【下書】開示:3月26日深更 3

 浅倉くんの唇がはなれたのはミズキさんが寝返りをうったからだった。私たちは顔を見合わせてそっとベッドから離れてソファに座った。

 なんとなく、そのままキスするのかなと思っていたら浅倉くんが妙に真剣な顔つきでいた。あ、これは何か言いたいんだなと思ってキスをねだるのをやめた。

 ほんとはさっきよりずっとリラックスしてたからそういうことをしてもいいように思ったのだけど、浅倉くんのほうはどうやらそうではなかったようだ。

 そしてそのとおり、浅倉くんは意を決したふうな顔つきで私を見て、こう切りだした。

「オレ、ほんともう嫉妬深いっていうか執念深くて自分でもやになるんだけど、これを逃すと聞けなくなりそうだからきいていい?」

「うん」

 うなずいたのに、彼はまた黙り込んだ。

 うながすように首をかしげると、

「あのさ、オレ、こんな状況で聞くのもヘンっつうか、ほんっとに今さらなんだけど、なんであんた、そんなにミズキのこと心配っていうか、不安なの?」

 浅倉くんの言い分はもっともに聞こえた。ミズキさんはどう見てもこの危機的状況においてちっとも慌てないくらい精神的にも肉体的にも強い。まあでも、こういうときにパニクらないっていうのはやっぱりアブナイひとだと思うけど。それは本人も、目の前のひとも充分に理解しているだろう。

「……人間て、わりに簡単に死ねるんだよ」

「や、それはそうだけど。こいつけっこうしぶといよ?」

「うん。でもね、人間て好きなものと引き離されたり自分から離れたって思うだけで、ほんとに簡単に死にたくなるんだよ」

 浅倉くんがいぶかしむように目を細め、それから、ああ、と濁った声をもらして額に手をあてて私を見た。

「それ、もしかしなくても、あんた自身がそうだから、か」

「うん」

 笑った。

 笑えた。

 おかしかった。

 ほんとうに、本当に、おかしかった。

「あのね、もうしばらく前になるんだけど、サンドロ・ボッティチェッリのかいた《神曲》挿絵が全部、一同に揃う展覧会がロンドンであったの。でもね、私、行かなかったの。見に行きたかったんだけど、でも、職場でちょうど揉めてて休めるような雰囲気じゃなくて。親も病気してたりして。でも、ほんとは会社行くの辛くて、ひとに迷惑かけて辞めてもいいと思うほど行きたかったはずなの。でもね、私、自分がそれを見てどうするんだろうと思ったの。べつに研究者でもないし画家でもないし、そんなの見て、どうするのかって思っちゃったのよ。カレシにもフルタイムで働かなくてもいいよみたいに言われて、あ、けっきょくそのひとにもふられたんだけど、私、その後しばらくてして自分が何のために生きてるのか、よく、わかんなくなっちゃったんだよね。結婚できないってことや、仕事のことや、自分の将来のこと考えて嫌なことしかないような気がしたの。

 体調崩して、病院たらい回しになって、まあけっきょく仮面うつ病って診断されて、で、もうそのときにはよくわけわかんなくなってて、一年半くらい休んで少しよくなってから私、大学に行って教授に会ったの。《神曲》の話はしなかったけど、先生、いろんな事情察して、それで就職先紹介してくれたの。まあそれが元カレの会社で、お嫁さん探してたっていう理由もあったんだろうけど、のんびりしたとこあって、ゆるゆる仕事するのにちょうどよくて、ほんと、有り難かった。ただ、そこ以外のところもふつうにコネなしでも受かってたの。でも、受かってしまうことが怖かった。自分に何を期待されているのかわからなかったし、ちゃんと前みたいにできるか不安だったんだよね。そういう、なんていうのかな、表向きちゃんと出来ちゃう自分の外面よしなところが問題なのはわかってたし。

