2
「萌絵ちゃん‼」
悲鳴が聞こえて、萌絵はようやく自分が床に座り込んでしまったことに気が付いた。
「萌絵ちゃん!大丈夫!」
「すいません。大丈夫です。」
そう言って、立ち上がる。
「本当?保健室行かなくて大丈夫?」
「いえ、全然。」
立ち上がりながらスカートについたほこりを払った。視界が不安定にくらくらと揺れている。頭の芯がぼうっとしていて、夏梨先輩が心配そうに顔を歪めているのがどこか遠くに見える。
目の前に広がるのは、ほのか先輩のいない、だけどいつも通りの放課後の部室。みんなにとって、特に変わったことのない放課後。わいわいがやがやとはしゃぎまわる声、顔を寄せ合って練習の打ち合わせをする先輩方。自分のその日常に戻らなきゃ、と萌絵は頭をぶんぶんと振る。
そう、ほのか先輩は、今、学校を休んでいる。
あの日――、萌絵にトイレで『いなければいいのに。』といった翌日、ほのか先輩は学校に来なかった。
ほのか先輩は――、あの後、家で手首を切って自殺を図った。発見が早かったらしく一命をとりとめたが、その後もずっと学校を休んでいる。あのトイレであったのを最後に、萌絵はほのか先輩の姿を見ていない。
今は、ほのか先輩が学校を休み始めてから一か月後の六月十五日。あの、五月の薄暗いトイレでほのか先輩と別れてから一カ月と一日。
「もえせんぱい。」
ちょっと舌足らずな、幼い声が萌絵を呼んだ。
「ゆずのちゃん。」
目の前に、萌絵の後輩、一年の
「あの――ほのかせんぱいは――。」
口を小さく動かして言う。くりくりした子犬みたいな目が、不安げに萌絵を見上げている。
「体調不良、だって。」
萌絵は極めて普通に聞こえるような声音でそういう。
「はい。わかりました。」
ゆずのはそう答えると、萌絵に一礼して、小走りにその場を立ち去った。
萌絵は、ほのか先輩が学校を休み始めてから、毎日欠かさず職員室に欠席の理由を聞きに行っている。もう、おそらくほのか先輩は学校に来ないこと、『体調不良』以外の理由を先生が言うはずないということ。わかっていながらも萌絵はそうすることをやめられなかった。
きっとそれは、そうすること以外に、萌絵がほのか先輩とかかわる機会がもうないからだ。このまま萌絵が欠席の理由を聞きに行かなくなれば、そこにほのか先輩がいないことは『当然』のことだということになってしまう。そうなってしまったら、もう、萌絵からほのか先輩にかかわる機会は永遠に奪われてしまう。
きっとそれは、毎日のように萌絵にほのか先輩の不在の理由を聞く、ゆずのも同じだった。
「おい、高木。」
練習場所として割り当てられている教室に向かっていると、階段の踊り場でオーボエを吹いている
「夏梨先輩何処にいるかわかる?――この前クリペ借りたんだけど、返すの忘れちゃってて。」
「ああ、夏梨先輩なら一の三だよ。私一の二行くついでに途中寄るから、何なら預かるけど。」
「ああ、じゃぁ、お願いするね。よろしく。」
萌絵にクリペを渡すと濃野祐樹はそのまま立ち去って行った。
夏梨先輩と濃野祐樹は別に特に仲がいいわけじゃないと思う。しゃべっているところを見たことない。その先輩からものを借りる、ということ。その距離感。
改めてすごいな、と感じる。その余裕、自信に。
そういえば、ほのか先輩は濃野祐樹と割と仲が良かったな、とぼんやり思い出しながら、萌絵は廊下をふらふらと歩いて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます