「萌絵ちゃん‼」


 悲鳴が聞こえて、萌絵はようやく自分が床に座り込んでしまったことに気が付いた。

「萌絵ちゃん!大丈夫!」

 夏梨かりん先輩が駆け寄ってくる。

「すいません。大丈夫です。」

 そう言って、立ち上がる。

「本当?保健室行かなくて大丈夫?」

「いえ、全然。」


 立ち上がりながらスカートについたほこりを払った。視界が不安定にくらくらと揺れている。頭の芯がぼうっとしていて、夏梨先輩が心配そうに顔を歪めているのがどこか遠くに見える。

 目の前に広がるのは、ほのか先輩のいない、だけどいつも通りの放課後の部室。みんなにとって、特に変わったことのない放課後。わいわいがやがやとはしゃぎまわる声、顔を寄せ合って練習の打ち合わせをする先輩方。自分のその日常に戻らなきゃ、と萌絵は頭をぶんぶんと振る。


 小野崎夏梨おのざきかりん先輩は、ソプラノサックスを吹いてる三年生――萌絵の、一個上の先輩。ほのか先輩と大の仲良しだった。萌絵もその関係で、夏梨先輩とは仲が良い。夏梨先輩は、頼りにしていた親友の穴埋めで大変だろうに、いつも萌絵を気遣ってくれる。萌絵にとって、それはありがたいような、申し訳ないような、なんとも言い難いものだった。萌絵一人ではどうにもならないようなところのフォローもしてくださったこともあり、感謝してもしきれないのは事実だった。一方で、夏梨先輩にほのか先輩の代わりなどできない、と失礼なことさえ考える。


 そう、ほのか先輩は、今、学校を休んでいる。

 あの日――、萌絵にトイレで『いなければいいのに。』といった翌日、ほのか先輩は学校に来なかった。


 ほのか先輩は――、あの後、家で手首を切って自殺を図った。発見が早かったらしく一命をとりとめたが、その後もずっと学校を休んでいる。あのトイレであったのを最後に、萌絵はほのか先輩の姿を見ていない。


今は、ほのか先輩が学校を休み始めてから一か月後の六月十五日。あの、五月の薄暗いトイレでほのか先輩と別れてから一カ月と一日。



「もえせんぱい。」

 ちょっと舌足らずな、幼い声が萌絵を呼んだ。

「ゆずのちゃん。」

 目の前に、萌絵の後輩、一年の橋本はしもとゆずのが立っていた。

「あの――ほのかせんぱいは――。」

 口を小さく動かして言う。くりくりした子犬みたいな目が、不安げに萌絵を見上げている。

「体調不良、だって。」

 萌絵は極めて普通に聞こえるような声音でそういう。

「はい。わかりました。」

 ゆずのはそう答えると、萌絵に一礼して、小走りにその場を立ち去った。


 萌絵は、ほのか先輩が学校を休み始めてから、毎日欠かさず職員室に欠席の理由を聞きに行っている。もう、おそらくほのか先輩は学校に来ないこと、『体調不良』以外の理由を先生が言うはずないということ。わかっていながらも萌絵はそうすることをやめられなかった。

 きっとそれは、そうすること以外に、萌絵がほのか先輩とかかわる機会がもうないからだ。このまま萌絵が欠席の理由を聞きに行かなくなれば、そこにほのか先輩がいないことは『当然』のことだということになってしまう。そうなってしまったら、もう、萌絵からほのか先輩にかかわる機会は永遠に奪われてしまう。浦辺うらべほのかという人間は存在しても、吹奏楽部にいる『ほのか先輩』は、永遠にいなくなってしまう。

 きっとそれは、毎日のように萌絵にほのか先輩の不在の理由を聞く、ゆずのも同じだった。



「おい、高木。」

 練習場所として割り当てられている教室に向かっていると、階段の踊り場でオーボエを吹いている濃野祐樹ののゆうきとすれ違った。濃野祐樹は萌絵と同じ二年生。愛想が良くて先輩からの受けは良い。

「夏梨先輩何処にいるかわかる?――この前クリペ借りたんだけど、返すの忘れちゃってて。」

「ああ、夏梨先輩なら一の三だよ。私一の二行くついでに途中寄るから、何なら預かるけど。」

「ああ、じゃぁ、お願いするね。よろしく。」

 萌絵にクリペを渡すと濃野祐樹はそのまま立ち去って行った。


 夏梨先輩と濃野祐樹は別に特に仲がいいわけじゃないと思う。しゃべっているところを見たことない。その先輩からものを借りる、ということ。その距離感。

 改めてすごいな、と感じる。その余裕、自信に。


 そういえば、ほのか先輩は濃野祐樹と割と仲が良かったな、とぼんやり思い出しながら、萌絵は廊下をふらふらと歩いて行った。

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