 まあそれはともかく、ホントの問題はそこじゃなくて、かっこつけてたところのことじゃなくて、いや、人間かっこつけられなくなったら終わりなところもあるしいわゆるそこらへんは程度問題というか、認知の歪みだし、生活態度というか身の処し方のことで、わりと誰でも納得できるというかみんなが多かれ少なかれ抱えてる問題で、けど本質的な問題は実はそこじゃなくて。私が私を生かしておきたくなくなったのはそこじゃなくて……。

 ただ、見れば、よかったの。見にいって、歓んでくればよかっただけなんだよね。ああ、いいもの見たなあって、それだけでよかったの。美しいものを見れるっていう、それ以上のことってなかったのに、私、それができなかった。

 私がそれを好きで愛してて、見ることで、ただそれだけでこれ以上なく幸福だって思ってたはずなのに、それさえも、わからなくなってたんだよね。見たかったっていうだけで、それを人生の役に立てようとか意味があるとか考える必要なんかなくて、好きなんだから、何をおいても見に行けばよかったの。誰かに義理立てすることもなくて、遠慮することもなくて、バカじゃないのって言われても、バカになるくらい好きなものなんだもん、見ればよかったの。でもね、そう、そのときは思えなかった。

 こわかった。そのひとと結婚するのもほんとはイヤで、でもなんか自分にもマトモな将来が欲しくて、絵を見にロンドン行きますっていうんじゃなくて、彼のおうちに挨拶いくほうが大事だと思おうとして、でもやっぱり、そんなふわふわした気持ちじゃダメなんだよね。浮ついてるのちゃんと見抜かれて、責められて、別れちゃった。いいひとだったのに。次男で埼玉に住んでてお勤めも安定してて、母がすごく残念がったし、いやらしいけど、私も自分で失敗したって思ったの。三十だったし、もうこの先、結婚相手としての価値はどんどん下がるっていうのは理解してたから。

 ……私、自分がうつ病だったし友達にもいるし、あと、たぶんこれが怖かったんだろうけど血の繋がった親戚で自殺しちゃったひともいて。それに、そうじゃなくても三十代の死因の一位って自殺だもん。死にたくなることはなかったけど、生きていてどうなるんだろうって思うことは何度もあった。通勤電車が飛び込みで止まるたびに、みんなチッって舌打ちして他所でやれよってムカついてたけど、私、どうしてひとが死んでるのに傍迷惑な馬鹿な奴だって言えるのかわからなかった。あれって死ぬのが愚かだっていう意味で言ってるんじゃないじゃない? 万が一、万が一だけど、自分の友達や家族や知り合いだったらどんな気持ちがするだろうって。もしもだけど、自分がそんなふうに思ったあとそこで亡くなったひとが自分の知ってる大事なひとだってわかったら、自分で死にたくなっちゃう。

 ミズキさんは……ミズキさんはね、私がいないと生きていけないってくりかえしながら、いないでも生きてけるように、私が浅倉くんと一緒になっても自分がそれを見ないですむようにっていつも考えてた。もしこうなったら、もしこうならなかったらって、ありとあらゆる方策を練って、駄目になったときのことばかり考えて、それで自分を殺してて、見てるとすごく辛かった。

 浅倉くんと比べてほしいっていう希望は、私を試してるんだとわかった。実際そうやって昨夜、試された。彼のなかでも私の位置づけはどこなのか決まらなかったんだろうし、でも、昼にこの事務所で、それでも私が欲しいってミズキさんが言うんだから、ていうかそう彼が言えたのだから、ミズキさんを選ぼうって思ったの。

 私は、ミズキさんに助けてもらったと思ってるの。たぶん私も、彼にやりたいならやればって言われなければ、自分が愛してるものから距離を置いて、ものすごい欲求不満をもったまま、それを八つ当たりして発散できなければ死にたくなってただろうし、自分が死にたくないのなら子供や夫にでもぶつけてただろうって想像できる。自分をちゃんと生きてないと、自分に酷いことするか他人に酷いことするかのどっちかなのよ。私、それはわかってて、わかってるけどでも、どうすることもできなくて。

