ほのかside

 十一月二十日、日曜日。

 おねがーいしまーす、と間延びした声でみんなが言う。私――浦辺ほのかも、それに合わせて口を動かす。おねがーいしまーす

 休日の朝のミーティング。みんな、真剣な表情で先生の話を聞いている。私も真面目そうな顔をしてそれを眺める。みんなにばれないように、ちらりと斜め上にある壁掛けの時計を見る。時刻、八時三分。この調子だと練習開始は二十分ぐらいかな。そしたら昼休憩の十二時まで練習しっぱなしになるんだろうな、とか先生の話と関係ないことを考える。

 おねがーいしまーす。

 部長が本日二回目の号令をかける。それに続いて私も口を動かす。おねがーいしまーす


「ほのかせんぱい」

 部室の戸棚から楽器ケースを取り出していると、脇にいた後輩の高木萌絵が私を呼んだ。鈴を転がすような声、ってこの子のためにあるんだなと思ってため息をつく。ささやくような声で萌絵が私に話しかける。

「あの、今日どこで練習ですか。あ、あと、セクションってありますか。」

「今日は一年二組でパート練習ね。セクションは二時からサックスとイントロのメロディー合わせが入ってるよ。」

 私がそう答えると、萌絵はぴょこぴょこ跳ねるような声で言った。

「はい。ありがとうございます。」

 ありがとうございます、の後に「!」をつけるような勢いで萌絵が言う。ただし元の声がささやくような調子なので、ぱっと聞いた感じ「。」だ。ただしずっと一緒にいる私にはわかる。いま萌絵は「!」をつけるぐらいの勢いで言った。声が跳ねてる。

「あ、ほのか先輩。私先行ってますね。一の二でしたよね。準備してます。」

 萌絵が私の方を見てにこにこ笑いながら言った。

「ああ、お願い、萌絵ちゃん」

 私はにこにこと笑っているように見えるように表情に気を付けながら言った。萌絵はにこっと笑いながら部室を出ていった。

 私が再び棚に向き合った時、親友の夏梨が声をかけてきた。

「相変わらず仲いいねぇ、ほのと萌絵ちゃん。」

「いや、そんな。」

 今のは本心だ。

「でも、それにしても萌絵ちゃん可愛いね。いいなー、あんな後輩私も欲しい。」

「でもサックスも仲いいでしょ。いいじゃん、男子の後輩。」

 夏梨の後輩はテナーサックスとバリトンを吹いている男子の後輩だ。「あの下手くそどもが。」と夏梨は悪し様に彼らを罵るが、その実彼らを指導する夏梨の姿勢はとても丁寧で親切だ。なんだかんだ言って夏梨は「下手くそども」のことが大好きなこと。隣でそれを見ている私にはよくわかる。「うちの男子たちは覚えが悪くてねー。」と愚痴をこぼす夏梨が羨ましくてならなくなることがある。きっと夏梨は「下手くそども」の先輩でいられるこの時間が、愛おしくて愛おしくてたまらないんだろう、と。そして、残念ながら私は、全くを持ってそうは思えないのだ。

「うちの奴らは生意気すぎんの。まったく。私のことせんぱいだって認識してないんだよ。もっと尊敬しろっつうの。」

 夏梨はおもむろに楽器を戸棚から取り出していった。

「だから萌絵ちゃんみたいなの見ると癒されるだよー。がんばってね、ほのかセンパイ。」

 じゃあね、と手を振りながら夏梨が部室を出ていく。笑顔の夏梨が完全に私の視界から消えると、私は楽器ケースを目の前にしてはぁ、とため息をついた。

 高木萌絵に癒される?あんな後輩、私も欲しい?

 夏梨のそれは、いわゆる「他人の芝生は青く見える」だ。私は今、そんな風にはつゆほどにも思わないのだ。


 どこか、ここでないどこかに行きたい。

「可愛い後輩」である高木萌絵や、型通りの「親友」の小野崎夏梨のいる「浦部ほのか」の世界でない、どこかに行きたい。どこか別のところに、行きたい。

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