萌絵が濃野祐樹としゃべったことはあまりない。昨日みたいな事務連絡系の会話は割とよくするのだが、打ち解けて話すには程遠い。唯一、まともな会話らしきことをしたのは、二年生になったばかりの四月だった。

 その日は、先輩方が修学旅行に行って学校を留守にしている二日間のうちの一日目だった。もう仮入部期間は終わっていたがパート割は決まっておらず、先輩としての経験の少ない二年生が一年生に楽器体験をさせていた。

 この時萌絵は自身の所属するクラリネットパートと、二年生のいないフルートパートの面倒を見ることになった。クラリネットの希望者はゆずの一人だけだったが、フルートの希望者は二人もいた。入部したのが十人前後だったからまぁまぁの人気だ。

 萌絵は最初、まあ何とかなるだろうと楽観視していたのだが、徐々にそうも言えなくなっていった。自分も吹くクラリネットについてはまぁ教えられるのだが、萌絵はフルートの吹き方など何一つ知らなかった。フルートの先輩は楽器の構え方ぐらいしかまだ教えていなかったようで、一年生たちは音もろくに出せていなかった。さらにハーモニーディレクターの片づけ当番と窓閉めの見回り当番に当たっていることが発覚した。まさに泣き面に蜂というやつだった。

 慌ててハーモニーディレクターを出し、フルート希望の一年にはパートの備品の初心者向けの教本を見せて自習させた。本当に困ったのは、まだ本格的に活動に参加していない一年生たちが、早めに帰っていった後だった。一年生たちは使った楽器をそのまま教室におきっぱなしにしていっていた。フルートの片づけの仕方など萌絵は全く知らなかった。ほとんどつかってないハーモニーディレクターもそのまま置きっぱなしになっている。一人取り残された教室で萌絵は頭を抱えた。

 一人さっさと片づけを終えた濃野祐樹がパート室の前を通り過ぎたのは、ちょうどその時だった。濃野祐樹は部活動見学開始早々に、平本君という小柄な男の子を捕まえていて、今日はその子と二人で練習をしていたようだった。自分のオーボエの楽器ケースを胸に抱え平本君のファゴットの楽器ケースを左手に持った濃野祐樹は、入り口に立って教室の様子を一瞥してからじろりと萌絵の方を見た。

「今日はクラがハモデ(ハーモニーディレクターの略)当番だったんだ。あと――高木はフルートの面倒も見てたんだっけ。」

 萌絵が無言で頷くと、濃野祐樹はそのまま萌絵に背を向けて教室を出ていった。

 なんだよあいつ、と文句を言いつつ、萌絵はのろのろと立ち上がって自分とゆずのが使っていたクラリネットを片付け始めた。時刻は六時を回ったところで、十五分から始まるミーティングには遅れそうだった。

 楽器を解体し、スワブを通し、キィーを磨く。クラリネットが片付いた時、何の前触れもなく教室の戸ががらがらと音を立てて開いた。

「高木、」

 濃野祐樹だった。

「コグスリと交渉してきた。窓閉め当番、特例でミーティングの後でかまわないって。」

「え?」

「窓閉めの見回り当番もかぶってんだろ、今日。――おい、ハモデ持ってってくからな。」

 濃野祐樹はそう言うや、ハモデをケースにしまって持っていった。それと入れ替わるように副部長の今野衣菜歩こんのいなほが教室に入ってきた。

「萌絵ちゃん、片付け大丈夫?私、フルートの片づけの仕方、知ってるからやるよ。」

 衣菜歩はそう言ってフルートを片付け始めた。

(――濃野君だ。)

 萌絵が教室で途方に暮れていたことを知っていたのは、濃野祐樹一人だけだ。濃野佑樹が手を回してくれたに違いない。

 萌絵は、片付けをしている衣菜歩を片目に譜面台を片付け始めた。時刻は六時十分を過ぎたところ。萌絵はひたすら手を動かす。

 萌絵が三台目の譜面台を片付け終わった頃、ハモデを片付けてきた濃野佑樹が教室に入ってきた。

「どう?おわりそう?」

「なんとか。ごめんね、濃野君。」

 衣菜歩のことも含めていう。

「いや、俺は大丈夫。ーー衣菜歩、どう?」

「ーー終わったよ。・・・萌絵ちゃん、フルート持ってくね。」

 衣菜歩が萌絵の方を見てにっこり笑う。

「ごめん、ありがと。」

 萌絵がそう言うと衣菜歩は教室を小走りに出ていった。

「どう、高木?」

「もうそろそろ終わりそ……、終わったよ。」

 萌絵は教本と楽器、たたんだばかりの譜面台を胸に抱えて、小走りに教室を出る。

 教室の外にいた濃野佑樹と目が会う。

「ごめん。何かと迷惑かけちゃって。」

「いいから、早く行けってば。ミーティング始まるよ。」

 濃野佑樹は目をそらしていった。

「そうだね。ごめん、じゃあいくね。」

 萌絵は何となくおかしくなって、にっこり笑いながらそういった。


 濃野佑樹の素っ気ない態度。

 萌絵は、今までどことなく冷たく感じていたその態度も、思いやりの裏返しのように思えるようになった気がした。

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