 両親ともが死ぬかもしれない病気になったとき、私、親の心配するより、彼らがいなくなったら私どうなるだろうって、そればっかりだった。自分の支えがなくなるみたいで、もう親のほうが弱くなってて私が支えて守ってあげないといけないのに、私、その不在を思うだけで耐えられなかった。友達はそういうことをちゃんと立派にやってるのに、私は自分がお母さんしんじゃヤダ、お父さんしんじゃヤダってことだけなんだよね。夫でもいれば、少しは違ったのかなって思ったりもした。自分を預ける相手がいないっていうことが怖くなっただけで、親も、自分の不安解消のための避難場所くらいにしか思ってない自分の弱さがほんとに嫌になった」

「でも、あんた、ちゃんとそのときは」

 浅倉くんがそこではじめて口を挟んだ。私は笑ってみせた。

「そのときはさすがにそんなこと親には言わないよ。病院にも通ったし、知り合い頼ってけっこうな名医にも診てもらったし、でも、そのあとぐだぐだになっちゃったんだよね。そうやってやれたような気がしたのに、なんかでも、家出てちゃんと自活してやってるっていう自信もふって何もなくなってしまったの。なんていうのかな、わからないけど、ともかく、何かの渦中にあるときにはどうにか対処できるけどそうじゃなくなった瞬間に糸が切れるみたいな感じなのかな。そう、ミズキさん、ミズキさん見てるとなんかこう、泣きたくなるっていうか。私がそうやって緊張してた時間のもっと凄い高いテンション、ものすごい緊張をあの能力があるからそれで乗り切ってしまってるのが透けて見えて、それでもうたぶんほっとけない気持ちだったのもある。

 あのね、まだ二十代のときさいしょに借りたアパートの隣に住んでる女の子のカレシが暴力男でね、夜中に凄いことになってて、警察に通報したほうがいいのか真剣に悩むくらいで、不動産屋の担当者にDVとは言えないけど騒がしいってことは話したり、それこそ巡回できたお巡りさんにも話を聞いてもらったのに、あれって、女性のほうからちゃんと助けてって言わないかぎりはどうしようもないみたいなのね。だって、鍵を彼女が自分で開けちゃうのよ。担当のひとは連絡もしたって言ってその後も心配して電話かけてくれたりもしたんだけど、でも、そんなこと言ってきたのって私だけだって聞いてびっくりして。そりゃ毎日騒がしいわけじゃなくて、カレシがいるときに限ったことだし、もしかするとみんな眠ってて気がつかないのかもしれないしってすごく悩んだ。そういう趣味のひともいるんだろうし、プライヴァシーに関することで突っ込んじゃったのかなって失礼なことをしたような気もした。けっきょくなんだか耐えられなくて、そこを二ヶ月もしないで出ちゃったの。私いまでも、ほんとに何にもしないでよかったのかわからないし、もちろんそんなのお節介なのかもしれないし……それに、相手の男とすれ違うことがあるかと思うとそれも怖かった。自分から家出るっていって名の通った不動産屋さんで治安だって悪くないところを選んだはずなのにそんなとこで、それで出戻った無力感もあったし、いつでも、何かに負けまくって生きてる気がした」

 その、負けまくって生きてる感じが、いつでもミズキさんから漂っていた。

 どう見ても考えても、彼には負けている要素がないというのに、本人は何故かそう思っていて、いや、本人だって自分を客観視してそんなことを思う必要はないと理解しているはずなのに、どうやってもその自分像を訂正できないでいた。

