【下書】開示:3月26日深更 1

私はその夜、初めて、桂直毅の眠っている顔をみた。

 あまりにも可愛らしく、触れるのもこわいくらい美しくて、幻のよう、などという形容詞を思い浮かべ、飽かず眺めて、絵にかいた。

 絵、かきたいんでしょ、と浅倉くんに悟られて、私は黙ってうなずいた。彼は怪我人とは思えぬ敏捷さで隣の部屋からA4のコピー用紙数枚と画板がわりのクリップボード、それからシャーペンやサインペンなどの筆記用具をもってきてくれた。

「はじめて見た」

 浅倉くんは意外そうに目を細めた。そしてすぐに私が話した言葉を思い出したらしく、遠慮がちに告げた。

「……オレの前じゃ、くうくう寝てるよ」

 だろうね、と思ったけれど私は頷いたりしなかった。べつに意趣返しというわけでもなく本音も口にした。

「ほんとに眠り姫みたいに綺麗だねえ」

 私の陶然としたつぶやきに、浅倉くんが肩を落とした。

「あんたほんと、自分のこと女だっつう自覚ないんだね」

「あるよ」

 なきゃ、こんなこと、しないってば。

 何処かで、窓ガラスの割れる音が聞こえる。甲高い悲鳴や、怒鳴り声も聞こえる。何かが倒れる音、引きずられる音。犬の遠吠えが、延々と続いている。

 それから、雨の音。

 あめのおと。

 鉛筆の芯がたてる音だけに耳をすます。紙がほんとうの雨の日のようにやわらかく湿っていることを感じながら。夜の匂いと雨のにおいが溜まる場所に、もっと違う怖いものの集積が拡がっている事実に怯えながら。何も気にしないふりをして、目の前の対象と紙の上に引かれた線をだけ追おうとしている。

「あんたにお迎えが来たらさ」

 浅倉くんが、私の手許を見つめて口にした。あまりにも唐突過ぎた。私は彼の顔をみなかった。ちょうどミズキさんの睫をかいているところだ。この微妙な反り具合、長さといい、密度といい、これ以上の優美はないだろうという睫を、根元から先端へむけて力を抜くようにしてうつしとっている。

「ミズキを一緒に連れてってよ」

「なんで」

 私は睫を終えてひとまず一息ついたものの、顔をあげなかった。今度は、故意だ。

「こいつのほうが強いし、オレより状況判断できるし、それに、ほら」

 彼はそこですこし、言いよどんだ。私がちらりと瞳をむけると、唇を噛んでから、口にした。

「こいつなら、最後まで、あんたのことちゃんと守れるし……オレは、ダメだよ」

「私のこと、殺したくなるから?」

 彼は息をつめて私を見た。

 珍しく、素直な態度だった。

 だから、私もすなおに返す。自分のおもっていることを。

「浅倉くん……男って多かれ少なかれ、そういう気持ちになるものじゃないの? まあ、それで許せるわけじゃないけど、とにかく、状況次第よね」

 今まさに、この街のどこかで、この地上のどこかで、そういう状況が繰り広げられていることを想像して、自分が今、安全な場所にいるというそれだけの理由で安穏としている――私。

 私という、女。

「たしかに、」

浅倉くんがぼそりと、言った。

「たしかに、その、状況次第だけど、この最後で、オレ」

「まだ、最後じゃないでしょう」

 私はミズキさんの黒髪に鉛筆を横にして陰影をいれながら、強い声で否定した。浅倉くんがこちらを見たのをわかってて、手許を見おろしたまま続ける。たぶん、目をみたらもう言えないだろうとわかってるから。勢いにまかせて、言ってしまう。

「まだ最後じゃないよ。水も食料もあって、雨に遮られてて、三人仲良く愛し合ってて、これのどこが最後なの。まだまだいけるでしょう」

 浅倉くんは弱い息を吐いて笑った。

「……あんたやっぱ、かっこいいね」

 そんなことないとは決して言うまいと決めていた。決めていたから次の言葉もすぐに出た。 

「かっこつけてるんだから、当たり前じゃない」

「そっか……」

 彼が鼻の頭を指でかいた。

「あのね」

 私はいったん鉛筆をおいた。

「ミズキさんも私も、浅倉くんのおかげでそうできた部分ってすごくあると思うのね」

「オレ?」

「うん。浅倉くんてよく、だいじょうぶって言うでしょう。あれ、すごく、癪に障るくらい安心しちゃうんだよね」.

「って、さっき思いっきし怒ってたじゃん」

 不満たらたらで口を尖らすので笑いそうになった。

「うん。だからね、自分が一生懸命自分を立てたくて精一杯つっぱってるとこにあれ言われると、気が抜けるし最高にムカつくんだけど、でも、やっぱり大丈夫なような気もしてうれしいの」

