【下書】開示:3月26日深更 2
浅倉くんの舌はやさしかった。よかった、ちゃんとキモチガイイと思えた。
目を閉じて、この部屋に自分から入ったときのことを思い出す。後ろ手にドアを閉めたミズキさんのいかにもな姿や私を抱えていた浅倉くんの手のあたたかさなどを。
ほんとうは、私がかっこよく先導をしたかったはずなのだ。けれどそうはできなかった。
私は彼ら二人だけでなく、外へ意識を振り向けることができなかった。ともかく限界だったからだと思う。
その証拠に、服を脱げなかった。
そういうことだ。
覚悟してたはずなのに、できなかった。
いざしようとしたものの、私は外の音にがたがた震え、この世が壊れていくさまに耐えられず、自分の快感をおうなんてことができなくて泣いていると、ミズキさんは嫣然と微笑んで、すごく背徳的な気分で興奮する、と口にした。
びっくりして顔をあげると、僕はだいぶおかしいひとみたいだね、と晴れやかに笑った。そして続けた。
この状況で自分が生きてて、誰にも非難されないで好きなひとと好きなようにできるって思ったら、もうこれ以上のことってない、とうっとり目を細めた。
ロマンチックと、先ほど言ったのは冗談じゃないのだと感じていると、コンビニにまだコンドームはあるよね、と私にきいてきた。
唖然とした。
抱き締めてもキスしても泣き止まない私を腕の中に入れておろおろしていた浅倉くんが目をしばたいて、それはたぶん、なくならないんじゃないか、と呆れ声をあげた。するとミズキさんは心底ほっとしたような顔で、あした僕、根こそぎ盗ってきちゃおうっとつぶやいた。そしてジャケットから腕を抜き取りハンガーへとかけた。
それから彼は私たちのほうへ向きなおった。
ゆっくりと大股で近づいて、私を背中から抱き締めていた浅倉くんの腕にそっと手を触れた。
戒めを解かれる快さで腕がはなれ、ミズキさんは部屋の奥へと進む。彼は、私に触れなかった。手を引くこともなかった。ただ歩いただけで私をそこに座らせた。
ソファへと。
そうして腰かけた私の前にミズキさんが膝をついて私の履いていた靴を脱がせた。そのまま私の左足を手の上に乗せてうつむいたまま、姫香ちゃん、と低い声で名前を呼んだ。
女のひとはこういうとき妊娠しやすいから、気をつけないと。産婦人科なんてないからね。子供を生むなんて、危険は冒せない。
それを聞いて、ミズキさんはぜんぜん、まったく、死ぬつもりがないことに気がついた。どうでもいいとか自棄とかそんな気持ちとは一切無縁なのだ。
あきらめてないの、と思わず尋ねると、彼はなんで諦めないとならないの、と真顔で問い返してきた。
僕にとっては人生最高の日々だもの、一日でも長く続くように最大限努力する以外、ないでしょ。
ないでしょ……に私は素直に心が動かされた。すこんと喉元に閊えていた何かが落ちた気がした。たぶん彼はそれに気がついた。そして毛布を広げて私をぐるりとくるみこんだ。ありがとうと呟いた私の手を握るときにはもうさっきみたいに跪いていた。
君は手足が冷たいから毛布にくるまって横になって楽にしててね。
ミズキさんは微笑みながらそう言いおいて立ちあがり、浅倉くんのライダーズに手をかけようとした。
浅倉くんはさすがに敏捷で、ぎょっとして反射的に退いたけれど、座ったままの私の視線に踏みとどまった。それから、ちょっと待て、とミズキさんに声をかけて私を見た。なんて言ってあげたらいいかわからなくて黙って見つめ返すと、ミズキさんが焦れてあいだに入り、姫香ちゃん相手に乱暴なことしたくない、こんなに緊張して怖がってるのに迫ったら本当に悪者だよ、と告げた。
少し落ち着けよ、と浅倉くんが言うと、僕はずっと落ち着いてるよ、ただ今は物凄くセックスしたいだけ、と平然とした声が返った。
ミズキさんはほんとにいつもと言うこともその調子も違っていないのに仰天し、私、外出てようか、と提案すると二人同時にダメとつよい非難の声があがる。こわい。身を竦ませると、浅倉くんは舌打ちし濁った声で呻いた。