 愛されているという自覚があるかどうか。

ただその一点が満たされないだけで、ひとはどんなにでも孤独になれる。でも、そう認められない。

あまりにも長い間それを望みすぎ、それが叶わないことで恨みすぎたから。

つまりはたくさん求めてたくさん許してたくさん愛しすぎたから。

ありのままの現実を受け止めるだけの力が、彼にはない。

私にも、ない。

いや、なかった。

ただ、自分が愛するものから遠く離れたことを自身で悔いることができるだけの余力がまだ自身にあると知って、私は、取り縋り、追い求め、みっともない姿を晒しそれで自分の望みが手に入らないことを恐れても意味はないと気がついただけだ。

いつか死ぬなら、欲しいものを欲しいと言わずにどうすると、欲しいものを得るために生きているのだと認めようと思った。手に入るか否かは、私の決めることではないと、ようやく、自分がじぶんの「神様」ではないと悟ったのだ。

「……ああでもオレも、あんたに会わなきゃけっこうヤバイとこあったかも」

 私はそこで浅倉くんの顔をのぞきこんだ。彼は照れ笑いすらしなかった。私をまっすぐに見た。

「オレ、ほんとあの頃、あんたに会えるの楽しみで、毎日生きててよかったって真面目に思ってた」

「女の子みたいなこと、言うね?」

「そこは男女の別はないよ」

「でも」

「だってあんた、我が世の春を謳歌してるっていうかさ。あんたの好きな画家の、日本に一枚しかない絵を見てきたってものすごく興奮したりして、なんか凄く面白いっていうか可愛いっつうか、ほんとに楽しく幸せそうに生きてるなあって、オレ、見てるだけでかなり幸せだった」

 それは、《美しきシモネッタ》のことだ。

「日本には、一枚しか、サンドロの絵はないのよね。商社が持ってるの。父に頼って見せてもらったんだけど、私、そのためだけにあの会社に入りたいって思った。たぶんそれじゃ仕事にならないって冷静になったし、卒業してただのOLになる私がそんなに絵のことでどうこうするっておかしいと思ったの」

「でも、あんたほんとに絵が好きじゃん?」

「うん」

 泣けてきた。笑うはずが、泣いてしまう。馬鹿みたいだ、ほんとに。ほんとにほんとのばかみたいだ。

「……絵が、好きなの。絵をかくのも見るのも、大好きなの。でも、そう言えないしそう思うことがおかしなことだって思うときがあったんだよね。高校生のときも私程度の人間が美大に行ってどうするんだろうって思ったし、といってきっぱり忘れられもしないでひとりでこっそりかいて、友達に押しつけて満足したふりで、本気でやるのがこわくて……すごい、ものすごい卑怯者でどうしようもないくらい弱虫だった。才能がないとかこんなレベルじゃ恥ずかしいとか言い訳ばっかりで。カレシとかにも絵は好きでかいてるってことは言えても、趣味だからって。誰かに、色んなひとに褒められてもおだてられても嬉しいとかって素直に思えなくて、ううん、嬉しくないわけじゃないんだけど、だってこんな中途半端でどうしようもないとしか感じられなくて。でもありがとうっていって笑顔でうれしがるふりをして、ひとりになると凄く惨めになって。どうしようもなく傲慢で、みっともないって自分でもわかってるんだけど、どうしたらいいかわからなくて。ううん、そういう感情すら見ないようにしてた。たぶん。なんにもわかりたくなかった。でもたぶん、どこかで限界だったの。それにね、才能とか運とかともかく何かに恵まれていないからって、それを恨んで諦めてるのは情けないよね。私が愛してるんだから、そのことを恥じてはいけなかったのよ。恥じないでいいくらい、自分がちゃんと、相応しいように生きていればよかったの。

