下書の開示:3月27日以降
あいかわらず金色の雨が降っていて、道路にはもう、昨日あれほどはっきりそれとわかった塊りは見えなくなっていた。私はちゃんと、外を見た。もう、見たくないとは思わなかった。見ないではいられなかった。
どこか遠くで火事が起きているみたいで幾つもの黒い煙が天へとあがっていて、ふと燃え死ぬよりはこの黄金の蜜で溶け死んだほうがましかもしれないとも考えた。
ときどき金切り声や高笑いが届くことがある。不思議なことに、子供の声は聞こえなかった。破滅した日常で、赤ちゃんの泣き声なんか耳にするのは想像するだけでぞっとした。その物音にも慣れた。
大災害のときに意外と人間というのは協力協調するものだというのを何かで読んだことがあるけれど、自然現象でない場合はどうなのだろうと考えて馬鹿らしくなった。ミズキさんはそういう私の真面目さをわらった。大災害なら人間の社会性とやらを信じてもいいという昨日の言葉をくりかえされた。私はそこにあまり執着していなかった。地震だの洪水だのが神の怒りだと思われていた時代のことを口にしようとして、そもそも浅倉くんがそういった話自体に興味がなさそうな顔をしているのを見てやめた。
私が眠っているあいだにミズキさんは一仕事こなしてきたらしく、大量の食料が隣の部屋の机に積まれていた。それを消費期限ごとに並べなおす几帳面さが、略奪者の行為とそぐわず、私はただ黙ってそれを手伝った。
「ひと、いなかったの?」
「生きた人間はいなかった」
いつもの声音だった。思わず、どんな状態なのか聞こうとした。雨で溶けてる死体なのか、それとも……
「隣の建築事務所の所長だったから、この階、たぶん、僕たちだけになったよ」
まじまじとミズキさんの顔を見た。
「刺されたり殴られたりしてたわけじゃなくて、打ち所が悪かったって感じ。殺意があって殺されたふうじゃないみたい」
冷静に観察してきたらしい。気持ち悪いとはもう、感じていなかった。
浅倉くんは黙々と、ダンボール箱に詰め込んだ品物を出していた。お店の商品棚はあらかた略奪されていたらしいけれど、店の裏手の事務所はほぼ手付かずだったそうだ。朝方それなりの時間をかけて階段で運び上げた。
夕刻、お店側のドアを激しく叩く物音がした。私たちは身を潜め、息を凝らしてそれをやりすごした。幸いなことに、あれは鉄の扉で、そうは簡単にあかない。一、二時間もたったくらいに今度は、裏口のドアをいじる音がした。こちらは脆くて、水汲みの出入り口なのでバリケードは築いていない。
けっきょくすぐに諦めたようで、突然の襲撃者は去っていった。足音はふたり組みのもので、その夜はミズキさんが応接ブースで寝ることになった。浅倉くんが交代するというと、それは昼間頼む、と一言返した。見張りならできるよと手をあげた私に、君がもう少しちゃんと眠れるようになったらねとミズキさんが口にした。ああ、それはそうだなと。我ながら本当にみっともない人間になりさがっていると恥ずかしかった。私はミズキさんの眠剤をもらってのむことにした。気が昂ぶっているのは自覚していた。胃は荒れていたけれど食欲はそこそこあった。意外と頑丈なものだと思ったのはよく覚えている。
三日目は何事も起きず、三人、穏やかに昔話をしてすぎた。浅倉くんが高校生の頃、バスで痴漢にあった体験に同情し、ミズキさんが小浜の海で流されて釣り船に救出された失敗にぞっとし、私が生まれて初めての海外でアイスクリームを買ったあとに財布を忘れたと気づいた大ボケを笑った。
四日目に、雨は大降りになった。窓に金泥を張りつけたような大雨になっていた。その頃から、金色の雨が濁りはじめた。蜜か砂金かと思うように美しかったものが、少しずつ、澱みはじめた。
私たちはそれぞれすこし距離をとり、お互い好きなことをした。ミズキさんは分厚い洋書を次々とやっつけ、浅倉くんはノートに詩を書きつけていた。
私はコピー用紙を糊でつなげて巻物状にして、そこに墨汁と筆で延々と線を引きはじめていた。疲れると手をとめて、ミズキさんが取ってきてくれた画帳にふたりの姿をかきなぐった。自分はかかないの、と問われたので唇をまげて首をふった。するとミズキさんが一枚きりとって、左手に鉛筆をもって流麗な線でかきだして私を唖然とさせた。横からのぞきこんだ浅倉くんが一言、美化しすぎだろ、と情け容赦ないことを述べて私に後ろ頭をぺしりと叩かれた。