 浅倉くんはわかるような、わからないような顔をしていた。

 私はだから、それでいいと思った。さっき、言いきってしまってよかったと考えた。

 浅倉くんは浅倉くんで、何か思うところがあるような顔をした。だからその顔を見た。すると、なんだかよくわからないようすで口をひらく。

「オレ、あんたとかミズキとか、あと前に話した友達にも、血の匂い嗅がされてる気がしてたまらなくなることあるんだよね」

 それがどこにつながるのかわからなくて首をかしげると、彼はうつむいた。

「あんたがテントのパイプにぶつかって転んだときあったじゃん。血ぃだらだら出してさ」

「ああ、今でも膝んとこは傷のこってるよ」

 浅倉くんが、あったね、と気まずそうな顔をした。なるほど、見てるのは見てるのか、ていうか、そうだよね、昨夜この男の前で裸になったのだと今さらのように思い出した。

 私が眉をひそめると、浅倉くんは何か慌てたようなそぶりで口にした。

「オレ、好きだったからそいつに酷いことしたんじゃないよ。同情されて腹が立って、馬鹿にされたから仕返ししただけ。はっきりともう、イジメだよ」

 ソレをそう言うのではないのかと返そうとして、やめた。彼はどうして自分が同情されたのかは何があっても話そうとしない。この今になっても語らないのだから筋金入りだ。

「ミズキはおとなしく、オレに傷舐めさせてくれるんだよ。こいつ賢くて、そういうのに慣れてて割り切ってて、大胆で。たぶん、今までずっと自分がそうしてきたから合図出すのも巧くてさ」

それは、私にも理解できた。

「でもあんたはほんとよくわかんないっつうか、オレ、あのとき助け起こすつもりが頭に血が上ってっていうかぶっちゃけ、興奮して」

 彼はそこで言葉をとめてこちらを見た。その視線に臆して顎をひく。あ、嫌だな、こういうのは。なにか、厭なのがやってくるに違いない。そういう私の予感を裏切らない表情で浅倉くんが続ける。

「たぶん、あんたはオレが血ぃ見て青くなってたって思ってるよね?」

うん。男の子って苦手なひと多いから。

「それハズレ。オレあんとき倒れてるあんたの傷口に指突っ込んで腕の擦過傷舐めたいなあって思ってたの」

「……されたら蹴るよ?」

 頭を抱えそうな気持ちで言い返す。傷を舐めるが比喩じゃなかったとは。

「だよね」

 ふつうに、なんでもない笑顔だった。

 ああ、だから。

 だから、だよなと。その笑顔にそう思わされた。

 だから、なんなのだと言葉にするのはむずかしかった。ぼうっとしていた。それがいささか癪な気がして、

「浅倉くん」

 私が続きを言いかける前に、

「龍村さんに、あそこで点数稼がないでどうするって叱られて正直に話したんだよね。オレの高校んときの件も含めてさ。そしたらあの人、馬鹿かお前、そこ堪えて優しくすんのが男だろって、じゃなきゃまんまケダモノだって言い捨てられて反省した」

 龍村くん、いいオトコだなあ。私の思ってることを察したのか、

「あの人やさしいよね」

 深くうなずいた。そして、どうしているだろうと考えるのをやめた。考えて、どうなるものでもないと、生まれて初めて感じている。

「でもオレは全然だめ。オレ、あんたが酒井さんと付き合ってるって聞いたあと、ほんともう無理やりにでも奪い取ってやろうかって考えたことあって」

 ちらりと、再び私の顔を盗み見た。いちいち反応を気にしながら喋られてもなあと思いながら、

「べつに驚いてないよ。酒井くんのこと嫌いだっていう男の子に似たようなこと言われたことある」

 浅倉くんがあからさまに眉を寄せた。自分はしてもいいくせに、他人がそれをするのは許さないっていう顔だった。

「男ってほんと、頭悪いし無神経だよね」

 私の表情を読み、ほんとオレもそう思う、と浅倉くんが苦笑して続けた。

「けど、酒井さんがあの調子で、付き合うんならフラ語の女だって自慢するの聞くと気ぃ狂いそうになったっつうか」

「数がいないから稀少価値だしエロティックな幻想を持ちやすかったんだろうね」

 呆れ声で返すと、彼がくつくつ喉を鳴らしてこたえた。

「それはオレも、すげー持ってたかも」

 ほら、やっぱり持ってたじゃないか。そう言い返そうとしたところで、

「現実のほうがずっと、破壊力あったけどね」

 そう、つぶやきが聞こえた。

「……破壊力っていうか、ミズキじゃないけど、諸手をあげて降参してる」

 それはなんだか、私がものすごく淫乱なひとのようじゃないか。実際そうなのかもしれないけど、そこは、そうじゃないだろ。

「浅倉くん、それはただたんに、自分の好きなひととしてるから気持ちいいせいじゃないの?」

「げ」

 げ、とか言われたし。

彼は、それはオレが言うことじゃないの、と笑った。

「じゃあ私は、その挙げた両手をぐるぐる縛って好きにさせてもらおうかなあっと」

「ハイ?」

 裏返った声に、私は声をたてて笑った。こんなにしても、ミズキさんが目を覚まさないのがなんだか申し訳ないような気がした。このひとが、この状態で目を覚まさないのが本当につらかった。つらい、いたい、くるしい、どうしたらいいかわからない……。

「え、それ……」

 浅倉くんは私の動揺に頓着していなかった。私はそれで自分を取り戻す。

「冗談よ」

「やりたいなら、やってよ。つうか、ほんとにあんたになら何されてもいいし」

 真顔でこたえられた。そう言うだろうなあと予測して、わざと言わせた。

「ミズキさんに、今日みたいな無茶させないようにできる?」

 浅倉くんは難しい顔をして私を見た。

「不可能?」

「……それは、あんたが言ったように、エゴじゃないの?」

 わかってる。それは、わかってる。でも、あんなことを度々仕出かされては、私の身がもたない。ほんとうに。

 ああ、やばい。

 こういうはなしをしているともっていかれる。

 もっていかれたらだめだ、だめだから。

 私は浅倉くんの口を塞ぐ。唇で。

 え、という顔をした。

「キスだけ。それだけできもちよくして」

 言い終わる前に舌がしのびこんできた。


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