていた。

「な……なんだよ?」

「むー。ん!」

 心なしか嬉しそうな声(?)を上げて、少女が笑って見せた。

「あいにくと笑顔はお金にならないんですよー、ってか……」

 ウェイルはそう呟いたが、その顔には笑顔が浮かんでいた。

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