五日目、雨は小降りになったものの、もう、金色とは呼べなくなった。暈のある金泥が街を覆っていた。雪のように音をすくいとることもなく雨音だけが響き、あれはいったいどういう物質で、なぜ色が濁っているのかと考えたけれどわかるはずもなかった。というか正直もうどうでもよかった。だって、この世界にはヒーローなんてものはいないのだ。あれを解析して救い出してくれる素敵なマッドサイエンティストもきっといない。いや、いるのかもしれないけどでも。私はもう、そういうものに期待していなかった。
なし崩しに、何もかも流され、溶かされ、どうでもよくなっていくほうが現実に即している気がしたのだ。
そういうだれきった私が止めるのもきかず、ミズキさんはビル全部の階の探索に出かけ、ひっそりと無言で戻ってきた。誰も、いなかったよ。誰もね。返事がないって、そういうことだよね。
思っていた以上にミズキさんはさびしげな顔をしていた。私は彼を抱き締めてその髪を撫でた。
そのあいだ浅倉くんは終始無言で、何かを待つような顔をして外を見ていた。
動物の泣き声が聞こえなくなったのがいつなのか、私ははっきりと覚えていない。三日目だっただろうか。
私が自分から服を脱いだ日も定かではない。
ふたりに挟まれるかたちはあまり集中できなくて、ミズキさんの提案で入れ替わった。浅倉くんを責めるのは愉しかった。ミズキさんが、君ほんと才能あるねと猫のように目を細めて褒めてくれたのが嬉しくて調子に乗って泣かせたせいか、ミズキさんが寝てるときに口を緘されて散々になぶられたけれど頭にきてよく眠れた。全身筋肉痛で翌日まともに動けなかった。
仇はミズキさんがとってくれた。
そのときに浅倉くんが、あの人に突っ込んだ後の自分のしゃぶりたいくせにと喘ぎあえぎ口にした。ミズキさんは蕩けるような笑顔で頷いた。そうだよ、とわざわざこたえたのは私に聞かせるためだった。言葉にしてしまうとたいした願望でもない気がして、それなのに実現は難しくて、私はひとりで笑った。
七日目、とうとう雨は黒くなった。黒い雨はこの世界をことごとく闇に葬り去るようで、私はもう、自分の友達、親兄弟は生きていないだろうと自分に言い聞かせた。オペラグラスで見渡すかぎり、生きて、動いているものは見えなかった。
こんなに簡単に、ひとの姿が見えなくなるなんて変じゃないかと思い始めた。そんなに人間、脆くはないんじゃないかと。
映画だって今時、もっと華々しく抵抗するのではないかって、なんでか激しく怒りたくなっていた。
「姫香ちゃん、言ってもいい?」
ミズキさんが、隣の部屋のテーブルに広げられた巻物やコラージュ、その他を見おろして腕をくんで吐息をついた。
「これ、どう見てもハイ・アートだよ。あんなにイラストレーションを描きたいって言ってて、君、ばりばりの抽象画かいてる」
「え、ああ、そうね?」
私はそういうつもりはなかったのだ。ただ、目の前にある雨を毎日、毎日、うつしているだけのことで。
浅倉くんが笑ってこたえた。
「ミズキ、たぶんこの人にとって、それ、挿絵なんだよ」
「なんで」
「だってそれ、世界が終わる物語でしょ」
浅倉くんのことばに、私は目をむいた。
「これ以上ない、最大の、最悪の、最高のおはなしじゃん」
あっけらかんと言い放たれていた。
ミズキさんが瞳を伏せて微笑んだ。なるほどね。そりゃあ、すごい。芸術家なら誰でもやりたいものかもしれないね。
私はぼうっとして、ふたりの話をきいた。
ほんとにこれが、自分がもっともかきたいものだったのだろうか。そう考えると、どこか、頭のどこかが刺すように痛むような気もした。
けれど私はそれを煩わしいと思わなかった。
ほんとうに煩わしかったのは湿り気をおびた紙が妙なふうに波打つことと、墨汁が乾ききらず掌につくことのほうだった。
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