審判の日 非洗礼 206

「ミズキ」

 そこで少し、ミズキさんは何かを探るような仕種で間をとった。浅倉くんからも、そして私からさえも距離を置いたみたいに見えた。その証拠に、すっと長い扇形の睫のしたで、遠くを見はるかす瞳が黒々と濡れて光っている。

「僕たちはもう、滅びることが決まった世界に生きている。抜け出す以外、道はない。僕は、姫香ちゃんが死ぬのはイヤだし、それはこわい」

 思えば、このひとは誰よりも早く、この世界の崩壊を予期していたのだ。私がその顔を仰ぎ見ようとすると、彼は私の視線をよけるかのように目を伏せてかるく首をふった。

「僕は、それは、いやだ。それだけは厭だ。そんなことはたえられない。浅倉やよその男にとられるくらいなら手をかけたいと思ったこともあるけど、こうなってみるともう、そういう気持ちにはなれないよ。不思議だね」

「ミズキさん……」

 なんで名前を呼んでしまったのかわからない。けれど、彼は私の呼び声を無視して瞳をあけ、ただ目の前の男にだけ全神経を傾けた。

「だから、浅倉が姫香ちゃんに手をかけるっていうなら、僕は」

 とても静かな、それでいて殺気とでもいうべき冷ややかで陰惨な緊張がミズキさんの長身に漲っていた。

 そして、当たり前に、相対する人物も同じように身構えた。

 その刹那。

 ついにおのれの緊張が頂点に達するかと思いきや、ふたりの人物が互いだけを瞳に映しあうのを見て取って、私は一気にその場から抜け落ちた。

 ちょっと待て。

 私のことは本当にホントウに完璧に無視、なんだ。この状況で。

 私のことなのに、私の生命やら行く末のことなのに、私のこと、まったく・完全に・真剣に無視、なんだ。

 いつの間にか身体の震えはおさまっていた。かわりに襲いきたのは言いようのない、説明不能な馬鹿馬鹿しさだ。明日をもわからぬときに、このひとたちは一体全体なにやってるんだ。馬鹿じゃないの? そういう、正真正銘の愚かしさを目の当たりにした脱力だった。だから、 

「ふたりとも、ちょっとは冷静になろうよ」

 間に割って入ろうとすると、ミズキさんが私を自分の後ろに押しのけた。

「ねえ」

「危ないからさがってて」

 そりゃさがってるけどさ。怪我したくないし。でも、

「なんでそんなことで興奮してるのよ。頭おかしすぎるよ」

「黙ってろよっ」

 浅倉くんの怒声に、さっきもきいたそのせりふに、本気で無性に腹が立った。このひとたち、私のことなんて結局はなんにも考えてないじゃないか。自分の都合ばっかりで私の気持ちなんて完璧にムシだし。ほんと、どうしようもない。守るとかいって、それでコレなんだ。ほんと情けないっていうか欲望に正直すぎるっていうかなんていうか。まあそれは私も同じだけど。たしかに同じだけど!

 人間、切羽詰まると本性って出るよね。まあそれはしょうがないけどさ。ほんと、なんのかんの言っても自分がいちばん大事。じぶんの希望、欲望こそが大事。命より、欲望が大事なひともいる。そういう意味じゃほんとに、私も自分がイチバン大事だよ。だから怖くて泣いちゃうし、全世界に否って叫ぶ。弱虫で卑怯で怠惰だけど、でも、これは絶対に許せないよ!!

 とにかく。

 今ここで声をあげても逆効果だ。よけい血を逸らせるだけだろう。

 ……ああ、もう。

 ああもう、ほんともう、なんで私が。

 なんで私が面倒みなきゃいけないのよ。

 そういう憤りはたしかにある。けど。

 でも。

 究極的にいえば、私のせいか。

 私が、たしかに根本原因ではあるよね。

 この地球のことはともかくも、このふたりのことは。

 だとしたら。

 ああもう、ホント、本当に、しょうがないなあ。

 私は、これまでの人生でいちばん盛大なため息をついていた。

 そんなわけで、それから素直に後ろへさがり隣の部屋に行くことにした。ほうっておく。

「どこ行くつもりだよ!」

 踵を返した私に気づき、浅倉くんの怒鳴り声が追ってきた。くりかえし肩越しに怒声を聞くけれど、無視した。そっちがそうなら、私も好きにするさ。慮外者めが!

「おいっ」

「寝る。ふたりで勝手にやってれば」

 歩きながら夜会巻きにしていたピンに手をかけてはずし、手櫛でといて頭を揺すった。お気に入りのシャンプーの残り香をかぎながら、あれがこの世で最後の禊だったかと懐かしく思う。

 この世で最後だというのなら、どんなことをしたっていいだろうという自棄っぱちな気分になっていた。なので、我ながら大した度胸だと思いながら告げてみた。

「天使は寝室には入ってこないらしいよ」

 先に抱きついてきたのはやっぱり、浅倉くんだった。ほんとに足、怪我してるんだよね、という走りっぷりで、飛びついてきた。こんなときだけ素早いとは、まあそれはいつものことか。

 そのまま引きずられるようにして部屋に入り、振り返ると、ドアを後ろ手に閉めたミズキさんが、よく出来ました、という顔で目じりをさげた。

 まったく。

 いいように踊らされている。

 浅倉くん、上司と友達はもっと慎重に選んだほうがいいと思うよ。

 でもまあ、彼はそれでいいのだ。

 いや、お互い、それがいいのだ。

 だから私は、それを善しとしよう。

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