 私、それをちゃんと教えてくれようとしたのがミズキさんだって思ったから、だから……」

 そこで浅倉くんが何か、口を開きかけた。

「浅倉くん?」

「いや……その、うん。それは、よくわかるよ。ミズキはいつでも本気で生きてるから。けどさ、好きだからこそ逃げたくなることもあるじゃん?」

 浅倉くんが目を泳がせていた。かわいかった。ものすごく、かわいかった。

「私、いっつもそんなのばっかりだよ」

 声をあげて笑いそうになった。

 いつでも、いちばん好きなものから逃げてきた気がする。

「……オレ、ほんと、逃げ出さないで好きっつってよかった」

 ものすごくほっとした顔で口にしていた。

 私たち、この今になって何を言い合っているのだろうと思いつつ、なんとなく息をするのが楽になっていた。なのでためしに聞いてみた。

「ねえ、私から聞いてもいい?」

「ん?」

「私とミズキさんの似てるとこって、弱虫なとこ? それで好きなの?」

「違うよ。あんたら二人してすげえ勇敢だし、その」

 彼はそこで言いよどんでちらと、眠る麗人のほうへ顔を向けた。その横顔にうかぶ感情をなんと呼べばいいのか私にはわからなかった。やさしい、ううん、やさしいだけじゃなくて。

 たぶん、その一瞬、私はきっと彼らの関係に嫉妬したのだと思う。浅倉くんはすぐそれに気がついた。私へと向き直った。でもそれを言わず、私の欲していたこたえを口にした。

「こいつ秘密にしてるけど、あんたと同じ生年月日なんだよ」

 そういうオチですか、と誰にともなく言いたくなっていた。いや、そういうオチっていうのもなんだけど。オチ、いや、オチなのか。わからない。

「オレは仕事の関係でそれ知ったんでまあ正直すぐにも似てるって意識したわけじゃなかったけど、音楽のつながりで知り合ったのに実は絵が好きなんだって聞いて、あんたが好きだって言ってた画家の名前が出たりして……それでまあ、なんつうか……」

 照れたのか、それとも気まずいのか、浅倉くんがうつむいた。

 ミズキさんが「運命」などという気恥ずかしい言葉を臆面もなくくりかえした理由がようやく腑に落ちた。ロマンチストだなあ、まったく。同じ星のしたに生まれたからって、それがすなわち「運命の人」なわけないじゃないか。というより、そういうのは実は相性が悪かったりするんじゃないかしら。どうなんだろ? ていうか、あまりにも少女趣味でオカルティストすぎてちょっと引いたぞ、私。

 浅倉くんは浅倉くんで向こうのベッドを遠くに見やりながら続けた。

「こいつと働くの、楽しいんだよね。あんたもそうだったけどオレの使い方よくわかってるし、やれること示してくれるし、オレは人の為に動くほうが楽っつうか、それで自分がどんだけできかはかるのが好きなんだよね。自分の希望でやること自体が面白いっていうより、自分が何かをやれることで燃える、期待に応えるのが好きなとこをどんどん刺激してくるからほんと、離れらんないっつうかさ」

「ミズキさん、なんだか麻薬のような魅力があるよね」

 麻薬なんて試したことないけど言ってみた。クラックをすすめられたことはあるけど、やらなかった。まあでも、ミズキさんが人誑しなのはよくわかる。

「ミズキはひと捕まえとくの巧いしね。じわじわ追い詰めてくるんだよ」

「迫られたことあるの?」

「や、仕事でね」

 彼は軽く首をふって、でもだいたい、わかるよ。そう、低い声で漏らした。

 浅倉くんがひとつ吐息をついた。

「あんたはほんとよくこいつから逃げ回ったと思うよ」

「それを言うなら浅倉くんもずいぶんだったけど?」

「オレはそうでもなかったよ」

 まさかあれで手加減してたとか言わないよね?

