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 ラファエルが何故そんなに怒っているのかよくわからなかった。ちゃんと自分のことを考えなさいとくりかえした。死ぬかもしれないんですよ、と。

 ちゃんとって何さ、と私は思った。

 誰も何もちゃんとしてなかったよ、と。

 ラファエルが言ったんじゃない、わたしたちが来る前から滅茶苦茶だったと。


 死ぬかもしれないって、ここにいたっていつか死ぬんじゃないかと思ったけれど尋ねられなかった。死なさないよう監視されているのは理解できていたから。


 だいたい日記をちゃんと書いておけば生きて帰れる目算が高くなるとかっていうのが始めからおかしかった。書かれたものにだけ人生があるとか歴史になるだとか馬鹿かと言ってやりたかったけれど我慢した。記録のないものなんて、そりゃナイもいっしょだと言いたい気持ちもないではなかった。

 それに、ラファエルが怖い顔をしていた。そんな当たり前のことくらいどれほど考え尽くしたのかわからないとその卵形の綺麗な顔に転写されていた。ああ、たぶん、この質問を数えるのも忘れたくらい喰らったのだなとわかった。


 覚悟を決めてしまうと、ひどく単純になるような気もした。私はラファエルの小言を堂々と無視した。些末なことだと思ったのでなく、意趣返しをしたかった。

 ひとを危険地帯であろう場所へ送り出すのに彼は安全な場所にいるのだという気持ちもないではなかった。いや、それほど単純ではないか。


 何かもう少し、複雑な想いが私のなかにあった。


 ともかくせめて読めるようなものに仕上げなさいとラファエルが言った。

 あなたが読んで読めたのなら、つまり判読できたんだから、それでもう読めるよ十分じゃないと私は笑った。どうしてもっていうなら誤字脱字くらい直すし、もうそれでいいじゃないと。

 ラファエルは癇癪を起こしそうな顔つきでいた。


 私がサインをしてからラファエルは容易に感情を波立たせるようになっていた。それを指摘すると、ああ、貴女がわたしの〈クライアント〉ではなくなったのでとあっけらかんとこたえた。クライアントという冷めた言い方は今までラファエルの発した言葉のなかでいちばんクールだと思ったのだけど、そう言い返したら、貴女わたしのこと馬鹿にしましたねとぞっとするような微笑みを見せた。すこし、寒気がした。

 笑い事じゃなく、彼らが地球外生物だったと思い出した。


 クライアントが客なのか患者なのか何なのか知らないが、私は私で下書を読みかえす作業に入った。以前ほど、嫌なきもちにはならなかった。恐ろしいものがそこにあるという感受性が鈍ったのかもしれないと考えもした。でも、どうもそういうことではなかった。


 自分だけ生き残ったことを愧じる必要がない、そういう気持ちが私を楽にしているのだと考えた。

 それが正しいか間違っているかどうかわからない。

 ただし、そういうふうに感じたのは事実だ。


 裏切りがあったことを私は忘れていたし、いなくなってしまった彼らが本当に死んだのかどうかもこれを読んだだけではわからなかった。錯乱していたせい、というのでもなく、私が断定を避けたわけでもなく。


 私はひとりでわらっていた。

 なるほど、それはもちろんそうだった。

 あれからどのくらい月日がたったのか本当のところはわからない。けれど、彼らと違って私は「変わった」のだ。


 そのままではいられないという現実のなんという惨めさ。


 私はそう嘯いて日記を閉じた。

 目が、疲れていた。


 それにより、天使たちが私を「人間」らしく整えはじめたことに気がついた。

 すぐに出立しないとの話しだったけれど。

 行かない、ということはなさそうだった。


 「歴史は勝者が書く。伝承は民衆が紡ぎ出す。文学者たちは空想する。確かなものは、死だけである」------ダニロ・キシュ『死者の百科事典』より


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