それを見たミズキさんは悠然と、姫香ちゃんはそこにいてくれるだけでいいからとのたまった。眠れたら寝たほうがいいしともつけたした。いや、その、えっと……。はい、とでも言えばいいのかと悩みながら、ほとんど無意識に強い力で毛布の合わせ目を掴んでいた手を緩めようと努力した。
たぶん、浅倉くんはそれに気がついた。
ミズキさんもまた、浅倉くんがそれを察したことを。
浅倉くんはふいに視線を外した。
瞼を伏せて右足に体重をかけるその姿に見覚えがあると思ったのは一瞬のことだった。彼はついと顎をあげジャケットとシャツを投げ捨てて、ミズキさんにも脱げと迫った。言われたほうは忍び笑いでゆっくりと、酷くもったいぶった仕種でドレスシャツのボタンを外した。
先に壁際のベッドへ座ったのはミズキさんだった。距離が少し離れて、私は息が楽になった。
浅倉くんはほんの少し足を引きずって歩いた。
べつに雰囲気出したりしなくていいからとミズキさんがわらった。
浅倉くんの返事はなかった。
いや、あった。やや間をおいて。
つーか、どうすんだよ、と聞こえた。私は毛布をちゃんと足まで巻いてもぞもぞと横になった。それをミズキさんが見ていた。返事がないのをどう思ったのか、それとも他の理由でか、浅倉くんはベッドの前に斜めに立ったままでいた。
ねえ姫香ちゃん、君どうせ見たりしないでしょ。
それはまるで、ねえまだあの映画見てないよね、とでも問うように緊張感のない質問だった。浅倉くんが何故かこちらに顔を向けたので、私は真顔で頷いた。
ミズキさんが、君ほんとにサーヴィス精神の欠片もないねとわらった。ミズキ、と浅倉くんが視線を向けた。
ふたりが交わした目線の意味はよくわたしには理解できなかった。
座りなよとミズキさんが言った。もちろん私ではなく浅倉くんに。浅倉くんが一歩足を踏みだしたところでミズキさんが立ちあがった。足を痛めているような歩き方じゃないと感じた私へ聞かせるように足痛むだろうとミズキさんが口にした。
さっき蹴られた腹と背中のほうがいてーよ。
そう顔を顰めて言いきった浅倉くんの足許にミズキさんがしずかに両膝をついた。浅倉くんは私ではなくミズキさんを見ていた。そして、それを見る私に気がついた。
私は、浅倉くんのそのときの顔を忘れないだろうと思った。
ミズキさんが浅倉くんの膝に右手を置いたところで私は毛布を頭までかぶった。あとはもう、私がまったく知らないわけでもない、ただ私とは違う性別の人間同士がすることだとわかった。
毛布にくるまって耳を覆うとこの部屋の外の世界の音はもう聞こない。熱をもった二つの生き物のたてる音と身動きに意識を引きずられながら、同じように、自分の呼吸と鼓動だけに集中しようとした。
こういうとき、何もかも忘れるためにセックスするというのは自分にはできないのだと気づいて、そういうのは虚構のセックス神話なのではないかと思い直した。それで気持ちがいくらか落ち着いた。または、となりで立派に興奮しているひとたちがいることを思えば、自分が規格から外れているらしいとも考えた。
私は網タイツの上から足先に触れた。冷たかった。ワンピースの裾のなかに手を入れてそれを脱いだ。寝るときはストッキングを履きたくなかった。それだけでなくブラジャーも外したかったけれど我慢した。脱いだものをそっとまるめて畳み、背もたれのほうへ押しのけた。
ふと気になって、太腿の奥をさぐった。
乾いていた。
ほっとしたわけでなく、自分の冷たさに酔うような気持ちがした。私は前立てのワンピースのボタンをひとつふたつ外した。右手を差し入れて肩を撫でた。そこも冷たくて乾いていた。キャミソールの肩紐が煩わしくてブラジャーのワイヤが肋骨にあたるのが気に障った。でも脱げなかった。足の先も冷たいままだ。けれどいま、私は誰にも触れたくないし誰からも触られたくなかった。
その時も、私が彼らに守られたことはわかった。それは、わかっていた。
けれど、わからなかったこともあった。
嫉妬することを期待されていると気がついたのは、もうしばらく日にちがたってからのことだった。
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