「考えてる余裕なかったから。や、考えたかな。でも、ここでいっとかないと死ぬまで後悔するってことはわかってたし、初めてコクってからずっとうじうじ悩んで我慢した分だけ、こいつよりオレのほうが権利あるだろって思ってた。客観的に見てあんたがミズキとのほうが幸せだとしても、オレの幸せのほうが大事って思ってたし、あんたはあんたで絶対に自分の幸福を諦めるタイプじゃないから、まあいいやって最後は押し切った」

 それ……。

「オレ、ほんと自分勝手だからさ。もう実は初めから、あんたの強いとこに甘えて頼ろうと思ってたんだよね。オレのほうがずっとかわいそうなんだよって泣けば絶対に堕ちてくるって思ってたから」

「でも浅倉くんは、泣かなかったよね?」

「だね」

「なんで」

「……なんで、だろうな。オレ昔から、ほんとにあんたとやりたいってことばっかで、でもあんたがそう思ってないのもわかってて、我に触れるなノリ・メ・タンゲレってされるほど余計煽られる自分が嫌だったからかな。それだけじゃ駄目だって考えて、自覚してたつもりなのに、そう思ってたくせに、あんなに緊張してたあんたを昨日、やっちゃったんだけどね」

 あ、なんだこれ。

 こういう謝罪みたいなのは許し難いと思っていたはずだけど、なんとなく、謝罪じゃないのかと考え直した。たぶん、そういうんじゃないんだろう、きっと。

 だから、一呼吸おいてこたえた。

「……嫌じゃ、なかったよ」

 顔を見られた。

「その、学生時代みたいにセックスがこわくて緊張してたわけじゃないし」

 まだ、見つめられていた。

「……めちゃくちゃにされたわけじゃないし」

 そこで、軽く笑った。

「そうしないように我慢したからね」

 こくりと頷くと、真顔で問われた。 

「でもほんとはミズキの言うように、ちゃんとこいつと話してからしたかったでしょ?」

「そう、だね」

 今になって、素直に言えた。

 もちろん、こんなことを話すのはどうしようもなく今さらだと思ったけれど、浅倉くんはきっと、その負い目があるからデキタのだということはよくわかった。この関係に甘んじているのは、そのせいもある。

「だよね。オレ、ほんともう、実際こいつの言うとおりだもん。あんたが自分に応えてくれるようになればなるほど嬉しかった」

 それは、たんじゅんに、男のひとはそうだろう。

「それに、あんたが怒るの当然で、いっつもミズキに負けるんじゃないかってことが頭にあって、あんただけをまっすぐ見てなかったかもしれない」

 おや、やっと正直になったじゃないかと思っていたら、

「こんなことがなかったら、オレたちまだ、苦しいことになってたかな」

「ドロドロの三角関係で?」

 笑って口にしたのに、彼は真面目な声でこたえた。

「うん。さっき隣で話してたときはあんたが思いつめて死んだらどうしようって思ってた」

「死なないよ、そのくらいで。たかが男二人に追いかけ回されたくらいで死んでどうするの」

 絵が見れなかったくらいで死にたくなったくせに、私は本気でそう思ってこたえた。

「でもほら、万葉集の」

「ああ。なんだっけ、手児奈だ。求婚者のせいで身投げした女のひとでしょ? ていうか、そういう時代じゃないでしょう」

 私は鼻でせせら笑ったはずだった。けれど、その鼻先にそれはきた。

「……ミズキに、暴力ふるわれなかった?」

 ひそめた声に、息をつめそうになって焦った。心配だったのは、そこか。なるほどね。

「だいじょうぶ。そんなことはなかったから」

 ウソじゃない。

 押し倒されたけど、首絞められそうになったけど、力は、篭められていなかった。いや、すでにあれは歴然と暴力だと私は認識しているけれど、ここでそうは……言えない。

 言ったところでもう、どうしようもないし。

 そんなのは、そう、そんなのはもう、野郎共の身勝手で殺されないように気をつけるだなんて身の処し方はもう、ジェイムズ・ティプトリージュニアの小説を読む前にだって知らないわけじゃい。登下校の道の途中で同い年の女の子が攫われた事件なんてのに遭遇すると、いや、その前にだって、自分が女だってことを知るずっと前にだって幾らでもそんな恐ろしい目に遭いそうになってるんだから。

 だけどそれを、いまぶつけてもしょうがない。こないだ半分くらい聴いてもらったしね。それ以上のことを明かすつもりはなかった。

「まあけっきょく、何もかも、ミズキの想うままになったってことかもしんないけどね」

 恐ろしいことに、それが、結論かもしれない。 

 それから、どこかひどく満足げな男の寝顔を見やり吐息をつく。

「こいつ、今、ほんと幸せそうだね」

 浅倉くんが呆れ声でつぶやいた。

「外は嵐だっつうのに」

 あらし、

 嵐ですむんだろうか。嵐なら、いつかやむ。たぶん、これはそういうものじゃない。

「私、天使が来てもいかない」

「なんでっ」

 浅倉くんが大声を出すので慌てて指を口の前にあてた。ミズキさんは目を覚ます様子はなかった。浅倉くんはごめんと小声であやまった。私はそれを聞き遂げてから続けた。

「もう、遅い。こうなってからじゃ、遅い。だって、獏の話じゃ、地球人類が滅びないようにっていうはずだったのに」

「や、でも、まだ生きてるひといるし、もしかするとよその国とか普通に生活してるかもしんないじゃん」

「それは、ないよ。自分だけ逃げて生き残るっての、カッコ悪いもん」

「かっこじゃなくて」

 私は頭をふってこたえた。

「ミズキさんを置いていけない。私がいなくなったらすぐに死んじゃいそう」

「オレは、いいの?」

 すこし不安なような、でもどこか媚びたような、ちょっとだけずるい顔で首をかしげてきた。

「ううん。浅倉くんにはそばにいてほしい」

 吐息のような声がもれた。抱きしめようとのばす手にすこし抗い、続けた。

「ミズキさんはそばにいたい、なの。それってヘンかな」

 彼は難しい顔をしてなにか言いかけて、でも、すぐにぶるぶると頭をふった。

「それで、いいよ。つうかもう、何でもいいです。もう、あんたがいいっつうならオレはいいよ。変なのはもう、よく知ってるから」

 どちらからともなく、顔を傾け合った。

 そっと触れ合うだけの唇がほんとうにきもちよかった。とても、やさしくてあたたかくて。 

「ミズキさんてほんとに、この状況をそんなに嘆いてないんだよね」

 浅倉くんはどうこたえようか困ったという顔で、頭をかいた。

「いや、こいつなりに嘆いてはいるよ」

「そうなの、か」

 それはそうだ。あたりまえだ。彼はけっきょく、お母さんと仲違いしたままなのだろう。

「けどもう、なに言っても無駄じゃん。もうこいつ、とりあえず自分の好きなひとと一緒にいる時間を長引かせるってことしかないって、頭、切り替えたんだよ」

「ていうか、これでほんとの意味での実力主義社会になったって思ってそうだよね」

 生き生きしているような気がするのは、ウソじゃない。さっき地図を取り出して隣のビルから地下街への通路を見つめ、略奪計画を熱心に練っていた。

 ふっと吐息をついて、絵をテーブルにおいた。 

「どうしてこんなことになっちゃったのかわかんないけど、でもまあ、私は運がいいんだろうな」

「うん。ミズキの言うこと、それだけは当たってる気がするよ」

 浅倉くんもそう言って笑った。それから目を伏せて唇を合わせる。浅倉くんが私の肩に手をまわそうとしてソファが軋み、ミズキさんがむくりと起き上がった。そして、ズルイ、仲間外れにしないで、と声をあげた。

 もうすこし寝てろよ、と浅倉くんが言うと、じゃあ見学させてもらうかな、と目じりをさげた。ごめん、私は眠るからふたりですれば、と言うと両方からブーイングがあがった。

 ふたりが騒々しくて、そのせいで外の物音が気にならなくて助かった。毛布をかぶり、胎児のように丸くなって瞼を閉じ、身体の力を抜いて、闇に沈み込もうと努力した。これとひとつになってしまえ。これと……。

 ゆっくりと、自分の輪郭を失っていくような気がした。

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